第一六九話 方伯領を包む霧 七 でっかい聖女様
ヘルマンの有り金を食い潰して満足した真綾は、その後、孤児院へ向かったところ、エルジェーベトの救貧院前での活動が未だ終わっていなかったため、自分も手伝いたいと申し出た。……これは、一刻も早く子供たちにチヤホヤされたいためだろうと思われる。
そうやって手伝う間に、彼女はエルジェーベトの献身ぶりを目の当たりにした。
「さあ、これを。わたくしが縫ったものですから、拙い部分があるかもしれませんが、この子が健やかに育つよう心を込めて縫いました」
「……ああ、聖女様、身分もわきまえず名付け親をお願いしたうえに、こんな立派な産衣まで頂いて、アタシ、なんてお礼を言ったらいいか……。ありがとうございます、ありがとうございます。――良かったね、イルカ」
エルジェーベトから産衣を手渡されて涙目で何度も礼を言ったあと、貧しい身なりの女が自分の抱えている赤ちゃんに笑いかけた。
貧民の子の名付け親を引き受けたうえに手ずから産衣を縫ってやる貴族など、どこにいるというのか……。
しかし、その稀有な存在は、特別なことをしたと思っている様子もなく、ただ、赤ちゃんの顔を慈愛に満ちた笑顔で覗き込むのだ。
あるいは――。
「――はい、これで病魔は去りましたよ。あとは清潔にしておきましょう」
「お、おやめくだされ、そんなことをされては聖女様のお手が――」
顔中腫瘤だらけの老人を治したと思ったら、慌てて止める本人にも構わず、膿に塗れている彼の顔を躊躇なく拭き始めるエルジェーベト。
そんな彼女の姿に、エーデルベルクで孤児院を守っている院長先生の姿が重なり、いたく真綾は心打たれた。
『エーデルベルクの院長先生といい、エルジェーベト様といい、なんて素晴らしい方々でしょうか、こちらの世界の貴族も捨てたものではございませんねぇ』
(はい)
――などと、脳内で熊野と感心する真綾であったが、彼女がただ指を咥えて見ているだけのはずもなく、エルジェーベトたちの籠の中身(あのあと不思議なことに薔薇から食料に戻っていた)が空になれば補充したり、自らも食料をパッパと手渡すことで配給時間を短縮したりと、なかなかにイイ仕事をしていたのである。
と、そこへ、エルジェーベトも見知っているガラス職人が、両目から血を流している急患を担いで来た。
「頼んます奥方様! コイツの目の前でガラスが!」
開口一番そう言うと、ガラス職人は仲間をそっと横たえ、さっそくエルジェーベトが患者を診にかかった。
「どうです奥方様、治りますかい?」
「これは……」
だが、仲間を案じて問う職人の前で彼女は言葉を失った。
患者のまぶたを開いてわかったが、かなりの数に及ぶガラスの細片が眼球に突き刺さっているのだ。
「……わたくしの治癒魔法で傷を治すためには、まず、破片をすべて取り除かなくてはなりませんが、これだけ破片が細かいうえに、こうも多いと……」
「そんな……。なんとかしてやってください! コイツ、もうすぐ所帯を持つことになってんですぜ!」
暗い表情で悲しい事実を告げようとする頼みの綱に、職人は悲痛な声を上げた。
しかし、カラドリオスの治癒魔法とて万能ではないのだ。……いや、この状態では、もっと上位の治癒魔法であっても無理に違いない。
近世レベルの医療技術しかないこの世界では、よほど腕のいい医者が特殊な器具を使ったとしても、おそらく、すべての破片を除去することは不可能だろうし、また、それが奇跡的に可能だったとしても、その繊細かつ膨大な作業を続けている間に、カラドリオスの治癒魔法で治せる傷ではなくなってしまうはず。
誰か、この難局さえ打開してしまう超越者が、どこかに――。
「破片、取ります」
「マーヤ様……」
――いた。
困難極まりない作業を真綾が買って出ると、エルジェーベトは目を丸くした。
もちろん彼女だけではなく、職人や侍女たちを始め、見守っていた人々全員が驚いているが、そんなことに構いもせず、真綾の白い指先が患者の肩にそっと――。
「終わりました」
「あら、まあ……」
――触れた直後、彼女の口から飛び出た言葉を聞くや、エルジェーベトはもう一度目を丸くした。
無論、真綾が【船内空間】へ一度収納した患者を、その一瞬後にガラス片抜きの状態で取り出しただけであるが、そんな事実を知らぬ者からすれば、彼女が何を言っているか理解もできまい。
しかし、真綾を信頼しているエルジェーベトは行動が早く、すぐさま患者のまぶたを開けて確認した。
「あの一瞬で破片がすべて消えるなんて……。これより治療にかかります!」
奇跡を目の当たりにして呆然とするも、ほどなくエルジェーベトは我に返って治療を開始し、やがて、黒い霧と化した病魔が彼女の口から天に立ち昇ると、患者の目は嘘のように完治した。
「さあ、これでもう大丈夫ですよ」
「……痛くない。……み、見える、見えます!」
エルジェーベトの声で患者が恐る恐る目を開き、歓喜の声を上げたとたん――。
「スゲェ! あの無愛想なネェちゃん、なんかスゲェ!」
「奇跡じゃ! あの大柄な娘さんも聖女様に違いないぞ、でっかい聖女様じゃああ!」
「ありがとうございます、奥方様、大柄な聖女様!」
「奥方様バンザイ! 無茶苦茶でけぇ聖女様もバンザイ!」
――人々の間から、ドッと歓声が沸き起こった。
だがしかし、称賛されているはずの真綾の双眸に、なぜか、感情の光は微塵もないのであった。
◇ ◇ ◇
あれから孤児院の子供たちに傷心を癒してもらった真綾は、その後、エルジェーベトのお宅に今日もお邪魔していた。
「『――怯えるあまり商人が上手く説明できないでいると、ブラートヴルスト屋台のおじさんは、――それは、こんな顔でしたか? ――と言いながら、ゆっくり自分の顔をひと撫でしました……。すると、そこに現れたのは、さっき商人が見たのと同じ、目も鼻も口も無い卵のような顔だったのです……』だって……」
「キャー!」
「きゃーっ!」
昨日と同じ部屋の中、異世界の子供用にアレンジした怪談『むじな』を語り終え、怖がる幼女ふたりに抱きつかれて内心ご満悦の真綾……そう、怪談に興じている最中なのだ、口下手な本人に代わり、熊野が。
「マーヤさま、ゾフィーもオバケ見たの」
真綾にギュッとされて安心し、今度は自分も怪談を聞かせたいと思ったのか、幼い姉妹のうち姉のゾフィーが、抱きついたまま真綾の顔を見上げて言い始めた。
「昨日の昨日の昨日、おやすみの前に、窓のお外からこっちを見てたの。……でも、お顔はあったの、すっごく恐いお顔が」
「キャー!」
指折りしつつ日を数え、話しているうちに思い出して怖くなったのか、ゾフィーが真綾の体に顔を埋めると、妹のゲルトルートもおもしろがって姉に倣った。
怯えているゾフィーには気の毒だが、真綾にとってはウェルカムの状態である。
その様子を、エルジェーベトの他に侍女たちも温かく見守っていた。
「ゾフィー様もお話がお上手でいらっしゃいますねぇ……あ、怪異のお話でしたら、わたくしもひとつ。――実は、ここのところ、救貧院の前で食料を配っておりますと、たまに見かけることがございまして……。向こうの物陰からこちらをジッと窺っている、黒いローブ姿の大男を……」
「あなた、それは怪異というよりも不審者じゃない」
自分も負けじと怪談を披露し始める後輩侍女に、すかさず先輩侍女はツッコミを入れたのだが、後輩侍女は意味ありげに目を細め、ことさらゆっくりと首を横に振った。
「いえいえ、アレは間違いなく怪異でございした。……だって、わたくしの見ている前で、霧のように消えてしまったのですから……」
「キャー!」
「きゃーっ!」
後輩侍女が恐ろしげな声を作って話を締めたとたん、幼女姉妹は今度も悲鳴を上げて真綾にしがみついた。……真綾、この世の春であった。
◇ ◇ ◇
城内にある執務室にて、テューニンゲン方伯領の家宰たるハインリヒは、難しい表情で書状に目を通していた。
この書状、送ってきたのはテューニンゲンの森南方に住む下級貴族である。
「〈皇帝の巡見使〉か、にわかには信じがたい話だが……」
数回読み返したあと、ハインリヒはつぶやいた。
……そう、伯爵家のように通信官を抱えておらず、出した使者も一日あたりの移動距離がバイヤールより短いため、真綾の到着に遅れてしまったが、最初に彼女の手で成敗された強盗騎士が主君に報告し、報告を受けた主君が方伯に陳情してきたのだ。
ハインリヒには荒唐無稽な話のようにも思えたが、この陳情、実は本日、他の下級貴族からも上がってきたため、勘違いや戯言などと無視するわけにもいかない。
「街道を巡警中に突如として襲われた、とあるが、いかに奇襲されたとはいえ、完全武装の一隊が女ひとりに全滅させられたのかな?」
「はっ! なんでも、相手はトロールのごとき大女だったそうで、鉄の鎧を難なく握り潰すほどの怪力ぶりゆえ、隊を率いていた騎士もあと一歩及ばなかったとか。騎士の見立てによりますと、その大女は伯爵に違いないとのことです」
「伯爵相手に騎士が『あと一歩及ばず』、か……ハア、確度の低い情報だな……。巡警というのも怪しい、どうせ、行商人あたりから金品をむしり取っていたのだろう」
下級貴族からの使者に問うも、ハインリヒは相手の答えを聞いて嘆息した。
当事者である騎士が自分の面子を保つため誇張して報告し、それを聞いた主君も思惑によって改変した情報を上げる、そんな愚かな伝言ゲームをやっているうちに、事実とは似ても似つかぬ情報に変わってゆくのだ。
ハインリヒには知るすべもないが、現に、二件の陳情書はいずれも、後ろ暗い部分が改変されているのはもちろんのこと、真綾の姿も怪物だったかのように誇張され、また、皇帝の巡見使という言葉と真綾の無双っぷりのインパクトが大きいあまり、ヘルマンはおろか目立つバイヤールでさえも情報から消えていた。
「とはいえ、皇帝の代理人を示す短剣を持っていたのは事実と考えるべきか……」
誰に言うでもなく口に出したあと、ハインリヒは思考の海に入ってゆく――。
(『フェストゥング伯ゼルマ・フォン・エルネスティンが皇帝直轄領内で大罪を犯したゆえ、やむなくこれを誅した』と、皇帝側から正式に報告を受けたが、諸侯に断りもなくその庇護下にある伯爵を殺すとは、あの皇帝らしくもない大胆なことを……。この冷徹果断なやり口、ハッケルベルクの独断か? いずれにせよ、その直後に巡見使なるものを送り込んできた、ということは……)
端正な顔を険しくし、皇帝の動きを憂慮するハインリヒ。
まさか今、同じ城内で、件の巡見使が幼女祭りを堪能している最中だとは、いかな俊英とて知るよしもなかった。




