第一七〇話 方伯領を包む霧 八 幸福の終わり
アイゼナハト三日目――。
他の地域で食べたものよりも大きいブラートヴルスト(焼きソーセージ)は、焦げた皮がパリッと香ばしく、噛むと豊富な肉汁が口中にジュワッと広がった。
昼前、マルクト広場にて、この地方の名物テューニンガー・ブラートヴルストを頬張りつつ、真綾は今日もヘルマンと情報交換しているのだ。
「ルートヴィヒ様が今どこへ行ってるのか、城の騎士から聞いたってぇ女が教えてくれたんだが、それを話す前にまず、アルツの魔女について説明するぜ」
そう言うとヘルマンは今日もビールをグビッとあおり、アルツ山地の地理について軽く説明したあと、そこの主だという魔女について語り始めた。
要約すると、こうだ――。
魔女は人間と違い、死して魔石を残す精霊(下級魔物から神までを含む広義)の一種であり、腕力が弱い代わりに魔法や呪術に長けている、ということ。
北部低地公領と方伯領に跨がるアルツ山地は魔女たちの領分であり、鉱物資源に富むアルツ山地を利用させてもらうため、かつて人間たちは魔女と盟約を結んだ、ということ。
その魔女たちを束ねる長が、方伯麾下のヴェルナーローデ伯として封じられ、アルツ山地の主峰たるブロッケンの山麓に居城を構えている、ということ。
「――ってなわけで、ヴァーテリンデ……ああ、今言ったアルツの魔女の長、ヴェルナーローデ伯のことな。――ヴァーテリンデ婆さんと方伯家は長いこと上手くやってたんだが、とうとう、先代の方伯がやらかしちまったんだよ」
ここまで一気に語って喉が渇いたか、それとも、自分の見限った主君について語るため酔いが必要だったか、ヘルマンはまたビールをあおった。
「先代の方伯は特に暴虐というわけでもなかったんだが、お世辞にも立派な領邦君主とは呼べねぇ女でな、魔女たちのことも野蛮だと言って蔑んでいたんだ。で、たかが歌劇場を建てる資金のために、古の盟約を破って勝手にアルツ山地の土地を売っ払ったり、ルートヴィヒ様に召喚能力があると判明した際の祝宴にも、麾下の伯爵のうちヴェルナーローデ伯だけを呼ばなかったりと、そりゃあもうやりたい放題さ」
ヘルマンは肩を一度すくめ、さらに続ける――。
「おかげでヴァーテリンデ婆さんもすっかりお怒りでな、それからは招集にもいっさい応じねぇし、重要な典礼にさえ顔を見せないときてる。今じゃ方伯家とアルツの魔女の不仲は領内の誰もが知っていて、先代の方伯が死んだのだって、『アルツの魔女に呪い殺されたに違いない』、なんて噂される始末さ。――で、ようやくここからルートヴィヒ様の話になるんだが、そんなわけだから、アホな母親のせいで冷え切っちまったアルツの魔女との関係を修復するために、真っ当な領邦君主たるルートヴィヒ様は、しばらく前からヴァーテリンデ婆さんのところへ行っているんだと」
方伯の不在については真綾もエルジェーベトから聞いて知っていたが、そんな経緯と理由があったとはヘルマンの話で初めて知った。
方伯家を憎んでいるという魔女のもとへ愛する夫を送り出し、エルジェーベトはあの優しい笑顔の下で、どれほど心配していることだろう……。そう思い遣る真綾の歯先で、テューニンガー・ブラートヴルストが小気味よい音を立てた。
◇ ◇ ◇
真綾はヘルマンと別れたあと、今日も救貧院前でエルジェーベトを手伝い、その後、孤児院にて子供たちからチヤホヤされていた。
「うわあ、フワフワだー!」
「スゲェ、雲みたいだ!」
「マーヤおねえちゃん、じょうずだね!」
不思議な道具にザラザラと投入された何かが、見る見る真っ白な綿状になってゆく。その光景を見て、真綾を囲んでいる子供たちは歓声を上げた。
「はい」
「マーヤおねえちゃん、ありがとー!」
「はい」
「ありがとな、マーヤねえちゃん!」
その綿状のものを真綾が器用に棒で絡め取り、手渡してゆくたびに、子供たちは嬉しそうに顔を輝かせ、それを口にしたとたん――。
「甘ーい!」
さらに子供たちの顔は輝いた。
実は真綾、次はどうやって子供たちを喜ばせようかと考えた結果、今日は少し趣向を変え、綿菓子機を出して実演することに決めたのだ。
綿菓子など見たこともないうえに、そもそも砂糖自体が高価ということもあって、目論見どおり、異世界の孤児たちにコレは大好評のようである。
そうやって真綾は、嬉しそうな声を耳心地よく聞きつつ、次々と綿菓子を製造しては子供たちに渡していたのだが、最後に大人の手がニュッと伸びてきたため、これは誰の手かと確認してみれば、なんと、エルジェーベトの侍女のひとり、ぽっちゃり系後輩侍女ではないか。
「……」
「……あ、おいしそうでしたので、つい……」
どうやら彼女、綿菓子の甘い匂いに吸い寄せられ、気づけば子供たちと一緒に並んでしまっていたらしい。
目が合ったとたん恥ずかしそうに釈明する彼女を見て、真綾はこの時、食いしん坊としてのシンパシーを感じた。
コクリ……。
「ありがとうございます!」
真綾が無言で頷くと、後輩侍女は嬉しそうに綿菓子を受け取るのであった。
その様子を見て先輩侍女がこめかみを押さえ、エルジェーベトは楽しげに笑う、そんな幸福な時間がしばらく続いていたのだが、やがて、孤児院の職員のひとりが、慌てた様子でエルジェーベトのことを呼びに来た。
侍女たちを引き連れて部屋を出ていくエルジェーベトに、なんとなく真綾もついていくと、孤児院の玄関先に方伯家の紋章入り馬車が停まっており、その前で、城からの迎えらしき男が跪いているではないか。
「何ごとですか?」
「はっ、家宰が、至急、これを奥方様にと」
問いただす先輩侍女に男が書状を渡し、先輩侍女によって取り次がれたその書状をエルジェーベトが読み始めたとたん、彼女の目は大きく見開かれ、儚げな美貌も色を失った。
「そんな……」
「あっ!」
「エルジェーベト様!」
膝から崩れ落ちそうになるエルジェーベトの体を、両脇から侍女ふたりが慌てて支えるも、当の本人は、もはや心ここにあらずといった様子で唇を震わせるのみ……。
「マーヤ様、誠に申しわけございませんが、主の体調が優れませんので、これにて失礼させていただきます」
切羽詰まった表情で真綾に謝罪すると、先輩侍女は後輩侍女とともに主を支えつつ、馬車の中へと消えていった。
『いったい何ごとでしょうか? 心配でございますね……』
エルジェーベトの様子に尋常ならざる何かを察し、遠ざかる馬車を不安げに見送る真綾の脳内で、熊野もまた心配そうに声を響かせた。
◇ ◇ ◇
テューニンゲン方伯領でのみ使われる言い回しに、「迷いの森に入った」というものがある。これは死んだことを暗に指す言葉であるが、この語源になった〈迷いの森〉はアルツ山地に実在する。
山地を覆う広大な森のどこかがそのエリアになっているそうだが、そこに足を踏み入れたが最後、たとえ飛行系の守護者を持つ貴族であっても、それどころか王侯でさえ二度と帰れぬとして、方伯領では知らぬ者のない禁足地である。
その不吉な森の名を、エルジェーベトは書状の中に見たのだ……。
「ハインリヒ様、何かの間違いでは?」
「いいえ、残念ながら……」
すがるような眼差しで問うエルジェーベトに、ハインリヒは沈痛な面持ちで首を横に振った。
馬車の中でなんとか落ち着きを取り戻したエルジェーベトは、城に着くなりハインリヒの執務室を訪ね、書状の件について詳細を聞いていたのだ。
「ヴェルナーローデ伯の使い魔いわく、伯爵は両家の関係修復の条件として、アルツ山地にて目撃された謎の魔物の討伐を依頼されたそうなのですが、目撃証言のあった場所を捜索中、件の魔物と思しき巨大な影を発見された方伯閣下は、単騎突出してこれを果敢に追撃なさるも、その際、図らずも迷いの森へ踏み込んでしまわれたらしく、忽然とお消えになったと……。地元の案内人だけではなく、随行していた当家の騎士や兵らも方伯閣下のお消えになる瞬間を目撃しておりますし、ラタトスクを随行させていた当家の通信官の証言とも一致しますので、ヴェルナーローデ伯による虚偽報告でも誤報でもございません」
「それでは、ヴェルナーローデ伯に救出をお願いしては!? それが無理でしたら、早く他の伯爵家に要請しましょう!」
ハインリヒの沈んだ声を聞くうちに、ようやくこの報告が事実であると悟ったエルジェーベトは、愛する夫を今すぐにでも救出できないものかと焦り、普段の鷹揚な彼女からは考えられぬ必死さで提案した。
しかし……。
「無理です、奥方様……。兄上がお消えになったのは王侯でさえ生きて戻れぬという禁足地、迷いの森なのですよ? 頼んだところで誰も引き受けてはくれないでしょうし、たとえ引き受けてくれたとしても、二次遭難者を出すばかりです……」
「そんな……」
沈痛な面持ちのまま諭すようにハインリヒが却下すると、エルジェーベトは呆然として声を失った。
四歳にして異国からここへ来た自分のことを、本当の妹のように可愛がってくれたルートヴィヒ、結婚してからも変わらず優しく包んでくれたルートヴィヒ、弱者を救済する活動にも理解を示し、自分へ向けられる視線の刃から庇ってくれたルートヴィヒ……。優しい兄であり、幼馴染みであり、愛しい恋人であり、善き夫にして理解者でもある彼の、貴公子然とした美しい姿が、穏やかな笑顔が、そして一緒に過ごしてきた時間が、エルジェーベトの心を駆け巡る。
彼とはもう二度と会えないのだ。
「……ルートヴィヒ様が……わたくしの世界が死んでしまった!」
「エルジェーベト様!」
「エルジェーベト様ぁ!」
とうとうワッと泣き崩れてしまったエルジェーベトのもとへ、壁際で控えていた侍女たちが涙ながらに駆け寄った。
しかし、そうやって悲しむ主従三人は、このあと、さらに耳を疑うような言葉を聞くことになる。
「エルジェーベト様、心中お察しいたします……。このようなときに言うのは誠に心苦しいのですが、ぜひともお願いしたいことがあります」
ハインリヒはエルジェーベトにそう声をかけると、涙に濡れた顔で自分を見上げた彼女に、こう言い放った――。
「兄上が死んだことですし、下の子ふたりを連れて、この城を出ていってください」
――と、底冷えのする声で……。




