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第一六八話 方伯領を包む霧 六 情報交換



 真綾の転移した異世界は、至高の三女神を頂点に各地域の神々が存在する多神教で統一されている、とも言えるが、神々は至極稀に姿を現すだけで、人間に教えを説くなどということをせず、また、自称〈神の代弁者〉を至高の三女神が許さないため、宗教や聖職者といったものが存在しない。

 それでは都市や町にある神殿をどうやって維持管理しているのかといえば、住人たちが持ち回りで大切に管理し、市長や町長が神殿の長を兼任するのが一般的である。

 ジャガイモ等の作物が伝来していないにもかかわらず、帝国や周辺諸国がなんとかやっていけている一因は、聖職者という特権階級の不在によるところもあるのだろう。

 ただ、神の教えを説く者が存在しない代わりに、近年、人としての道を説く〈伝道師〉なる者らが現れ始めたのだが、アイゼナハトの救貧院長と孤児院長を兼ねる役職には、そうした伝道師のひとりが就いていた。


「ああ、その娘さんの話でしたら、昨日の夕方、孤児院へ顔を出した際に子供たちからも聞きました。なんでも、おいしい菓子をくれただけではなく、珍しい芸まで見せてくれたそうですね。皆、よほど嬉しかったのでしょう、競うようにして教えてくれましたよ」


 救貧院の三階にある殺風景な一室で、簡素なローブを身に纏った初老の男が、柔和そうな顔に笑みを浮かべた。


「ディアンドル姿だったということですから、どこか近くの農家の子でしょうか? おそらくは、菓子を配れるだけの余裕がある豪農の子なのでしょうが、たとえ余裕があったとしても、縁もゆかりも無い孤児たちのことを気にかけるなど、なかなかできることではありません。世の中には立派な娘さんもいるものですねえ……」

「はい、コンラート先生、マーヤ様はとても素晴らしいお方ですの」


 殊勝な心がけの娘に感心しているらしい師の前で、エルジェーベトは自分を褒められたごとく誇らしげに微笑んだ。

 実は、コンラートというこの人物、もともとはエルジェーベトの教師として城に招かれたのだが、それだけでは暇を持て余すからと言い、数年前、席の空いた救貧院と孤児院の長を買って出たのだ。

 先刻、薔薇の奇跡によって窮地を脱したエルジェーベトは、院長室へと挨拶に来たついでに、孤児たちに菓子をくれた真綾のことを師に話していたのである。……無論、たとえ相手が師であっても、真綾の個人情報を勝手に教える気はないため、真綾の身分がバレそうな部分はカットしているのだが。


「……それに比べて貴族たちときたら、私欲に塗れ高慢に振る舞うばかりで、貧困にあえぐ人々のことなど目にも留めない。弱者を守り慈しむことこそ、神が召喚能力者に与え給うた天命だというのに、ハア、まったくもって嘆かわしい……」


 ……などと表情を曇らせて深く嘆息する師を見ると、せめて自分だけでも天命に従う貴族でありたいと、思いを強くするエルジェーベトであった。


      ◇      ◇      ◇


 時計塔の鐘が正午を告げると、昼食を買い求める人々でマルクト広場は一気に混雑し始める。

 その混雑を避けるため……いや、ただ食欲に抗えず、真綾は正午の鐘よりもかなり早くからマルクト広場をうろついていたのだが、そこへ、カモ……ヘルマンがノコノコ顔を出したため、これを捕獲して約束を守らせることにした。


「おいおい、マジかよ。マーヤ嬢ちゃんは引きが強ぇなあ、さっそく方伯夫人と知り合ったうえに、城まで行ってきたのかよ……」


 屋台の前に置かれた飲食スペースに座り、昼前からビール片手にヘルマンは呆れ声を出した。

 無論、真綾が昨日のことを話したせいである。


「まあいいや、とりあえず、そのエルジェーベト様について俺が知っていることを教えてやるよ。つっても、俺のいたころ彼女はまだ小さかったから、実は会話したことすらないんだがな――」


 そう言うとヘルマンはビールを一度グビッとあおり、エルジェーベトについて話し始めた。

 すでにエルジェーベト本人から真綾が聞いていること以外だと、こうだ――。


 彼女がアイゼナハトへ来た二年後に、グリューシュヴァンツ帝国出身のオノグリア王妃、つまり彼女の実母が、オノグリア貴族によって暗殺されたため、それ以来、強力な後ろ盾を失った彼女は城で微妙な立ち位置になってしまったこと。

 実兄が召喚能力者であるため、彼女もそうであることは本来ありえないが、どういった神の気まぐれか、七歳の聖別にて召喚能力者であると判明し、女学院へ入学後、めでたくカラドリオスと召喚契約を結んだこと。

 数年前にコンラートなる人物を教師として招いて以来、彼女自身が元来慈悲深い性格だったこともあり、その教えに深く傾倒していること。


「――ってなわけで、嬢ちゃんも知ってのとおり、困っている者を見たら誰にだって手を差し伸べるもんだから、付いた異名が〈テューニンゲンの聖女様〉だ。……まあ、そうやって庶民から慕われる代わりに、方伯領の貴族や貴族家出身の連中からは、あまり良く思われてないらしいがな」

「そう……」


 ヘルマンの話を聞いて、真綾は昨日感じた城内の不快な空気を思い出し、かじりつこうとしていた菓子パンをそっと下ろした。


「そう心配すんなって。今のテューニンゲン方伯であるルートヴィヒ様のことは、俺も剣術を教えたりしてたからよく知っているんだが、あの母親から産まれたとは思えねぇほど真っ当な若様だったぜ、まだ幼いってのに聡明で道理もわきまえててな。そのルートヴィヒ様とエルジェーベト様は誰もが羨むほど仲睦まじいそうだから、嬢ちゃんが心配しなくったって、彼女のことなら、あの善良な若様が守ってくれるさ」


 モシャリ……。


 真綾の心境を察したヘルマンが、ことさら明るい声で言い添えて笑うと、真綾は手にしていた菓子パンを口に運んだ。……安心したようである。


「で、ここからが本題だ。愛し合う方伯と聖女様が若さに任せて励んだ結果、嬢ちゃんも知ってのとおり、現在、三人のお子がいらっしゃるわけだが、その長男こそゼルマの言っていた『もうひとりのヘルマン』じゃねぇかと、俺は踏んでいるんだ」


 ヘルマンのタレ目が理知的な光を放った。

 だらしない飲んだくれ中年かと思えば、ヘルマンの頭は実際よく回る。彼は昨日言っていたとおり情報収集した結果、ゼルマに託された人物を方伯の世継ぎたるヘルマンに絞ったようだ。


「ところで嬢ちゃん、ヘルマン坊ちゃんには会ったのかい?」

「いえ。『ちょうどお勉強中でいらしたので、ご長男にはお会いできませんでした。なんでも、方伯様の弟君にして家宰でいらっしゃるハインリヒ様が、直々に教育なさっているようですよ』だって」


 ヘルマンの問いにフルフルと首を振って真綾が短く答えるも、熊野は情報不足と思ったか補足した。

 一方、ハインリヒの名を聞いたとたん懐かしげな顔をするヘルマン。


「あー、ハインリヒ坊ちゃんかー。――いやねクマノ様、諸侯ともなりゃあ、召喚能力者じゃねぇ子供をよそへやらずに自分とこで育てるんですが、ハインリヒ坊ちゃんもそうだったんで、俺が剣術の手ほどきをしたんでさ。小さいころは勉強を嫌ってたが、やると決めたら一生懸命やる子だったから、あのあと努力したんでしょう、今じゃ若くして方伯領の家宰を務めるほどご立派だとか」


 モグモグ……。


 有名人になった近所の子を自慢するオッサンのごとく語るヘルマンだったが、そのうち不思議そうに首をかしげた。


「しかしなー、ハインリヒ坊ちゃ――いや、もう坊ちゃんじゃねぇか、家宰が甥っ子を可愛がってるのは有名らしいから、その家宰が城内で目を光らせている限り、ヘルマン坊ちゃんの身に何かあるとも思えねぇんだが、ゼルマは俺に何を伝えたかったんだ?」


 パクリ……。


 ゼルマの遺した言葉の意味を察するには、この時、ヘルマンの知り得ていた情報はあまりにも少なく、また、手持ちの魔石を早く換金しないと、真綾の満足するまで菓子を奢るには、いささか彼の懐は寂しかった。



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