第二〇話 バーデンボーデン 二 初めての異世界都市
男たちの背中を見送ってからおよそ二時間後、異世界に来てから初めて訪れる町の前で、真綾は両手をバッと空に掲げて仁王立ちしていた。
「降、臨」
親友と日本でやっていたノリが、なかなか抜けないようである……。
『思っていたよりも立派な町です。いかにも城塞都市といった感じで、とても雰囲気がありますね~』
熊野が感心しているように、町は石積みの高い壁でぐるりと囲われていた。敷地形状は中国の城塞都市のような方形ではなく、どうやら地形に合わせて壁を建造したようだ。
要所要所には塔が立っており、その塔と塔とをつなぐ壁の上には、守備側の通路兼防御施設になる歩廊が完備され、射撃口となる矢狭間が等間隔に並んでいる。
それは町というより、親友の愛蔵書で真綾も見たことがある〈西洋の城塞都市〉、そのものだった。
(花ちゃんにも見せたかった……)
『はい、本当に……あ、あちらが門のようでございますよ。真綾様、行ってみましょう』
お城好きの親友を思い出し、真綾が少し寂しい気持ちになっていると、熊野が壁の一部に人の列を見つけた。
すぐに気を取り直した真綾はそちらへスタスタと歩き出す。
近づいてみれば、やはり熊野が言ったとおり立派な門があり、そこから入市待ちらしき人の列が続いていた。
その最後尾までやってくると、真綾は大人しく並ぶことにした。
『それにいたしましても……。わたくし、都市に出入りする人は商人や近郷の農民が多いと思っていたのですが……ずいぶんと物々しい格好の方ばかりですね。……ああ、なるほど、そういうことですか』
(どういうことですか?)
列に並ぶ人々を見て何か納得している熊野に、真綾は尋ねた。
『はい、森を抜けてからここまでに廃村しかございませんでしたね。それに、耕作できそうな広い土地も荒地のままでした』
(はい)
『おそらく、大鴉の森が危険地帯になったことで、この城塞都市より東が放棄されたのだと思われます。そしてこの門は東門、つまり放棄された森側に向けた門ですので、出入りするのは先ほどお逃げになった方々のように、武装して獣や魔物を狩ることを生業とする方だけなのでしょう』
(おー)
もっともな推論を立てる熊野に、真綾は心の中でパチパチと手を叩いた。
言われてみれば、列に並んでいるのはたしかに屈強な男ばかり。しかも全員がレザーアーマーや剣などで武装している。
だが、真綾は熊野と少し違うところに気づいていた――。
(熊野さん)
『はい、いかがなさいました?』
(少し、小さくないですか?)
『あ……』
……そう、真綾は、彼女にとって結構重要なところに気づいてしまったのだ。
欧米人といえば日本人よりも平均身長が高く、真綾くらいの身長がある女性はザラにいるはず……。だがしかし、列に並ぶ人々は明らかに欧米系人種だと思われるのに、真綾より目線の高い者が……ひとりとしていないのだ……。
『……日本でもそうでしたが、食糧事情などの関係から、昔の欧米人は真綾様の時代よりも小柄だったようですので……』
(…………)
真綾、愕然である……。花から借りた小説では、異世界人が現代の欧米人並みの体格だったため、彼女も密かに期待していたというのに……。
『小説のようにはいきませんね……』
熊野のしみじみとした声が真綾の頭に虚しく響いたころ、門の内側から転がるように走り出てくる男の姿が見えた。
列に並ぶ人々とは明らかに違う、仕立てのよい服を着たその男は、やがて真綾の前まで来ると、走ったせいでゼーハーゼーハーと荒くなっている息を整えた。
その一方、彼の登場により最後尾の真綾にやっと気づいた人々が、明らかに場違いな彼女を見て、にわかに騒然とし始める。
そんなざわめきをよそに、ようやく落ち着いたらしい男は、ゴクリと一度つばを飲み込んでから……右足を後ろに引き、右手を胸下に当て、左手を体の横に伸ばすと、真綾に恭しく頭を下げた。
そして、男は顔を上げると――。
「これはこれは神のご寵愛受けし貴きお嬢様、バーデンボーデンへようこそ。ご案内が遅れてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。――かような場所でお並びなさらずとも結構でございますゆえ、ささ、こちらへお越しくださいませ」
――ずいぶんと丁寧な物言いで、真綾に列から抜けるよう誘った。彼がそうした理由まではわからないが、それが特別待遇なのは明らかである。
だがしかし。
「いえ、並びます」
真綾はそれを断った。
「……わかりました。それでは、わたくしめは門のほうへいったん戻り、あなた様のご到着をお待ち申し上げますので、ご案内はその時に。――失礼いたします」
男は一瞬、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で固まったあと、ふたたび恭しく頭を下げてから門へと帰っていった。
すると、真綾と男のやりとりを見守っていた人々が、なぜだか一斉にドッと沸いた。
真綾にサムズアップしたり指笛を吹いたりしていた若者たちが、慌てた様子の年長者に頭を小突かれている。彼らの真綾に対する視線はおおむね好意的なようだ。
『よろしかったのですか?』
(はい、みんなに悪いから)
真綾は頭の中で熊野に平然と答えた。祖父から真っ当に育てられた彼女には、先に並んでいた人々をすっ飛ばすことへの強い抵抗感があったのだ。真綾はできた姫様なのであった。
◇ ◇ ◇
やがて門に着いた真綾は、言葉どおり彼女を待ってくれていた例の男によって、市壁内側の建物にある一室へと案内されていた――。
調度品などから貴人の応対用だと思われる部屋に、ノーアと名乗った例の男の、やたらと丁寧な声音が流れる。
「ご案内が遅れましたこと、重ねてお詫び申し上げます。……なにぶん、こちらの門から貴きお方をお迎えすることなど、魔物討伐の際しかございませんので、普段わたくしめは他の門に詰めておりまして、知らせを聞き、慌て馳せ参じた次第で――」
「大丈夫です」
額に玉の汗を浮かべながら謝罪するノーアに、真綾は短くひとことだけを返した。彼女にしてみれば、壮年の男性に顔を蒼くして謝られることなど、された覚えが全然ないのだ。
「ありがとうございます、慈悲深きあなた様に感謝を。――それでは、職務上いくつか質問させていただきたいのですが、お許し願えますか?」
「はい」
真綾の返事を聞いたノーアは、奥の机で座る書記役らしき若者に目配せすると、相変わらず丁寧な口調で質問を始めた。
「それではまず、あなた様のご尊名をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
その問いかけに自分の名前を言おうとした真綾へ、なぜか熊野が声をかける。
『真綾様、クレメンティーネ様にお聞きした話ですと、このあたりは姓名の順が日本とは逆のようです。ここはいらぬ誤解を避けるためにも、それに合わせて名乗られたほうがよろしいかと』
(なるほど)
さすがは熊野さん、などと感心しながらも真綾は名乗った。いつものように美しい姿勢で、堂々とした威厳にも満ちて。
「真綾羅城門です」
――この世界で後世までも語り継がれる〈黒き乙女〉こと、〈マーヤ・ラ・ジョーモン〉が、ここに爆誕したのであった。
◇ ◇ ◇
ようやく用件を済ませ、建物の外で真綾の背中を見送ったノーアは、応接室へ帰ってくるなり思いきり深く息を吐いた。
足の力が一気に抜けていくのがわかる、今の今まで生きた心地がしなかったのだ。
「ノーアさん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。たしかに息が止まるほどの美人でしたが、どうしてそんなに――」
「まだ若いお前に、長年この仕事を続けている私から、いいことを教えてやろう。長生きするためのコツだ」
「あ、はい」
自分の問いかけを遮るようにして語り出したノーアに、若い部下は慌てて頷いた。
「ひとつ、〈伯爵級〉以上の魔物を見たら何も考えずに逃げろ」
「それなら、もちろん知ってますよ」
「そりゃよかった。じゃあもうひとつ、貴族、特に〈城伯〉以上の爵位持ちは何があっても怒らせるな」
指を二本立てて言うノーアには、都市を出入りする貴族たちを長年応対してきた人間の、妙な説得力があった。
「たしかに、よく手入れされた髪や肌、あの服装、洗練された立ち居振る舞い、ああ、それから世間知らずなことから、いいとこのお嬢様らしいってのは私でもわかりましたが、彼女自身が城伯以上の爵位持ちだなんて、どうしてわかったんですか?」
「お前、なかなかスジがいいぞ。――いいだろう、この都市の存亡にも関わることだから教えてやろう。よく覚えておけ」
「は、はい」
ノーアは部下が書き留めていた調書の一部を指差した。
「まず、質問に直接の関係はないが、ここは気をつけておけ。――名前だ。お前も知っているだろうが、家名があるということは彼女が貴族家の者だということだ。さらに、家名の前に定冠詞『ラ』が入っていることから、おそらくは、隣の大国セファロニアの貴族のなかでも、特に由緒ある家柄だというのがわかる。そのうえで、セファロニア貴族を表す前置詞『ド』をあえて言わなかったのは、やんごとなき事情があるからに違いない。私たちは下手に関わらないほうがいいだろう」
「……なるほど」
「次に、質問の答え。『彼女はひとりだった』――よく考えてみろ、あれほど美しく身なりのよい女性が、従者も護衛も付けずにたったひとりで旅をして、果たして無事でいられると思うか? それを彼女は、自分ちの庭でも歩くみたいにやってるんだぞ。――それでだ、男爵の強さは普通の人間とさして変わらない、つまり、彼女には城伯以上の力がある、ということにはならないか? ――まれにいるんだよ、ああやって従者も付けずにフラッとやってくる貴族が。しかも実力のある上級貴族ほどその傾向が強い。わざわざ各門にこんな部屋を設けているのもそのためだ」
今日は目端の利く門衛が東門にいて、貴族らしい女性の接近を知らせてくれたから助かったものの、門衛は自分の仕事と違い各ギルドが持ち回りで人を出しているから、なかには無知な者も当然いる。もし、そんな門衛が失礼な応対をしていたら……。
ノーアの背中に冷たい汗が流れる。
そんな彼の説明を真剣な表情で聞いていた部下は、経験豊富な上司の洞察力に舌を巻いた。
「たしかに……。さすがノーアさんだ、尊敬します!」
素直に尊敬の目を向けてくる部下に苦笑しながらも、ノーアは密かに安心した。
(こいつは聡いし洞察力もある、それに素直だ。教えられたことをどんどん吸い取って、もう何年か経験を積めば、一人前の仕事ができるようになるだろう。……私が穏やかな余生を過ごせるようになる日は、そう遠くないのかもしれないな……)
そんな上司の心中など知るよしもない部下は、東門の門衛たちから聞いた話を思い出した。
「ああ、そういえば、ここの門衛が話してたんですが――」
「なんだ?」
「ええ、今から一時間ちょっと前に、命からがら帰ってきた狩人たちがいたらしいんです。それでね、その狩人たちが言うには、たしか今日の昼過ぎに、ここから二時間ほど歩いたあたりだったかな? 大鴉の森で〈伯爵級〉の魔物に襲われたらしいんですよ」
「何っ!」
本当に〈伯爵級〉の魔物が、しかも、ここからそんな近距離に現れたのなら一大事だ。
これはひょっとすると、森の安全確認が終わるか貴族が直々に討伐してくれるまで、東門は閉鎖になるかもしれない……。
ノーアが思考の海に入っていこうとしていると、部下はさらに驚くべき、いや、恐るべき話を続けた。
「しかもですよ、見たこともない漆黒の魔物が現れて、その〈伯爵級〉を瞬殺したらしいんですよ。これが若い狩人の話だったら笑って終わりだったんですが、ギルドからの信頼も厚いベテランだったもんだから、狩人たちは〈黒き王〉だとか名前まで付けて大騒ぎですよ。……まさか本当に〈王級〉の魔物ってことはないですよね、ハハ……」
「黒き王……」
急な来客を迎えるため慌てて点けていた魔導ランプの明かりが、彼らの心を映したようにゆらゆらと揺らめいた。
ただでさえ怪しい事件が多発しているという状況下で、近くにそんな大物まで現れるとは、このバーデンボーデンは、この先どうなってしまうのだろう……。
「……まあ、いずれにせよ、私たちの考えることじゃない。あとはお貴族様が判断してくれるだろうさ」
部下にはそう言ったものの、ノーアは思い出していた、自分がついさっきまで応対していた、マーヤ・ラ・ジョーモンと名乗る美しき女貴族のことを。
そもそも彼女はどこから来たのだろう? 彼女の背中の向こうには、黒々とした大鴉の森が広がっていなかったか?
まさか、彼女はあんな軽装で、しかも、たったひとりきりで、あの魔境を抜けてきたというのだろうか、汚れのひとつすらなく、涼しげな顔のまま……。
その時ノーアの中で、真綾の黒髪、身に着けていた黒い衣装、そして黒い編み上げブーツ、それらが〈黒き王〉という名と結びついた。
「馬鹿げてる……」
苦笑しながらそうつぶやくと、ノーアは自分の考えを忘れることにした。
今日は家に帰ったら、とっておきのワインを出そう、魔物と貴族のことは考えないに限る。
それがもうひとつの、長生きするコツだった――。




