第一七五話 方伯領を包む霧 一三 タイムロス
真綾がアルツ山地へ向かった日の翌日(アイゼナハト六日目)――。
声変わりにはまだまだ遠い少年の忍び泣きが、方伯の居城の一室に響いていた。
太い梁の渡された天井、壁には高価な書物の並ぶキャビネット……そう、ここは、純粋無垢なほうのヘルマンがいつも勉強に使っていた、あの部屋である。
「方伯閣下の死を悲しまれるあまり、奥方様はお心を病んでおいででした……。そのようなご状態でヘルマン様の正式な後見人になられては、いずれ、民草のために方伯家の全財産を注ぎ込んでおしまいになるでしょう。それをご自分でも悟られたからこそ、奥方様はヘルマン様を残して城を去られたのです。……あなたに別れをお告げにならなかったのは、顔を見れば決意が揺らいでしまう、そうお思いになったからでしょう」
「母上……」
整った顔に憂いを浮かべて説く叔父の言葉に、少年はまた母を思い出して涙した。
無理もない、父の死を知ったばかりだというのに、今度は母が彼ひとり残して城を去ったのだ。利発とはいえ、まだ七歳の少年にとって、それがどれほど悲しいことか……。
ヘルマンの小さな背中にそっと手をやり、ハインリヒは穏やかな声で続ける。
「奥方様のご決断は方伯家とあなたのことを思えばこそ、そして、お心をお病みになったのは、方伯閣下への愛深きゆえにございます。決してお恨みになってはなりませんよ」
「はい……」
叔父の手のぬくもりを背中に感じると、少年は健気にもコクリと頷いた。
「ヘルマン様、これからは、他でもないあなたが、方伯としてこの大領を守ってゆかねばならないのです。さあ、失ったものを想ってうつむくのではなく、お顔を上げて未来をお見据えください、明日は初めてのご公務になりますよ」
などと、こうして励ましてくれる叔父もまた、思えば、幼いころに両親を亡くしていたのだった……。
自分も泣いてばかりはいられないと、少年は小さい拳をギュッと握った。
「はい。……でも、私にできるでしょうか?」
「もちろんですとも、このハインリヒが付いておりますれば」
涙を拭って問うヘルマンにハインリヒが胸を叩いて答えると、その音と、ことさら明るく言う彼の声が、しんとした部屋に虚しく響いた。
◇ ◇ ◇
この日の朝、針葉樹立ち並ぶいずこかの森の中、四人組の狩人たちが絶体絶命の危機に瀕していた。
「クソッ! また弾かれた!」
「終わりだ、もう……」
「……俺を……置いて……逃げろ……」
「バカ野郎! そんなことできるか!」
彼らは狩りの途中、運悪く強敵と鉢合わせしたものの、怪我した仲間を見捨てるわけにもいかず、虚しい抵抗を続けているのだ。……どこかで見たような光景である。
その強敵とは何なのか? 二本足で立ち上がった巨大熊……いや違う、たしかに全体的な見た目は熊としか言いようがないが、なぜか後ろ足だけが血塗れの人間のものという、いささか変わった魔物、〈ブルート・シンク〉である。
熊の着ぐるみを着て生足だけ出した変態のようだと言うなかれ、これでも〈伯爵級〉に分類される魔物であり、武器こそ持てないものの、無手での単純な攻撃力ならあのトロールをも凌ぐ。……無論、狩人たちがどれほど死力を尽くしたところで、とうてい敵う相手ではない。
「ドルガハアァァァッ!」
「ヒッ……」
大気をビリビリと揺るがすほどの咆哮が轟いたとたん、狩人たちは揃って硬直し、死を覚悟した――が。
タタタタタ、グシャッ! タタタタタ……。
彼らは声すら出せず、四人揃って目ん玉ひん剥いた。
致し方あるまい、食パンを口に咥えたセーラー服美少女が、いきなり木々の間から走り出てくると、軽やかな飛び膝蹴りで魔物の頭部を粉砕し、そのまま真っすぐ走り去っていったのだから……。
その走る凶器とも呼べるセーラー服美少女が、親友に借りたラブコメ漫画のワンシーンを思い浮かべていたことなど、誰にもわかるまい。
◇ ◇ ◇
同日、別の時間、別の場所で――。
「お、お許しくだせぇ、ご領主様! おっとうはボケちまってるもんで、しょうがなかったんでごぜぇますだ!」
「ええい、おだまりっ! 下賤の身でこのアタクシの馬車を止めたのよ、鞭打ちだけで許してあげるのだから感謝なさいっ!」
馬車の窓からふくよかな顔を出した女が、武装した男たちに取り押さえられている老人を扇子で指しつつ、地面に両膝ついて懇願する男に罵声を浴びせた。
運悪く女領主の馬車の前にフラフラと出てしまった老農夫が、息子による必死の頼みも虚しく、その女領主の護衛兵によって、今まさに鞭打たれようとしているのだ――が。
タタタタタ……。
「や~っておしま――」
ゴスッ!
「いっ!?」
いきなり森から走り出てきたセーラー服美少女により、鞭を振り上げていた護衛兵が殴り倒された瞬間、女領主は目ん玉ひん剥いて驚いた。
それから続く阿鼻叫喚の地獄絵図については、コンプライアンス的なアレやコレやを考慮し、割愛させていただくが、目の前で護衛全員をボコボコにされたうえ、ひとりずつ信楽焼の大狸に変えられ、さらには馬ごと馬車を消滅(没収)されたため、女領主の心が完全にへし折られたことだけは、間違いない。
「この紋所が目に入らぬか」
「……み、見えません、アタクシ、目が悪いものですから……」
例の短剣をズイッと差し出すセーラー服美少女に、女領主はチワワのごとく震えつつ、蚊の鳴くような声で答えた。
ちなみに、頬に渦巻きがあったり、まぶたに目があったり、鼻毛が豪快に伸びていたり等々、女領主の顔がえらいことになっているのは、お仕置きとばかりにセーラー服美少女が油性マジックで落書きしたためである。
「……この辺り」
「き、恐縮でござい――こ、この紋章はっ!」
わざわざセーラー服美しょ……真綾が目の前まで短剣を持っていき、装飾の一部を指差してやると、そこに刻まれた紋章を認めるや否や、またしても目ん玉ひん剥く女領主……。
このあとの流れもいつもと同じなので割愛させていただくが、ともかく、こうして悪は潰えたのである。めでたしめでたし……。
『うーん、大幅に予定が狂ってしまいましたね……』
再び走り始めた真綾の脳内で、熊野が浮かぬ声をこぼした。
馬よりも速く長く走り続けられる真綾なら、昨日中にアルツ山地南側の町に到達していてもおかしくはないのに、なぜか昨夜はずっと手前の町に泊まり、今日もこうして未だ走り続けている。
その理由は何か?
最短距離で案内するよう真綾が頼んだため、ハッケルベルクの大鴉は迷いの森に向かって一直線に飛び、当然、それを追う真綾も途中の森を真っすぐ突っ切らざるをえず、その結果、魔物との遭遇率が高くなり……いや、魔物は無視することもできるからまだマシである。……問題は人間のほうだ。
困ったことに、方伯領では強盗騎士や不良貴族に出くわすことがやたら多いのだが、その場合、まず間違いなく誰かが絡まれているため、見捨てるわけにもいかず、予想外に時間がかかってしまうのだ。
そのうえ、律儀な真綾は進路上にある町や都市などを迂回せず、わざわざ中を通り抜けるため、そのたびにタイムロスが積み重なっていくのである。
さすがに入市の際の行列や面倒な手続きは避けたいため、例の短剣を見せて門を通過しているのだが、これに、真綾の容姿がとにかく人目を引くことや、悪党を成敗するつど短剣を見せていることも加わって、結局、皇帝の巡見使なる黒髪の乙女の存在が、広く知れ渡っていくことになるのだった。
『……まあ、いくらなんでも、今日中にはアルツ山地の南端まで到達できる――あ、今度は盗賊が……』
(成敗)
馬車を襲っている盗賊を熊野が見つけるや、真っすぐ突っ込んでいく真綾……。こうして順調にタイムロスを積み重ねてゆく真綾のはるか頭上で、大鴉が退屈そうに大きな円を描いていた。




