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第一七一話 方伯領を包む霧 九 放逐



「ハインリヒ様、今、なんと……」


 一瞬、何を言われたか理解できず、エルジェーベトは泣き腫らした目を丸くして聞き返した。


「ゾフィーとゲルトルートを連れてこの城を出ていくよう、お願いしました」

「家宰、血迷いましたか!」

「こんな一方的に! 無茶苦茶です!」


 冷然と答えるハインリヒに、侍女たちが猛然と食って掛かった。

 領邦君主たる方伯の夫人に出ていけと、しかもそれをこのタイミングで言うなど、とうてい正気の沙汰とは思えない。

 しかし、それを口にした張本人は臆面もなく、侍女たちに冷たい視線を向けた。


「血迷っているのはきみたちのほうだ。当主の座がヘルマン様に移った今、きみたちの身分は、王女付きの女官でも方伯夫人の侍女でもなく、領地すら無い下級貴族の侍女に過ぎないのだよ? 方伯家の家宰に意見できる立場かどうか考えたまえ」

「ぐっ……」

「でも、あんまりじゃございませんか!」


 当主死亡の際は自動的に継嗣がその座を継ぐ。その継嗣が年齢的に守護者を得ていない場合も、契約年齢に達して家格相応の守護者を得たか否か判別できる時まで、後見人を立てて仮の当主となる。

 そうなった場合、亡き当主の夫人は新当主の後見人となるか、母として厚遇されることが一般的だが、実のところ、夫を失った時点で一気に立場を弱くすることも多く、新当主もしくはその取り巻きから冷遇され、ときには放逐されることさえある。

 貴族とは元来、召喚能力者本人のことであり、その家族など、当主の威を借りているだけの常人に過ぎないのだ。

 自身も召喚能力者であるエルジェーベトの場合、最悪でも下級貴族でいられるだけ、まだマシなほうかもしれない……。

 子供でも諭すようにハインリヒから反論されて、常識的な先輩侍女のほうが言葉に詰まる一方、後輩侍女は我慢できず言い返した。

 そんな彼女に、ハインリヒは沈痛な表情を作って言う――。


「無論、私だってこんな冷たいことを言いたくはない……。しかし、考えてもみたまえ、祖国から遠く離れ、自分を嫌う者ばかりに囲まれたエルジェーベト様にとって、先ほど本人も言っていたように兄上は世界そのものだ、あまりに存在が大きすぎるのだ。その兄上を失ってしまったエルジェーベト様が、これからどうなっていくと思う? 師の教えとやらにどこまでも埋没してゆき、最後には何もかもを、それこそ命さえも捧げてしまうとは思わないかね?」

「そんなことは……」


 ハインリヒに問われて今度は後輩侍女も言葉に詰まった。彼の言うことは彼女とて危惧していることなのだ。


「悲しみから逃げるにはそれしかないのかもしれないが、本人が善行だと信じて疑わないところが厄介極まりない、人の忠告も聞かず際限なくのめり込んでゆくだろう。そんな人間が権力を得たらどうなる? 歯止めの利かなくなったエルジェーベト様がヘルマン様の正式な後見人になった瞬間、間違いなく、この方伯領は滅びの道を歩み始める。……私はこの方伯領を預かる家宰として、そんなことを見過ごすわけにはいかないのだよ」


 後輩侍女に語りながらも、後半、若き家宰は寡婦の姿を憐れむように見ていた。

 すると、それまでずっと黙って聞いていたエルジェーベトが、何か悟ったような表情をして、静かに口を開いた。


「……わかりました、ハインリヒ様のご懸念もごもっともですわね、わたくし自身、そうならないと言い切る自信がございませんから。……ところで、ヘルマンは?」

「すでにこちらで保護しております。……ただ、次期方伯たるヘルマン様に母を放逐するなと命じられれば、私も従わざるをえませんので、酷なようですが、お会いさせることはできません。……ヘルマン様のことは、私が後見人として立派な方伯に育てますので、どうかご安心ください」


 残酷なことを静かに告げつつも、ハインリヒが穏やかな笑みを浮かべているのは、エルジェーベトを少しでも安心させようという心遣いゆえか、あるいは……。

 愛する息子とも二度と会えなくなったのだと悟り、テューニンゲンの聖女はもう一度泣いた。


      ◇      ◇      ◇


 アイゼナハト四日目――。


 エルジェーベトのことを心配する真綾は、この日の朝、救貧院を訪ねてみた。

 救貧院の建物は三階建てで、その上に急勾配の大屋根を利用した屋根裏倉庫と小部屋があり、一階には厨房などと男性用の大部屋、二階には女性用の大部屋など、三階には院長室と住み込み職員用の部屋がある。

 玄関扉から出てきた女性職員にエルジェーベトのことを聞くと、でっかい聖女をすでに見知っている職員は、心得たとばかりに、真綾を男性用の大部屋へと案内してくれた。

 実は真綾、孤児院のほうには日参していたのだが、救貧院内に入ったのはこれが初めてである。

 大部屋、などと前述したが、玄関ホールを抜けたそこにあったのは、藁を敷き詰めた床の上に藁と布で作られたベッドが並んでいるだけの、至って殺風景な大広間であった。

 その藁ベッドの上に、みすぼらしい身なりの老人たちが横たわっているのだ。


「あら、マーヤ様」


 そんな老人のひとりに朝のパン粥を食べさせていたエルジェーベトが、真綾に気づいて声を上げた。

 いつも午前中は救貧院内で奉仕しているとは真綾も聞いていたが、それはもう少し遅い時間からだったはず……。エルジェーベトが早くも奉仕活動に入っていることを、真綾は不思議に思った。


「手伝います」

「あら、まあ……」


 ともあれ、大事な食事介助を中断させてまで話を聞くわけにもいかず、とっとと作業を終わらせるべく、また、自身が敬老精神に富むこともあり、食事介助の手伝いを申し出る真綾であった。

 そんな彼女の姿が、今のエルジェーベトにとってどれだけ救いになったことか……。


「ありがとうございます……。それではマーヤ様――」


 涙を呑み込んで心から微笑むと、真綾に食事介助のやり方を教え始めるエルジェーベトであった。


      ◇      ◇      ◇


 食事介助以外も真綾が手伝ってくれたため、午前中の予定を早く終えられたエルジェーベトは、真綾を三階へと案内した。


「本当でしたら、院長であるコンラート先生をご紹介したいのですけれど、残念ながら先生は今日、夕方まで出かけておりますので、またの機会に。――さあ、マーヤ様、こちらでございます」


 話しながら歩いていたエルジェーベトは、一枚の扉の前で足を止め、少し寂しげに微笑んでからその扉をノックした。


「わたくしです」


 ――と、彼女がやわらかな声を響かせると、扉は内側へ少し開き、隙間から後輩侍女が少しだけ顔を覗かせた。


「どうかお静かにお願いいたします。おふたりとも、つい今しがた、お休みになりましたので」


 後輩侍女は声を潜めてそう言ったあと、扉をそっと開いた。

 エルジェーベトに続いて室内へ入り、真綾は少し驚いた。十畳ほどのガランとした部屋に藁ベッドが三台並んでおり、そのひとつの上で、エルジェーベトの幼い娘たち、ゾフィーとゲルトルートが、スヤスヤと寝息を立てているではないか。

 エルジェーベトと先輩侍女が下の階で奉仕している間、後輩侍女は幼い姉妹の世話をしていたのだ――とは、容易に察することもできたが、城にいるはずの幼い姉妹が救貧院にいる理由、それが皆目わからない。

 これはどうしたことかと問おうとする真綾に、エルジェーベトが話しかけてきた。


「眠っていてくれてちょうどよかったわ……。領内の混乱と皇帝陛下や諸侯らによる介入を避けるため、ヘルマンに守護者ができるまでは軽々しく口外するなと家宰に言われましたので、コンラート先生以外の者には、『方伯家から離縁された』とだけ説明しましたが、マーヤ様、あなたになら、お聞きいただいても大丈夫でしょう。実は――」


 エルジェーベトは襟を正して語り始めると、途中、幾度か言葉に詰まりながらも、真綾にすべて打ち明けた。

 あのあと着の身着のままで城を放逐された彼女は、幼い娘ふたりと腹心の侍女たちとともに、師であるコンラートを頼ったところ、救貧院の住み込み職員用の部屋が空いていたため、そこに置いてもらえることになったのだ。


「――そういったわけでございますので、これまでのように食料や金品の援助を行えなくなったばかりか、自分たちが救貧院の庇護を受ける立場になってしまいました……。これからはそのぶん、わたくしにできうる限りのことをしていこうと存じます」


 語り終えたあと、ことさら明るく笑ってみせるエルジェーベト。

 しかし……。


「……そう、最愛の人を失ってしまったのですもの、もはや召喚能力者本来の責務に余生を捧げるのみです……」


 ……独白するようにつぶやく彼女から、真綾はこの時、危ういものを感じ取った。


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