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第二〇六話 荒れ地の魔女 一 ジョギング



 時は少し遡り――。


 アイゼナハトの宿で真綾と会食した貴族の大半は、彼女の向かう先が北東だと聞いて喜び勇んだ。

 なぜ? 彼らの思惑はこうだ――。

 テューニンゲン方伯領は南西から北東へと伸びる形をしており、アイゼナハトはその南西部に位置するため、これから北東へ向かうということは、自分の領地かその近辺をマーヤ姫が通るかもしれない。

 文化大国の姫君にして神すら凌ぐという空前絶後の貴人を、自分の城館へ招いて歓待したともなれば、他家に自慢できるどころか歴史に残る大偉業であるし、ファッションその他諸々の文化的事柄について、彼女にご教授願えたならば、自分が帝国の文化的リーダーになれるかもしれない。

 それに、もし彼女に目をかけてもらえたなら、神殺しの姫君を後ろ盾に、諸侯すら凌ぐ発言力を得ることも夢ではなかろう。

 貴族たちが、この好機を見逃すものか……。


「あのう……。マーヤ姫殿下、不躾ではございますが、アタクシもちょうど明日から北東へ帰るところでしたので、もしよろしければ、当家の――ヒッ!」


 会食の場で、ひとりの女城伯が真綾を誘おうとしたものの、伯爵らを始めとする全員から睨みつけられて悲鳴を上げた。

 それを皮切りにして、貴族……特に伯爵たちが、真綾を巡って醜い喧嘩を初めてしまったことは、前にも語ったとおりである。

 結局、彼女がアイゼナハトにいるうちは誘わないという紳士協定が結ばれ、翌日、彼女の出立時期を見計らい、それぞれアイゼナハトから少し離れた街道の上に馬車を停め、網を張っていたのだが――。


「おおっ! マーヤ姫殿下ではございませんか! なんという奇遇――」


 タッタッタッタッ……。


「あら、マーヤ姫殿下、ご機嫌麗し――」


 タッタッタッタッタッ……。


 真綾の姿を補足するや、停めてあった馬車から貴族たちが顔を覗かせて、わざとらしく声をかけようとするも、彼女はその横を走り過ぎて行った。

 無論、貴族たちとて黙ってはおらず、すぐに馬車を出させて彼女を追ったのだが……。


「お、追いつけない……」


 ……そのことごとくを置き去りにして、真綾は走り去った。

 守護者に彼女を追わせようと考えた者もいたが、それは貴族の常識的に不敬なことであり、彼女の逆鱗に触れかねないため、涙を呑んで断念し、結果的に誰ひとりとして会話さえできぬまま、貴族たちは彼女を完全に見失ったのである。

 それにしても、どうして真綾は走っていたのだろう?


「気持ちいい」

『ランナーズ・ハイというものでございますね。とうとう真綾様も、適度な運動のあとのお食事が格別だということに、お気づきになりましたか』

「はい」

『さあ参りましょう、イケイケドンドンでございますよ~!』


 ……そう、真綾と熊野の会話でわかるように、ルートヴィヒ救出のため迷いの森まで走った際、真綾はジョギングに目覚めてしまったのだ。

 昔のアメ車並みに燃費が悪い彼女は、太る心配などしたこともないくせに、女子はダイエットをするものという、漠然とした知識だけは持っているため、いかにもそれっぽく走っていると、まるで自分が普通の女子にでもなったような気がして、まんざらでもないのであった。……ただし、その走行距離とスピードは、適度な運動やジョギングの範疇を逸脱しているのだが。

 たしか、アイゼナハトを出た時はセーラー服姿だったはずなのに、いつの間にか中学校の体操着に着替えてスニーカーを履き、髪をポニーテールに結んで首にタオルを引っ掛けているあたり、彼女の意気込みが窺えよう。

 方伯や伯爵らによる綱紀粛正の厳命があったうえ、皇帝の代理人の噂が広まったこともあって、あれほどエンカウント率の高かった強盗騎士や不良貴族らは影をひそめており、結局、真綾はこの日、誰にも邪魔されることなく、実に一八〇キロメートル余りの距離を走破して、方伯直轄都市のひとつに宿を取った。


      ◇      ◇      ◇


 真綾がアイゼナハトを出発した日の翌日――。


 ターゲットがジョギングに目覚めたせいで、昨日の待ち伏せは失敗したものの、これしきで諦める貴族らではなく、ある者は伝書鳩を飛ばし、ある者は守護者を飛ばし、またある者は通信官のラタトスクを使いと、それぞれ何らかの手段で自領にいる家臣に指示を出し、真綾を見つけたらすぐ確保するよう網を張らせた。

 だがしかし、その魂胆を見抜き、これから起こるかもしれぬトラブルを回避したいと思う者が、ひとりいた。

 その名を、ハッケルベルクと人は呼ぶ。


『――ところでマーヤ姫よ、特に急ぐ必要もないのならば、いったん方向を変えてみるのも一興だぞ。ここから北西へ五日ほど歩いた……いや、そなたの足ならば今日の夕刻までには着くか。ともかく、北西にグリューネブルクという都市があるのだが、そこでしか食うことのできぬ郷土料理が――』

「詳しく」

『……うむ。あの辺りには荒れ地で育ったハイドシュヌッケという羊がおるそうだが、その肉を使った料理が絶品らしい。その他に、小魚を油で揚げた料理も有名と聞くぞ』


 この日も真綾は、宿泊している部屋の窓を起床と同時に開け、ハッケルベルクの大鴉を呼びつけると、花の転移を確認できたか否か訊ねたのだが、ハッケルベルクは大鴉の口を借りて否と答えたあと、気難しい彼にしては珍しく郷土料理の話などを持ち出して、彼女に寄り道するよう勧めた。

 地域限定の料理と聞いて、食い意地の張った真綾が黙っていられるはずもなく、彼女はハイドシュヌッケなる羊を使った料理を食すべく、この日は北東から北西へと進路を変えることに決め、一七〇キロメートルほどの距離を爆走して、日の暮れるかなり前には、北部低地公の直轄都市グリューネブルクに到着したのである。

 ……そう、真綾は早々に方伯領を出たのだ。

 まさにハッケルベルクの思惑どおり、まさかの急転進を知らぬ貴族たちが肩透かしを喰らい、真綾と接触する機会を失ったことは、言うまでもない。


      ◇      ◇      ◇


 そういうわけで、今日は真綾がグリューネブルクで一泊した翌日、グリューシュヴァンツ帝国暦の十二月三十五日、花たちがルヤナ島で海賊に備えていたころである――。


『ハイドシュヌッケ、侮れませんね……』

(おいしかった……)

『荒れ地のハーブ類を食べて育ったからでしょうか、肉そのものに芳醇な風味がございましたし、脂身が少ないので、思っていたほどしつこくありませんでしたね。それに、海から遠くない交易都市だからか、香辛料などが惜しげもなく使われていて、たいへんおいしゅうございました。ハッケルベルク様のおっしゃるとおりにして正解でございましたね』

(おいしかった……)


 高級宿での朝食後、やたらと幅の広い大通りを散歩しつつ、真綾は熊野とともに、昨晩食べたハイドシュヌッケ料理の余韻に浸っていた。

 加護によって暑さ寒さも苦にならぬ真綾ではあるが、真冬にアウター無しで市内をうろつけば目立つという当然のことに、今さら気づいたため、今日はセーラー服の上に白いウールコートという出で立ちである。

 ちなみに、もうひとつの名物料理であるシュティントなる小魚のフライだが、こちらについては同名の魚を熊野が知っており、骨ばったシシャモのような感じであまりオススメできないとのことだし、二月からが旬だということで、これは諦めた。


『それにしても、本当に立派な都市でございますね~。宿の方によりますと、主に塩の製造と販売で栄えているとのことでしたが、これまでに見てきたどの都市より大きいかもしれません。それに、ここはレンガ造りの建物が多いですね、交易都市ということで耐火のためもございましょうが、大量のレンガを使えるほど裕福ということなのでしょうし、粘土の産地が近くにあるのかもしれません』


 こうして熊野が感心するように、このグリューネブルクという都市は岩塩鉱床の上にあるため、昔から塩の製造と販売で栄えており、それゆえ必然的に他の商取引も盛んになった結果、今や宮中伯や方伯の宮廷都市をも凌ぐ帝国屈指の大都市なのである。

 実は、真綾が歩いている大通りの両側に立ち並ぶ、階段状の切妻屋根が印象的なレンガ建築群も、そのほとんどが塩で財を成した商人たちの館であり、つまり、この異様に広い大通りの正体は、塩取引用のマルクト広場だったというわけだ。


『これほどの大都市ですから、お昼も期待できそうですね』

(目指せ全店制覇)


 朝食を終えたばかりなのに、昼食の屋台料理に今から思いを馳せる真綾であった。



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