第一六七話 方伯領を包む霧 五 薔薇の奇跡
「あら? マーヤ様をお送りする馬車を待たせてあるはずですが……」
「はい、ここで待つよう、たしかに伝えました」
「見当たりませんねぇ……」
館の玄関先でエルジェーベトが首をかしげると、彼女の腹心である侍女たちは訝しげに眉根を寄せた。
と、そこへ現れたのは、兜こそ脱いでいるものの、これ見よがしに鎧を身に纏った中年騎士と、その後ろに控える従騎士である。
「馬車ならば来ませんぞ、それがしが止めましたからな」
「なぜそのようなことを? 大切なお客様をお送りしなければなりませんのに……」
領邦君主の奥方からの申しつけを家臣が邪魔するなど、本来なら決して許されることではない。
信じられないことを口にする騎士に、エルジェーベトは困惑した声で尋ねた。
すると騎士は、無礼を詫びるどころか、心外とばかりに眉をハの字に寄せ、ことさら相手の神経を逆撫でするように言う――。
「なぜぇ? 大切なお客様ぁ? ――お言葉ながら奥方様、ご冗談も大概にしていただきたいものですな。なるほど見た目ばかりは絶世の美女と呼べるやもしれませんが、この大女のどこが大切なお客様ですかな? 荷馬車ならばともかく、賓客用の馬車に農民ごときを乗せるなど言語道断、まったくもって正気の沙汰とは思えませんぞ。……いやはや、下賤の者どもとお関わり合いになるあまり、悪い病でも貰われたのではございますまいなあ」
先刻、エルジェーベトの侍女たちは、ディアンドル姿に惑わされることもなく、真綾の立ち居振る舞いと気品から農民にあらずと看破したし、これが歴戦の狩人なら、彼女の立ち姿とオーラから只者にあらずと察したであろう。
だがしかし、凝り固まった脳では正しい判断も難しいらしく、騎士は物を見るような目で真綾を舐め回したうえ、あろうことか、主の奥方であるエルジェーベトのことさえも侮辱したではないか。
おまけに彼の従騎士はといえば、ヴァイスバーデン代官の従騎士とは大違いで、ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべて見物するのみ。
アイゼナハトまでの道中で熊野が心配していたとおり、この方伯領に生きる召喚能力者とその血族は、特権意識という深い霧に囚われているようだ。
ここで、騎士の無礼な振る舞いに烈火のごとく怒ったのは、エルジェーベトの腹心たる侍女たちである。
「不埒者! 乱心しましたか!」
「恥知らず!」
主と客人を守るようにズイと前へ出るや、彼女たちは鋭い眼光で騎士を突き刺した。
その、臣下として当然の行動が、騎士の後ろめたさのような感情と自尊心を刺激したことで、彼の抱え続けてきた不満は黒く燃え上がった。
「ふん、奥方様の取り巻きどもか、忠義なことよ……。ちょうどいい、前々から言いたかったゆえ言わせてもらうぞ。一国の王女の側仕えとして選ばれただけあって、いずれも格式高い家の出らしいが、なあ、ご両人、そろそろ目を覚ましたらどうだ? 実家の威光もここまでは届かぬ……いや、そもそも、その実家自体が、とうの昔に失脚し――熱いっ!」
今度は忠義者の侍女たちに矛先を転じ、彼女たちの誇りを傷つけようとする騎士だったが、どうしたことか、その途中で急に股間を押さえて跳び上がったではないか。
「あら、まあ……」
「ありえませんわ……」
「うわぁ……」
ガシャンと音を立てて着地した彼を見るや、エルジェーベトは両手を口に当てて目を丸くし、彼女の侍女たちは眉根を寄せてドン引きした。
さもありなん、彼の股間から液体が止めどなく溢れ出し、湯気を立てつつ足を伝ったあと、石畳の上に見る見る水溜まりを作っていくのだから……。
「ちっ、違う! これは違うのだ!」
「エルジェーベト様の御前で粗相するだなんて……」
「いい大人が、恥ずかしいですねぇ……」
騎士が慌てて弁明するも、侍女たちは汚物でも見るような目で彼を見つつ、広がり続ける水溜まりから距離を取った。
その様子を見て、ほくそ笑む者が……。
『ふふふ、まんまと皆様から誤解を受けましたね、いい気味でございます……。ボイラーの超高温蒸気にしなかっただけ感謝していただきたいものです』
……そう、熊野である。
実は、大女呼ばわりされたうえにエルジェーベトたちまで侮辱され、内心激おこ状態の真綾が、今にも騎士を成敗してしまいかねなかったのだが――。
『お待ちください真綾様、目の前で他人に家臣を害されたとあっては、エルジェーベト様もお困りになるかもしれません、ここはひとつ、ゴニョゴニョ――』
――などと、熊野が入れ知恵したため、〈甲冑の股間部分の内側へ【船内空間】から熱湯を出現させて肉体を痛めつけ、さらに周囲からの誤解を招くことで精神をも痛めつける〉という、いささか遠回りではあるも悪魔のごとき仕打ちが、ここに実行されたのである。
ちなみに、熱湯とはいうものの、温度は摂氏五十度ほどと、バラエティー番組の熱湯風呂くらいに抑えてあるあたり、さすがは熊野、なんと細やかな心配りだろう。
「誤解だっ! ――と、ともかく奥方様、これにて失敬!」
顔を真っ赤にしてそう言うと、股間を押さえる両手の間から盛大に液体を流しつつ、そそくさと走り去る騎士と、液体を踏まないように彼を追いかける従騎士であった……。
憐れ、方伯夫人の眼前で粗相した〈お漏らし騎士〉というレッテルが、これから彼に一生ついて回ることだろう。
その背中を見送ったあと、エルジェーベトが、いたずらっぽい笑顔を真綾に向けた。
「今のは、マーヤ様が?」
「汚物は熱湯消毒です」
「プッ」
真顔でサムズアップする真綾を見たとたん、エルジェーベトは思わず吹き出してしまい、しばらく笑って落ち着いたあと、今度は改まった表情で自分の胸に手を当てた。
「……マーヤ様、たいへん嫌な思いをなさったでしょう? すべてはわたくしの不徳が招いたこと、心から謝罪いたします。どのようにすればお許しいただけますか?」
そのまま、臣下の非礼を真綾に詫びるエルジェーベト。
こういった場合、謝罪されたのが普通の貴族ならば、己が非を認めた相手から何を引き出してやろうかと考えるものだが――。
「じゃあ、明日も孤児院に行っていいですか?」
「あら、まあ……。ええ、もちろんですとも」
真綾の口から出てきた意外な言葉を聞いて、エルジェーベトは驚くと同時に、また、彼女らしいとも思い、無性に嬉しくなって笑顔で頷くのであった。
◇ ◇ ◇
真綾とエルジェーベトが出会った日の翌日――。
日の出からある程度の時間が過ぎ、身を切るような寒さも少しだけ和らいだころ、エルジェーベトと侍女たちは白い息を弾ませながら、方伯の居城からアイゼナハト市街へと続く山道を下っていた。
無論、慈善活動のためである。
三人それぞれの提げている大きな籠は、パンやチーズに焼き菓子などで満杯なため、かなりの重さになっているはずだが、彼女たちは誰も不平を言わず、小鳥たちのように楽しげにおしゃべりしつつ歩いている。
方伯夫人なのだから馬車を使えばいいだろうに、こうしてエルジェーベトが自らの足で歩くのは、自分の独断で慈善活動するからには城の者に迷惑をかけない、という、配慮もしくはポリシーゆえだろうか。
ちなみに、幼少期のエルジェーベトに随従して帝国まで来てくれた侍女たちは、もはや彼女と一心同体であるため、〈城の者〉という括りに入っていない。
「さあ、着きましたよ。今日も一日、ひとりでも多くの者の救いになれるよう頑張りましょう」
「かしこまりました、エルジェーベト様」
「午後からはマーヤ様も合流してくださるそうですから、心強いですねぇ」
ようやく市門の前に到着し、そうやって三人が意気込んでいると――。
「はあ……。よくもまあ飽きもなさらず……」
――そこへ、呆れ果てたような声が聞こえてきた。
三人がとっさに声の主を確かめれば、騎士と兵士らを従えて自らも騎乗した家宰、ハインリヒである。
「あら、ハインリヒ様、ご機嫌よう」
義弟でもある彼を見て、エルジェーベトが鷹揚に挨拶すると、ハインリヒはすぐさま下馬して、挨拶もそこそこに詰め寄ってきた。
「ご機嫌ようではございません、奥方様。慈悲深いことも美徳だとは存じますが、困窮している者を救うにしても節度というものがございましょう。しかも、食料や金品を恵んでやるだけに留まらず、カラドリオスの加護で治療までなさっているとか、そのお力は貴族のためだけに使われるべきなのに」
「ご心配には及びませんよ、ハインリヒ様、ちゃんと節度はわきまえておりますわ。こうして城の馬車も使っておりませんし、施しにはわたくしの宝石やドレスなどを売った代金を充てております。それに、守護者の加護は、それこそわたくし個人のものですので、どのように使おうと誰も困りませんでしょう?」
知らぬ者から見れば、若き美男美女を描いた絵画のような光景だが、本人たちはそれどころではなく、家宰であるハインリヒが慈善活動について小言を言えば、エルジェーベトは穏やかな微笑みを浮かべたまま、やんわりと言い返した。
しかし、領邦国家の国政を預かる俊英のほうが一枚も二枚も上手である……。
「お言葉ながら、その宝石やドレスも、元はと言えば方伯家の金で購入したものではございませんか。……無論、奥方様が決して奢侈を好まれぬことも、方伯閣下に宝石などを無心されぬことも、私は重々存じておりますので、とりあえず、個人資産の使い道については百歩お譲りいたします。しかし、お恵みになる金品を個人資産で賄われたとして、パンや菓子などは城の厨房で作らせたものでございましょう」
「それは……」
……もう、図星であった。
城の騎士や侍女(腹心を除く)らに煙たがられているエルジェーベトだが、それ以外の者たちの間ではすこぶる人気が高く、困窮者に配るパンや菓子を焼いてくれないかと彼女が頼むと、城の料理人たちはホイホイ喜んで応じてくれるため、実はハインリヒの指摘どおり、パンや焼き菓子などには城の予算が使われているのだ。
そういうわけで、エルジェーベトは言い返すこともできぬまま、城からガメてきたブツの詰まっている籠に視線を落とした。
「たまにならばよろしいが、さすがにこれが毎日毎日ともなれば、私としても見過ごせるものではございませんし、どこかで止める者がいなければ、人というものは際限なく度を越してゆくものでございましょう。それを知ってか知らずか、口さがない者どもは、いずれ城まで貧民に明け渡しておしまいになるのでは、などと噂しております。――奥方様、誠に失礼とは存じますが、その籠の中身をお見せくださいませ。もしも城で作ったパンなどがございましたら、今後、こういった活動はお控え願います」
こうまで正論を言われては拒否することもできず、エルジェーベトは籠の上にかけてある布をションボリと外していった、のだが――。
「あら、まあ……」
「そんなはずは……」
籠の中身があらわになると、エルジェーベトもハインリヒも揃って我が目を疑った。
なんと、有るはずのパンやチーズなどの姿はそこに無く、代わりに、籠いっぱいに詰まった薔薇の花束が濃厚な芳香を放っているのだ。
「し、失礼!」
「何を――」
「きゃっ!」
ハインリヒは飛びつくようにして、侍女たちの籠にかけてある布も剥ぎ取ったが、なんと不思議なことに、どちらの籠の中身も瑞々しい薔薇の花に変わっているではないか。今はもう真冬だというのに……。
「そんな……」
「ハインリヒ様、そろそろ行ってもよろしいでしょうか?」
「……え? あ、はい。……奥方様、たいへん失礼いたしました……」
呆然とした状態からエルジェーベトの声で我に返ると、ハインリヒは状況を理解できぬままにも深く謝罪し、市門の中へと入っていく彼女たちをただ見送った。
そんな彼に、騎士のひとりが声をかけた。……昨日、城で真綾に熱湯消毒された、あの〈お漏らし騎士〉が。
「方伯閣下のご寵愛深きをいいことに、まったく奥方様は……。ハインリヒ様、よろしかったのですかな? たまたま今日は花束でございましたが、日ごと城から食料を持ち出していることは明白ですぞ、ここで止めておかねば、皆の懸念しておるように、いずれ方伯家の財産は、あのオノグリア人に――」
「やめたまえ」
言ってはならぬ暴言を吐きかけた騎士を片手で制し、ハインリヒは言葉を続ける――。
「それ以上言えば、私も家宰として捨て置けんよ。――安心したまえ、私もああは言ったがね、実のところ、わずかばかり城の食費が増えたところで、我らが方伯家は揺るぎもしないさ」
「しかし、ハインリヒ様もおっしゃったではございませんか、人というものは際限なく度を越してゆくものだと。……あの怪しげな伝道師に感化されて、奥方様がこの先、弱者を救済する活動とやらにますます熱を上げれば、どのようなことになるかわかりませんぞ」
厳しい表情で騎士を諭すと、ハインリヒは一転してニコリと笑ったが、諭されたほうは納得のいかぬ顔をして言葉を返した。
「大丈夫、私が諫言申し上げたことで奥方様にも充分ご理解いただけたさ。いや、私などが申し上げなくとも、ご聡明な奥方様のことゆえ、際限なく度を越すなどということはないだろう。……心の支えを失われでもしない限りはね」
辺りに薔薇の香りが未だ残るなか、遠ざかるエルジェーベトの背中に視線を移してそう言うと、ハインリヒはもう一度、ニコリと笑みを浮かべた。
さて、これこそ、ハインリヒに同行していた兵士らによって広まり、後世までも〈薔薇の奇跡〉として語られることになる一件であるが、その様子を窺っている怪しい人影に気づけた者は、この時、誰もいなかった。




