第一七二話 方伯領を包む霧 一〇 異形の刺客
帝国の冬にしては珍しく雲が晴れ、やけに今夜は月が明るい。
目を覚ましたゾフィーとゲルトルートが真綾を見て大喜びし、スイッチが切れるまで甘えまくったのは、今から数時間前のことだ。
真綾に夕方まで子供たちを任せ、院内での仕事や傷病者の治療を懸命にこなし、質素な夕食を終えたエルジェーベトは、幼い娘たちを寝かしつけたあと、今後のことについて侍女たちと話し合っていた。
防寒のために窓扉を閉め、安くはないロウソクもとうに消しているため、暗闇の中での相談である。
「お兄様なら快く受け入れてくださるでしょうが、この子たちがオノグリアまでの長旅に耐えられるとも思えないし、それに、あそこにはまだ……」
「はい、わたくしの実家からの文によりますと、大逆人らの残党が未だ潜んでいるとのことでございましたので、やはり、オノグリアへお戻りになるのは危険かと存じます」
「そうですねぇ、逆恨みの矛先を向けられても堪りませんし、この国にいらしたほうが安全かもしれませんねぇ」
スヤスヤ寝息を立てている子供たちの頭を優しく撫で、エルジェーベトが心配そうに言うと、先輩侍女は祖国へ帰ることを諦めるよう進言し、後輩侍女も眉をハの字にして先輩に賛同した。
エルジェーベトの実兄であるオノグリア現国王を頼るという案は、こうして早々に廃された。
国内の貴族らに配慮して何もしなかった父の没後、エルジェーベトの兄は国王として即位するや否や、母を無惨に殺した逆賊らを誅殺したものの、悪事に加担した者すべてをあぶり出せたわけではなく、そういった残党は今もなお、現国王のことを深く恨んでいるに違いないのだ。
そんな場所に、幼い子供たちを連れて行けるものか……。
「かといって、お嬢様方をこのままというわけにもまいりませんよねぇ。これからどのようにすれば……ん?」
ゾフィーとゲルトルートの今後について思案していた後輩侍女が、その時、ソレに気づいた。
「んー……」
ある程度目は慣れているものの、それでも未だぼんやりとしか見えない暗闇の中、可能な限り目を細めてソレを凝視する後輩侍女……。
実は彼女、人外の血を引くという伯爵家の出ゆえか、幼いころから他人に見えないモノを見ることが稀にあるのだ。
「んんー…………。ひいぃぃぃ!」
ソレの姿をハッキリと認めたとたん、後輩侍女はあられもない悲鳴を上げた。
「どうしました? ネズミでもいましたか?」
「静かになさい、お嬢様方が起きてしまわれますよ」
彼女がビビりなことを知っているエルジェーベトは鷹揚に声をかけ、先輩侍女も驚くどころか小声で注意した。
「ネズミではございません、もっと大きくて恐ろしいナニカが部屋の隅に……あ、今、窓のほうへ――」
後輩侍女がナニカを目で追いつつ、その動きについて実況し始めた、その時――。
キィィィ……。
――と、軋みながら勝手に窓の扉が開き、それから……。
パタン。
……と、今度は閉じる、その寸前に、エルジェーベトと先輩侍女もソレを見たのだ、月明かりの下、地上三階にある部屋の外に浮かび、耳元まで裂けた口から鋭い牙を覗かせ、緋色の目を爛々と輝かせた、悪魔としか言いようのない異形の姿を。
しかも、その異形は、ご丁寧にも手ずから扉を閉めてくれる際、明らかにエルジェーベトだけを見てニタリと笑ったのだ……。
それから一拍置いたのち、夜の救貧院にいくつかの悲鳴が轟いたことは、もはや言うまでもない。
◇ ◇ ◇
「――で、その魔物は、エルジェーベト様を見て笑ったのですね?」
「はい、間違いございません」
ロウソクと暖炉の火が仄かに照らす室内で、師であるコンラートに問われてエルジェーベトは首肯した。
悲鳴に驚いたコンラートと住み込み職員たちが駆けつけてくれたため、後輩侍女と住み込み職員らに子供たちのことを任せ、エルジェーベトと先輩侍女は院長室で説明しているところなのだ。
「ひとつ、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
遠慮がちに発言の許可を求める先輩侍女を片手で指しつつ、コンラートは穏やかな表情で頷いた。
「わたくしの父の知己に魔法使いがおりましたので、わたくしも昔、何度か見せてもらったことがあるのですが、あの魔物、オノグリアの魔法使いたちが使役している精霊……と申しますか、使い魔とそっくりなのです」
「オノグリアの……」
先輩侍女の言葉を聞いて、エルジェーベトは愕然とした。
オノグリアの魔法使いが使い魔を送り込んでくる理由など、ひとつしか考えられないではないか……。
「もしかすると、お母様を暗殺した者の残党が、お兄様へ直接復讐することも叶わず、とうとう、わたくしに目をつけたのかもしれません……」
エルジェーベトの言うとおり、〈王級〉の守護者と契約している王を暗殺できるものではなく、思い余った残党は恨みの矛先を非力なエルジェーベトに向け、はるばる刺客を送り込んできたのだろう。
「エルジェーベト様、頼れる方に心当たりはございませんかな? 使い魔を退けるだけの力があって誠実な人物がよろしいが」
「……ございます。女学生時代のお友達で、今はレーン宮中伯領で伯爵家のご当主をされています。……ですが、いくらお友達とはいえ、わたくしたち全員をこれから養ってくれと頼むのは心苦しいですし、標的であるわたくしを匿えば、先方に死傷者が出てしまうかもしれません。それに、彼女の領地へ向かう道中で、わたくしの大切な家族が巻き添えにならないとも……」
コンラートの問いかけにしばし思案したあと答えるも、エルジェーベトは娘や侍女たちの悲惨な最期を想像して胸を痛めた。
「それでは、お子たちの後見人をその方に頼んでみてはいかがでしょう? あなたはここに残って」
「……あの子たちを手放せとおっしゃるのですか?」
「はい。……幼い子を母親から引き離すのは心苦しいですが、おふたりの将来を考えるならそれが最善ですし、あなたを狙う刺客から遠ざけることにもなりましょう……。実を申しますと、お子たちのこれからについては、私も思案していたところだったのですよ」
師からの思いもよらぬ提案……いや、彼女自身も考えかけて消していた提案を、エルジェーベトが呆けたように聞き返すと、コンラートは沈痛そうな表情をして、穏やかな声で言い含めるように言葉を加えた。
ルートヴィヒを失い、ヘルマンを失い、ついにはゾフィーとゲルトルートをも失ってしまうのか……。エルジェーベトは己が運命の非情さを悟った。
「……わかりました、これからすぐにでも、子供に持たせる文をしたためます。真実を口外せぬようにと家宰から言われておりますので、作り話を書いてしまうことにはなりますが、彼女なら、突然それを渡されても、嫌な顔ひとつせず引き受けてくださるでしょう」
エルジェーベトは決断した、すべては愛する娘たちのために。
「それでは、お子たちのために馬車と護衛を出してもらえるよう、明日の朝にでも城へお願いに上がりましょうか。なあに、私もご一緒して説得いたしますし、宮中伯領の伯爵が絡むとあっては、家宰とて嫌とは言えないでしょう」
「それでは、ゾフィー様とゲルトルート様のことはあの子に託し、わたくしはこれまでどおり、エルジェーベト様をお守りいたします」
エルジェーベトを安心させるためか、柔和な笑みを浮かべてコンラートが提案すると、先輩侍女も侍女としての役割分担を決め始めたのだが――。
「いいえ、あなたにも子供たちについていってもらいます」
「エルジェーベト様!」
――主の口から信じがたい言葉が出るや、珍しく声を荒らげて抗議した。
無理もない、幼少期からずっと守り続けてきたエルジェーベトのことを、彼女は主として敬うと同時に自分の娘のように思ってもおり、そのエルジェーベトひとりを刺客の前に置き去りにするなど、断じて受け入れられるものではないのだから。
「……主命とはいえ、こればかりは応じかねます。命を賭してもエルジェーベト様をお守りすると誓ったこの身にございますれば、賊徒の放った刺客ごとき刺し違えてご覧に入れましょう。……お願いでございます、どうか、わたくしの命果てるその時まで、エルジェーベト様のおそばに置いてくださいませ」
切々と懇願する先輩侍女の声だけが室内に流れ、しばしの沈黙が訪れたあと、パチリと暖炉の薪がはぜて、ようやくエルジェーベトの口が開いた。
「ありがとう……。でもね、あなたならわかると思うけれど、子供ふたりに侍女がひとりでは心もとないわ、道中のことはもちろん、それから先のことを考えても。子供たちにはあなたも必要なのよ、わたくしを育ててくれたあなたにだからこそ、安心して子供たちのことを託せるの。……わたくしにとって、あなたたちふたりは大切な家族なの、それは子供たちにとっても同じだと思うわ。だから、わたくしに代わって、未来あるあの子たちに寄り添ってあげてちょうだい」
「エルジェーベト様……」
子を思う母の懸命な声は届き、先輩侍女はしばし逡巡したあと、忍び泣きしつつも頷くのであった。




