第一七六話 方伯領を包む霧 一四 路地裏の戦い
同日、夕刻――。
昼から夜へと変わりゆく空の下、救貧院前の広場で、みすぼらしいボロを身に纏ったエルジェーベトと、彼女の守護者であるカラドリオスが、救いを求めて訪れる患者たちを治療していた。
その光景はどこか神秘的で美しく、聖女を描いた宗教画のようにも見えたが、そんなきれいごとで済ましていいものではない。
昨日の昼前に子供たちを送り出してから、水以外は何も口にしていないというのに、彼女は朝早くから救貧院と孤児院で献身的に奉仕し、それが一段落すれば、休みも取らずにこうして患者を治療し、それが終わっても諸々の仕事が待っている。
しかも、刺客の襲撃に他者を巻き込みたくないと、彼女は昨夜からたったひとり、隙間だらけの粗末な納屋で寝泊まりし始めたのだ……。
ようやく最後の患者の治療を終え、おぼつかぬ足取りで救貧院に入っていく彼女の様子を、路地からひとりの男が見守っていた。
(衰弱しきってる人間が治癒魔法を限界超えて使ったら、命を落としちまうこともあるってのに……。見ちゃいらんねぇな……)
心配そうに眉を寄せたのは、真綾からエルジェーベトの身辺警護を任されたヘルマンである。
さっそく昨日から警護を始めた彼だったが、美しく成長しているエルジェーベトを目にして最初は喜んだものの、命を削るような彼女の献身ぶりを見ているうちに、浮かれた気持ちはすっかり消え失せていた。
(これじゃあ、刺客が来る前に死んじまうぜ……。いざとなりゃ、俺が強引に救貧院から連れ去って――)
これ以上は無理だと判断したら強硬手段もやむなしかと、ヘルマンが思案し始めた――その時!
「おっと」
彼は咄嗟に身をかがめ、その刹那、今まで彼の首があった空間を、鋭利な何かが唸りを上げて通り過ぎた!
ヘルマンは素早く体勢を立て直しつつ振り返り、そこにいるソレに殺されかけたのだと確信した。
「あー、おっかねぇ。――よう、待ってたぜ」
おっかねぇと言うわりに恐れている様子もなく、飄々とした口調でソレに話しかけるヘルマン、まるで友人にでも会ったかのように。
ソレとは何か?
夜の領域と化しつつある狭い路地の、地表から二メートルほどの空中に浮かび、緋色の目でヘルマンを睨みつけているソレは、紛れもなく、真綾によって昨日瞬殺された魔物と同種、すなわち、オノグリアの魔法使いが使役するという使い魔であった。
「なあ、おま――」
ギン!
会話をするヒマなどあったものではなく、使い魔が一瞬で距離を詰めて襲いかかると、対するヘルマンは鋭利な爪をロングソードで受け、硬質な音が路地に響いた。
「問答無用かよ……」
そのまま爪と刃で耳障りな音を立てての押し合いとなり、ほどなく、使い魔がいったん距離を取った。
「おいおい、もっと会話ってやつを楽しまねぇと女にモテねぇぜ?」
空中に浮かぶ敵へ切っ先向けたまま、わざわざ挑発するように軽口を叩き、最後に白い歯を見せるヘルマン。
すると、それに怒ったわけでもなかろうが、使い魔は猛然とヘルマンに襲いかかり、そのまま二合、三合と、今度は激しい斬撃の応酬となった。
(やべぇ……)
単純な腕力ならヘルマンは格上の死霊騎士をも凌ぐし、技量においても引けを取るつもりはない。実際、今も優勢に戦えている――が、何度か相手に斬撃を当てた際の感触と、使い魔の爪を受けるたび剣が刃こぼれしていくことから、ヘルマンは相手を見くびっていたと後悔した。
(こいつ、格上じゃねぇか)
そう、〈城伯級〉上位の加護により強化された剣でこの状況、ということは、それよりも上位の防御魔法を敵が使用している証拠なのだ。
エルジェーベトを陰から見守るために目立つ格好は避けたかった。
魔法使いの使い魔と聞いて、せいぜい〈城伯級〉上位くらいだろうと見積もり、自分の能力と剣技だけで倒せるだろうと慢心していた。
前回遭遇した際に真綾が瞬殺したおかげで、敵の力量を見極める間もなかったし、何より、あまりの呆気なさに強敵とは思えなかった。
いくつもの要因が重なった結果、彼は判断を誤った。
(嬢ちゃんは物差しにならねぇなあ……。クソッ、完全武装で来るんだった)
……そう、魔剣も甲冑もバイヤールに載せたまま、彼は安物のロングソード片手に来てしまったのだ。
(でもまあ、せいぜい〈伯爵級〉下位ってとこか? ……しゃあない、本気出すか)
そうやって面倒くさそうに決断してからヘルマンの為したことを、使い魔は正確に理解できただろうか?
いや、できなかったに違いない、ボロボロになった剣を手放すヘルマンを見て勝利を確信した瞬間、とてつもない力で掴まれ、意識が消えてしまったのだから……。
実は、〈城伯級〉上位の加護で強化された武器を使い、〈伯爵級〉下位の防御魔法で守られた体を攻撃する場合、急所に強烈な一撃を加えれば貫くことができる。
たとえば、眼球などに……。
「……ふう、なんとかなった」
光の粒子に顔を照らされながら、ヘルマンは深く息を吐いた。
彼はあえて剣を捨てることで相手の油断を誘い、バイヤール並みの剛力で使い魔を掴んで引き寄せつつ、隠し持っていたダガーで眼球から脳まで一気に貫いたのだ。
簡単なように聞こえるが、その剛力はもちろんのこと、機を読むセンス、スピード、正確さ、どれを取っても並外れたヘルマンだからこそできた荒業である。
しかし、使い魔を倒してなお、なぜかヘルマンは気を緩めようとせず、音ひとつ無い路地の奥を見据えて声を漏らした。
「やっとお出ましか」
すると、その声が合図だったかのように、路地の奥の暗闇から、ひとりの男がヌウッと姿を現した。
身の丈は真綾並みに高く、見かけだけで判断するならヘルマンよりも少し上の世代だろうか?
黒いローブに身を包み、フードの下に見える顔は蒼白で、眉間の皺深く眼光鋭く、口はへの字に固く結ばれ、いかにも性狷介にして冷酷残忍といった様子であり、子供が見たら泣き出してしまいそうな凶相である。
「……方伯の娘たちはどこにいる」
男は冷たい視線をヘルマンに向けたまま、地獄の底から響いてくるような声で聞いてきた。
「さあなー、なんでも、世界で一番安全なとこらしい。アンタも魔法使いなら、どこにいるか占ってみたらどうだ?」
しかし、ヘルマンは怯むことなく、無精ヒゲの生えたアゴを左手で撫でながら、人を食ったような口調で魔法使いに返した。
……そう、魔法使い。この凶相の男こそ、使い魔の主たるオノグリアの魔法使いだと、ヘルマンは確信したのだ。
「……お前は何者だ」
魔法使いはヘルマンの挑発に乗ることもなく、ただ静かに口を開いた。
先刻の使い魔との一戦だけでなく、おそらく彼は昨日の使い魔の目を通し、巨馬を駆って猛進してくるヘルマンの姿も見ていたに違いない。そして、その直後に使い魔の意識が消えたとあっては、ヘルマンを尋常ならざる強敵と思うのも当然である。
それゆえに名を聞いてきたのだろうが、聞かれたからといって素直に答えねばならぬという道理はない。
「俺? 俺ぁただの女好き――さ!」
再度の問いに飄々と答えつつ――ヘルマンはダガーを投げた!
まさに電光石火、バイヤール並みの剛力で投擲されたダガーは空を裂いて飛び、魔法使いの体に深々と突き刺さるかに思えた。
しかし、なんということか、ダガーは空中でピタリと停止したかと思えば、今度はヘルマンへと向きを変えて飛び、彼の眼前で一輪の薔薇の花に姿を変えたではないか。
不可思議な術を見せつけたあと、魔法使いは何も言わず、わずかな音さえも立てず、闇と同化するように消えていった。
「とんでもねぇのが出てきちまったなあ……。嬢ちゃん、早く帰ってきてくれよ」
〈伯爵級〉下位の使い魔たちを使役する者が、それ以下であるはずがない……。
魔法使いは去ったというのに路地奥の闇から視線を逸らすこともできず、受け取った薔薇片手にヘルマンは冷たい汗を拭った。




