第一七八話 方伯領を包む霧 一六 霧中の影
纏わりつく霧の中を、真綾は真っすぐ歩き続けていた。
『魔女の皆様、さすがでございましたね~』
(花ちゃんにも見せたかった)
攻撃魔法のオンパレードを間近に見られたということで、熊野は興奮冷めやらぬ雰囲気であるし、真綾もファンタジー好きな親友のことを思い出していた。
あれだけの猛攻も彼女たちにとってはエンタメでしかないと知れば、魔女たちもさぞや悔しがることだろう。
『そうでございますねぇ、特に最後の合体大魔法なんて、花様がご覧になったら確実に大喜びなさったでしょうね。……残念ながら、魔女の皆様、おひとりを残してお帰りになってしまわれましたが、できることでしたら、わたくし、もっと派手な大魔法もたくさん拝見したかったです』
(はい)
『それに、どちらの方も随分とお年を召していらっしゃるご様子でしたが、箒に跨がって自在に飛行されるなんて、本当にお達者でいらっしゃいましたねぇ』
(すごいお婆さんたちでした)
魔女たちに賛辞を惜しまない熊野と真綾。この脳内会話が聞こえたならば、真綾の後ろを飛んでいるヴァーテリンデも、さぞや喜ぶに……いや、すっかり自信を失ってしまうに違いない。
『真綾様、せっかくですし、後ろにいらっしゃる魔女様に話しかけられては?』
(うーん……あ、着いた)
人見知りな我が子の背中を押す母のごとき熊野の提案に、コミュニケーション能力の低い真綾は、初対面の魔女にどう話しかけたものかと思案し始めたのだが、ちょうどそこで、ようやく目的地に到着したことを勘で悟った。
森の中にできた広場の奥、童話に出てくるような可愛らしい家が、ポツンと一軒だけ霧に霞んで見える。
それはいいとして――。
『何かいますね』
熊野の言うとおり、家よりも手前、漂う霧の中に影が見えるのだ。それも、上半身の後ろに円形の虹が光背のごとくかかった、身の丈九メートルはあろう巨大な人影が……。
ほどなくして、真綾の後方斜め上から、いかにも気の強そうな老婆の声が降ってきた。
「そのお客とはどうも相性が悪いみたいでね、悔しいけどアタシらじゃまったく歯が立たなかったよ。手をかけさせて申しわけないけどアンタが始末しておくれ、〈ブロッケンの怪物〉」
ヴァーテリンデは真綾に話しかけたのではなく、巨大な影にであったらしく、彼女に名を呼ばれた影は答えるように揺らめいた。
◇ ◇ ◇
アルツ山地の主峰ブロッケン。その山の主たる魔物を、人々は古来より〈ブロッケンの怪物〉と呼んで畏れた。
迷いの森の最深部をこの怪物が守っているからこそ、ヴァーテリンデにも余裕があったのだろう。
(黒いの、アンタはもう充分に吸っただろうねぇ、ここの霧を。……どんなに魔法耐性の高いやつだって内側は脆いもんさ)
霧を含む空気で肺が満たされているだろう漆黒の魔人を見やり、ヴァーテリンデがほくそ笑んだ――その時!
キン――。
なんと、真綾周辺の空気が、いや、微細な霧の粒子ひと粒ひと粒が、一瞬にして凍りついたではないか!
「体の内側から凍らされた気分はどうだい? 黒いの。これこそ、霧を氷晶へ変えると同時に氷晶の触れた相手を凍らせる、氷霧さ。嘘みたいな話だけど、ここいら一帯を覆っている霧は全部、そこにいるブロッケンの怪物の一部みたいなもんでね、その中に入った時点でアンタの負けは決まっていたのさ」
ヴァーテリンデの言葉どおりだとすれば、なんと恐ろしい敵であろう……。
呼吸を必要とする生物である限り、体内に霧を取り込まざるをえず、その結果、魔法耐性も関係なく体内から凍らされるなど、その効果範囲のデタラメな広さも含め、まさにチートではないか。
これでは、さすがの真綾といえど、さぞや立派な氷像に――。
「なんで動けるのさ!?」
――なるはずもなく、氷晶煌めく大気の中を平然と歩き始めた彼女を見たとたん、長年生きてきた魔女の心臓のほうが止まりそうになった。
熊野は常日ごろから、空気清浄機や浄水器のフィルターよろしく、真綾の摂取する空気や飲食物の中から有害そうなものを排除しているのだ。……無論、魔素も。
つまり、魔法耐性うんぬんの話ではなく、魔素を含まぬただの霧を氷晶に変えられるはずもなく、また、体の外側の空気中に浮かぶ氷晶が接したとて、魔素を含まぬ熊野の防壁を抜けて真綾を凍らせるなど、絶対に不可能なのである。
真のチート、これにあり!
(なんてバケモンだい……。まあ、それでも、ブロッケンの怪物にゃ勝てないよ)
この期に及んでまだ強がるか、ヴァーテリンデよ。……いや、待て。
いつの間にかブロッケンの怪物が、十数体にも増殖しているではないか!
「見たかい? 黒いの。ブロッケンの怪物はねぇ、霧の中に幻影を作り出すことができるのさ、それも姿だけじゃなく、音や匂いさえもまったく同じ完璧な幻影をね。……それにアンタ、もう立ってるのもままならないんじゃないかい? この霧はねぇ、方向感覚はもちろん、平衡感覚や距離感も狂わせちまうんだよ。これでどう戦うってんだい? いくらアンタが魔法攻撃に強くたって、手も足も出せないままひねり殺されるしかないのさ」
解説キャラと化した老婆は、空中で箒に跨がったまま見事に言いきった。
たしかに彼女の説明してくれた能力は、戦闘する上でかなりの脅威となろう。
だが……。
「なんで……」
あらゆる魔法を無効化する真綾が感覚を狂わされるはずもなく、平然と、しかも、尋常ならざる勘で正確に本体を嗅ぎ分け、幻影など目もくれず突っ込んでいく漆黒の魔人に、思わずヴァーテリンデは言葉を失った。
(……いや、どんなバケモンだって、ブロッケンの怪物に勝てるはずがないじゃないか、ごく一部の魔法を除くすべての攻撃が効かないんだからね)
ブロッケンの怪物の完璧に近い防御を知るからこそ、彼女はこの期に及んでなお絶望しない。無駄な攻撃を繰り返すごとに絶望してゆくだろう敵を想像し、ヴァーテリンデは笑みさえ浮かべ――。
「え……」
――すぐに凍りついた。
ブロッケンの怪物の根源は霧に映る影であり、霧そのものでもあり、その他諸々の山にまつわる逸話や現象が融合した、実像を持たぬ不確かなものである。
ゆえに、誰に想像しえたであろう、影の両断される光景を。誰が予想できただろう、霧を殺す者が存在するなど。
「こんな……」
頭部からふたつに分かれていったのちに光の粒子へと変わってゆく影を、ヴァーテリンデは呆然と眺めた。
一方――。
『真綾様、お気をつけください』
(はい)
――ブロッケンの怪物を倒したというのに、どうしたわけか熊野は真綾に注意を促し、真綾もまた警戒を解こうとしない。
その答えはすぐに現れた。
ガチャ、ガチャ……。
ブロッケンの怪物が倒れてなお晴れぬ霧の中、白銀に輝く甲冑を身に纏った下馬騎士の一団が現れ、真綾を包囲したのだ。
死霊騎士か? いや、違う。明らかに実体を有することが見て取れ、甲冑の立てる音もハッキリと聞こえ、息遣いや殺気さえも伝わってくる。
ロングソード、ツヴァイヘンダー、ウォーハンマー、モルゲンシュテルン、思い思いの武器を手にした騎士たちは、十人、二十人と、見る間に数を増やしてゆき――ついに、真綾へ向けて一斉に殺到した!
四方八方から迫りくる斬撃と打撃の嵐により、とうとう真綾の無敗伝説も終わりを迎えるのか!? 真綾危うし、危うし真綾!
……しかし、何を思ったか、真綾はそのどれもを無視すると、誰もいない空間へ大太刀を突き出し、ピタリと止めたではないか……。
とたんに騎士たちの姿は掻き消え、代わりに、白銀の甲冑を身に纏っている騎士がひとり、霧の中に忽然と現れた。……大太刀の切っ先を喉元に突きつけられ、剣を振り上げたまま固まった状態で。
真綾の力と技をもってすれば、このまま首鎧ごと中身を貫くなど造作もない。
「お見事……」
ゴクリと喉を鳴らしたあと、白銀の騎士は敗北を認めた。
「ヴァーテリンデ様、手出しご無用に願います!」
魔法で援護しようとしていたヴァーテリンデを制止すると、今度は眼前の勝者に涼やかな青年の声で語りかける騎士――。
「いずこの神、魔神かは存じませんが、私の完敗でございます……。かくなるうえは大人しく命を差し出しますので、どうか、アルツの魔女にはお咎めございませんよう、お願いいたします」
「バカ言うんじゃないよ!」
「これでいいのです、ヴァーテリンデ様」
騎士がヴァーテリンデの命乞いをするや否や、当の本人は血相を変えて喰ってかかったが、騎士は死を前にしても穏やかな口調で宥めた。
その時、スッと、大太刀が下がったかと思えば――。
「え……」
――眼前にいた漆黒の魔神の姿が一瞬にして変化したことで、騎士は呆けたような声を上げた。
何に変わったか?
無論、濡羽色の髪をした絶世のセーラー服美少女――真綾である。
「迎えに来ました」
「え?」
出し抜けに真綾の言った言葉を聞いて、騎士はもう一度、呆けた声を上げた。




