第二一二話 荒れ地の魔女 七 農村にて
料理教室も好評のうちに終わり、真綾は昼食後、荒れ地の魔女を目撃した者らのいる村へと男爵に案内された。
なお、料理教室で作った料理は、すべて、関係者一同がおいしくいただいたので、ご心配なく。
「――ほう、マーヤ嬢はラッツハイム男爵とお知り合いでしたか」
村までの道中、真綾と会話しているうちにラタトスクの話になり、その流れからラッツハイム男爵の名前が出てくると、ロシュトルフ男爵は、いかにも彼を知っていそうな反応を示した。
ちなみに、真綾が乗馬も得意(流鏑馬もできるレベルで……)だということで、現在、男爵と真綾、そして、従者兼従騎士にして副執事や従僕のような仕事までこなす若者、この三名が、それぞれ馬を操って村へと向かっているのだが、真綾は今回、熊野のコーディネートにより、乗馬服とブーツ、そして黒い乗馬用コートという装いのため、男爵の館を出立する際、その凛と美しい騎乗姿を見て若い従者が頬を染め、女性使用人たちも黄色い声を上げたことは、言うまでもない。
「お友達ですか?」
「いやいや、私の学生時代に学院でよく見かけただけですよ、彼は私より五歳前後も若かったはずですし、所属する学生団も違っていましたから、言葉を交わしたことさえありません。ただ、当時、彼はいつも有名人たちと一緒にいましたからね、名前くらいは覚えているんです」
「有名人?」
「はい。現在の皇帝陛下に北部低地公閣下、それから帝国最強の竜騎士の息子とか、それはもう、錚々たる面々でしたよ。あれほど豪華な顔ぶれが同時期に在学していたなんて、今考えると奇跡のようなことです。……あのころは学院の黄金時代だったなあ」
くつわを並べ、珍しく真綾のほうから幾度も問いかけると、それに答えた男爵は視線を遠くして若き日に思いを馳せた。
おじさんには、青春の日々を懐かしむ時もあるのだ。
「ところでマーヤ嬢、ラッツハイム男爵とお知り合いということなら、彼の領地や城館へも行かれましたか?」
「はい、何度も」
遠き日から意識を戻した男爵は真綾に問い、問われたほうは、レーンガウでの楽しき日々を思い出しつつ頷いた。
カール一家や村人たちとともに葡萄を収穫したこと、カールの馬車に揺られてラッツハイム男爵邸を訪れたこと、小マーヤと一緒に葡萄ジュースを飲んだこと。愛すべき人々の家族としてあの地で過ごした時間は、真綾にとってかけがえのない宝物だ。
「そうですか、それでは、この辺りの村々や私の館を見て、かの地とのあまりの違いに驚かれたことでしょう……。ラッツハイム男爵領のあるレーン川沿いやその支流域では、商品価値の高い葡萄栽培とワイン醸造が盛んですから、領主たちはもちろん、農民たちも比較的裕福と聞きますが、この辺りでは都市こそ栄えているものの、耕作に不向きな土地のせいで農民たちは帝国内でも群を抜いて貧しく、当然、その領主たる私の暮らし向きも、恥ずかしながらあの有り様なんですよ」
男爵は自嘲するような笑みを浮かべてそこまで言うと、真綾の顔から視線を移し、広大な荒れ地を遠く眺めながら続ける――。
「……私の領地では税率を下げているので、まだマシなほうですが、自分の贅沢のためだけに高い税を課すような者の領地では、困窮の果てに土地を捨てて都市へ移る者も珍しくなく、その結果、村そのものが消えてしまったという実例もありますし、どうしようもない貧困ゆえに失われた命も……。至高なる三女神様は、どうしてこのような土地を我らに与え給うたのだ……」
ひとりごとのようにつぶやいて語り終えた男爵の、憂いに満ちた表情を見て、――自分ではなく領民の、しかも他領の民のことまで憂いているこの人は、たとえ武力や財力こそ乏しくとも、なんて心豊かな人なのだろう――と、真綾は素直に尊敬するのだった。
◇ ◇ ◇
しんみりとした騎行はほどなく終わり、真綾たちはロシュトルフ男爵領内にある村のひとつに着いた。
ただ、村に着いたとは言ったものの、集落の中ではなく、村人たちが何やら作業している畑の前である。
ロシュトルフ男爵に気づいた村人たちが大きく手を振り、男爵もまた気さくに振り返したところを見るに、男爵と領民の関係はかなり良好らしい。
そうやって鞍上から軽い挨拶を済ませたあと、すぐに男爵が下馬したため、真綾と従者も馬から下りていると、そこへ初老の農夫がひとり歩いて来て、おそらく礼儀のつもりなのだろう、防寒用の帽子を脱いだ。
「ご領主様、良い新年を」
「良い新年を、村長」
農夫は村長だったらしく、にこやかに新年の挨拶を交わした村長と男爵は、畑のことについて話し始めた。
「やってるな」
「へえ。前回、いい結果が出たもんで、みんなと話して今回からはすべての畑でやることに決めました」
「そうか、収穫が楽しみだな」
「そりゃあもう、ご覧のとおり、みんなも今から楽しみにしてます。これもぜんぶ、ご領主様のおかげでさあ」
男爵の言葉に破顔して答える村長。では、彼らが話題にしている作業とは、どういったものなのだろうか?
今まさに畑で行われているその作業を、真綾は信じられぬ思いで眺めていた。……いや、正確には、熊野が。
『どうして、麦踏みが……』
……そう、村の老若男女が畝ごとに並び、元日ということもあってか楽しげに、秋播きのライ麦らしき若草を蟹歩きのようにして踏みつけているのだ。
「『たしかに、ああすることで、倒伏の防止、穂揃いの改善、根張りの促進、霜害の軽減、分げつの促進、などなど、いくつもの効果が期待できますが、麦踏みは日本独自の手法だったはず……』」
――と、熊野の心の声をわざわざ真綾が声にしてしまったことで、それを耳にした男爵は驚いた。
「なんと、マーヤ嬢は麦踏みをご存じでしたか!? おっしゃるとおり、冬の間、土の乾いている時にああすることで、数々の効果を得られ、結果的に収量も増大しますが、私の研究がようやく実を結んだばかりだというのに、マーヤ嬢のご領地では、すでに確立された手法だったんですね?」
「『まさかとは存じますが、こちらでは、ロシュトルフ男爵様がおひとりで発明なさったのですか?』」
目を丸くして聞いてきた男爵に、熊野は真綾の口を借りて、驚くのはこちらのほうだとばかりに聞き返した。
「はい。実は、数年前の冬に野盗どもがここを通り過ぎた際、連中に踏み荒らされた畑がありまして、それからどうなるか気になって私は観察を始めたんですがね、なんと、その畑の麦は何日もかけてまた立ち上がると、その後は、霜で持ち上がることも倒れることもほとんどなく、しかも、より多くの穂をつけたものですから、それ以来、一部の畑を使って麦踏みの研究をしていたんですよ」
「『それは素晴らしい。男爵様には農学の才がおありなのですね』」
「いやあ、お恥ずかしい」
こうした観察眼と地道な研究の成果は、やがて多くの人を救うことにもなろう。
そんなわけで真綾の口を借りて熊野が男爵を褒め、褒められたほうが照れくさそうにしていると、村長は領主と話している絶世の美女のことが気になり、とはいえ、見るからに貴族のご令嬢に違いない彼女の気分を害するわけにもいかぬため、可能な限り口調に気をつけつつ男爵に尋ねることにした。
「……あのう、ご領主様、こちらのベッピンさ――たいへんお美しいお嬢様は、いったいどちら様で?」
「ああ、紹介が遅れたな。――マーヤ嬢、彼がこの村の村長です。――村長、こちらはマーヤ嬢だ。喜べ、彼女は荒れ地の魔女を調査するために来てくださった狩人だ、しかも、これほど麗しいご令嬢ながら、金ランクまで上り詰めた実力者だぞ」
「なんと! 金ランク!?」
男爵から自慢げに真綾を紹介されたとたん、目ん玉ひん剥いて驚く村長。……致し方あるまい、引き受けてくれる銀ランク狩人がいればラッキーとは思えども、まさか、こんな僻地に金ランク狩人が来てくれるなど、彼とて夢にも思わなかったのだから。
「おおーい! みんなー! ご領主様が狩人を連れ帰ってくだすったぞー!」
当然のごとく村長は大喜びし、その喜びを分かち合うべく村人たちに大声で知らせたものだから、それを聞くや村人たちは麦踏みを中断し、表情も明るくワラワラと集まってきた。
「みんな喜べ、荒地の魔女について調べてもらえることになったぞ。しかも、こちらのお嬢様はな、金ランクにまで上り詰めたってぇスゲェお方なんだぞ」
皆の集まったことを確認すると、村長は鼻高々に真綾を紹介したのだが――。
「へぇー、そいつぁスゲェ。金ランクって、たしか、でっけぇ熊と一対一で殺り合えるような達人だろ?」
「カッケー!」
「まさか金ランクの狩人を拝めるとはのう、長生きした甲斐があったわい」
「とんでもねぇベッピンさんだあ……」
「はー、きれいな人もいるもんだねぇ」
「素敵……」
――などと、真綾を見た村人たちはそれぞれ反応を示し、最終的に……。
「それにしても……でけぇなあ」
「それにしても……大きいねぇ」
……と、全員口を揃えて、真綾的に嬉しくない感想で締めるのであった。




