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第一六五話 方伯領を包む霧 三 テューニンゲンの聖女



 通常、どこの都市にも市の立つマルクト広場があり、その周りを役所や神殿、あるいは商業系ギルドや有力商人の館などが囲んでいる。

 そして、マルクト広場の他にも大小いくつかの広場があり、神殿も同様に、至高の三女神から地域神まで、祀る神ごとに複数存在することが一般的だ。

 さっそく買い食いすべくマルクト広場へ向かっていた真綾は、そういった広場のひとつを横切ろうとして足を止めた。

 すると、広場の片隅をじっと見つめている真綾の脳内に、熊野のやわらかな声が響いた。


『あちらのご婦人方、拝見したところ、貴族家のお嬢様と侍女の皆様、といったところでしょうか? 慈善活動をなさっているご様子ですね。この方伯領にもノブレス・オブリージュの精神が存在するようで、わたくし安心いたしました』


 そう、広場に面した建物の玄関先で、明らかに庶民とは違う衣装に身を包んだ若い女性ひとりと、それよりやや地味な衣装を着た女性ふたりが、みすぼらしい身なりの人々に食料を手渡しているのだ。


(ノブレス?)

『ノブレス・オブリージュ、高い身分には義務が伴うと申しますか、欧州などでは貴族が率先して軍に入ったり、慈善活動に従事したりと、皆様、人々の模範となるような行いをなさっていたのですよ』

(おじいちゃんに聞いたことがあります)


 熊野の説明を聞いて真綾は祖父のことを思い出し、また、その理念を容易に理解することができた。なぜなら、「高い身分には義務が伴う」という理念は、古来より羅城門家に綿々と受け継がれてきたものなのだから。

 愛する祖父の威力は絶大であり、真綾の食欲を一瞬で蹴散らすと、彼女の足を慈善活動の現場へと向かわせるのであった。


      ◇      ◇      ◇


 近づいてからよくよく見ると、貴族の娘らしき女性が着ている衣装は、それなりに上質ではあるが古びており、高価な毛皮やレースなどが使用されているわけでもないため、さほど豊かではない下級貴族の、それも、普段着のようなものではないかと思われた。

 しかし、比較的質素な衣装に反して、当の女性貴族の儚げな美しさたるや、高嶺に咲く一輪の花のようである。

 その女性貴族は食料を求める者の列が途切れると、次の行動に移った。


「いかがなさいました?」

「へ、へい、俺たちゃ大工なんですが、この野郎、足を踏み外しやがって……」

「……親方……スンマセン……」


 まだあどけなさの残る青年を肩に担いで来た男に、女性貴族が優しい声で問うと、担いでいるほうの男は口調のわりに心配そうな面持ちで答え、そんな男に青年は痛みを堪えつつも申しわけなさそうに謝った。

 男と青年の言葉から察するに、彼らは大工の親方と徒弟といったところか。


「わかりました、とりあえず横にしてあげてください、優しく、そっとですよ」

「へい」


 女性貴族に言われるまま親方が徒弟をそっと寝かせると、なるほど、落下の衝撃はかなりのものだったらしく、右足脛の半ばから先があらぬ方向に曲がっている。


「頭は打ちましたか?」

「足から落ちたもんで、そっちは大丈夫でさ」

「それは幸いです。――それでは、しっかり押さえておいてください」

「へいっ」


 最悪の状況は免れたと知り、女性貴族はホッとした表情で頷くと、親方に徒弟の体を押さえさせ――。


「ごめんなさい、少し痛みますよ」

「うっ!」


 ――曲がった足を両手で掴んで、正常な向きに戻した。

 激痛に呻く徒弟をよそに、ここからが本番とばかりに大きく息を吸い始める女性貴族。

 するとどうだろう、徒弟の患部から出始めた黒い霧のようなものが彼女の艷やかな唇の間に吸い込まれ、それとともに、あれほど苦悶の表情を浮かべていた徒弟が見る見る穏やかな顔になってゆくではないか。

 やがて、彼女の美しい顔が上を向くと、今度はその口から黒い霧が立ち昇り、冬の寒空へと消えていった。

 邪魔をしては悪いと思い大人しく様子を見守っていた真綾の脳内に、ここで熊野が声を響かせる。


『こちらの方、シュゼット様と同じ守護者を……』


 そう、熊野の言うように、この女性貴族はシュゼット同様、カラドリオスと召喚契約を結んでいるらしい。

 目を丸くしている親方と徒弟の顔を交互に見つつ、女性貴族は優しく微笑みかける。


「これでもう心配はいりません。でも、念のために今日明日は安静にするのですよ」

「へ、へいっ! 奥方様、ありがとうございました! ――コラッ! 見惚れてねぇでお前も礼を言わねぇか!」

「……あ、はいっ! ――聖女様、ありがとうございました!」


 痛みが消えて美しい笑顔に見惚れていた徒弟も、親方に頭を叩かれて我に返ったとたん、耳まで真っ赤になって礼を言った。

 そうやって大工たちが帰っていったあとも、病気の子供や怪我をした老人など、数人の患者を治療した女性貴族だったが、すべての患者を治療し終えたところで、一転して表情を曇らせた。


「困ったわね、これから孤児院のほうへ顔を出す予定でしたのに……」

「はい、パンやチーズはともかく、子供たちのために用意していたお菓子までも、ひとつ残らず配ってしまいました」

「今日は予想を超える人数が並びましたからねぇ……。ですが、お菓子を楽しみにしていた子供たちのことを思いますと、かわいそうでなりません……。エルジェーベト様、いかがいたしましょう?」


 どうやら孤児院に配る菓子まで使いきったらしく、途方に暮れる女性貴族とふたりの侍女だったが、そこへ――。


「お菓子、あります」


 ――真綾、満を持しての登場である。


      ◇      ◇      ◇


 恵まれぬ者を保護する救貧院と、身寄りの無い子供たちを養育する孤児院、このふたつの施設は、アイゼナハトの場合、隣接するように建てられていた。

 その孤児院内にある、子供たちの遊び場兼大食堂で――。


「オープンザ傘。――はいっ」

「わーっ!」


「いつもより多めに回しております」

「すげー!」


 磨き抜かれた業前を披露して、真綾は子供たちから喝采を浴びていた。……ちなみに本日の芸は、和傘の上で玉を転がすアレである。


「あらあら、マーヤ様ったら、なんて器用な方なのかしら、旅芸人も顔負けの見事な芸ですわ」


 などと両手で口を押さえて上品に笑う女性貴族の後ろで、彼女の侍女たちは、先刻目撃したばかりの奇跡について小声で話し合っていた。


「わたくし、夢でも見ていたのかしら? あちらのマーヤ様とおっしゃるお方、虚空から次々とお菓子をお出しになったような気が……」

「それも、見たことのないお菓子がほとんどでした。お味のほうも驚くほど美味でございましたし……」

「……美味?」

「はっ! ……あ、あの、恥ずかしながら、子供たちにお菓子を配っていた際に、わたくしのお腹が少々音を立ててしまいまして、そうしたらマーヤ様が頷かれて、何もおっしゃらずにお菓子をひとつ、コッソリと……」

「……」


 三十代半ばのぽっちゃり系侍女が口を割ると、彼女の唇にわずかに付着したチョコレートを、年配の侍女はジトッと睨んだ。

 彼女たちの間に亀裂が入ったかどうかはともかく、あのあと、お菓子の提供を申し出た真綾は、女性貴族と名乗り合い、孤児院まで同行させてもらうと、【船内空間】から取り出したお菓子を孤児たちに配り、大盛況のおやつタイムを経て、現在のショータイムに至っているというわけである。

 ちなみに、女性貴族の名はエルジェーベトとのことだが、彼女が家名を伏せたため、真綾もそれに合わせて名前のみを名乗った。


「……ともかく、あのような服をお召しですが、立ち居振る舞いと気品からも、マーヤ様が農家の娘などでないことは確実でしょう。……いえ、あれほどの奇跡をお見せになったのですから、マーヤ様ご自身が高い爵位をお持ちのはずです。よろしいですか、決して失礼のないように」

「はい。……ですが、高貴なご身分でいらっしゃるにもかかわらず、あのように孤児たちとも親しくお接しになるなんて、エルジェーベト様の他にも奇特な方がいらっしゃるものですねぇ。いったいどちらのお嬢様なのでしょう? いかようなご理由でこのアイゼナハトに? それも、農家の娘のフリまでなさって……」


 たとえディアンドルを着ていても、真綾の放つ高貴なオーラは隠しようもないし、人前で自重せず【船内空間】など使ったのだから、侍女たちに身分を看破されるのも当然であろう。

 先輩侍女に釘を刺された後輩侍女は、心得たとばかりに頷いたものの、謎の女貴族に興味を持ったらしく、真綾の素性について考えを巡らせ始めた。

 すると――。


「あなたたち、余計な詮索はおよしなさい、マナー違反ですよ。マーヤ様にもやんごとなきご事情がおありなのでしょう。……それに、悲しいことですが、身分ある者が気安く孤児と接したら、とやかく言う者たちが現れるものです。マーヤ様も高貴なご身分ゆえに、農民の姿をされてまで孤児たちに手を差し伸べていらっしゃるのかもしれませんよ」


 ――彼女たちの主であるエルジェーベトが、肩越しにやんわりと諭した。

 その声に籠もるのは自分の同類に出会えた喜びか、それとも、同類と思えばこその憐れみか……。


「ご覧なさい、子供たちのあの楽しそうな顔を……。こちらにいらっしゃるマーヤ様はご身分と関係のないマーヤ様、子供たちに幸福を贈るひとりの女性、それでよろしいではありませんか」

「……はい」

「そうですねぇ」


 テューニンゲンの聖女と呼ばれるエルジェーベトの晴れやかな声が、きっと彼女自身にも向けられているのだと思い、ことさら力強く頷く侍女たちであった。



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