第一三四話 旅立つ前に 一七 黒き乙女と膝つく宮中伯
真綾の揺るぎない決意をよそに、鏡の間は雪辱を果たさんと盛り上がる貴族たちの熱気に満ちていた。
ここで、旗色ヨシと見たゾフィーアが満を持しての介入である。
「マーヤ様、どうか皆の気持ちを汲んでおやりになってください、わたくしも全身全霊をもってお支えしますので、これから毎日。――そうですわね、とりあえず、ラーヴェンヴァルト家の治めていたコンストニッツ伯領に大鴉の森を加え、マーヤ様の直轄領としましょう。あとは大陸諸国より税を徴収すれば――」
酷薄そうな美貌に身の毛もよだつ笑みを浮かべ、あとひと押しとばかりに真綾を説得し始めるゾフィーアであったが――。
「やめんか、いい大人が」
眠ってしまったマーヤを抱っこ中のエーリヒによって、ものの見事に遮られた。
「皆の気持ちはわしにもようわかる、命に替えてもマーヤを守るという覚悟も見上げたものよ。……じゃがな、マーヤの盾になって死ねるお前さんらはさぞや本望じゃろうが、マーヤの気持ちも考えてみい。――この子はなあ、こうして大人びて見えるが、これでもまだ十四じゃ、それもたいそう心根の優しいな……。先祖の雪辱を果たすため、貴族としての誇りのため、義侠心のため、どれも立派な理由ではあるがの、いい歳した大人が寄ってたかって子供に重荷を背負わすなど、恥を知れ!」
慈愛に満ちた眼差しで真綾を見やったエーリヒが、今度は一転して厳しい視線を巡らせて言い放つと、貴族たちの熱は嘘のように引いてゆく……。
「そもそもマーヤには盾などいらん、必要もない盾になって勝手にパタパタと死なれたのでは、それこそいい迷惑じゃ、この子が旅立つと決めたのなら快く送り出してやらんか。この大陸のいかなる王をも超えるマーヤは自由よ、どこへ行こうが何をしようが、誰にも止められるものではないわ。……マーヤを縛りつけようなどと、思い上がりもたいがいにせい」
鋭い眼光が最後に紫の瞳を見据えた時、異を唱えようとする者はひとりもいなかった。
すると、それまで険しい表情で我が娘を見つめていたラインハルトが、厳かな歩みで真綾の前に進み出ると、音も無くその場に右膝をついた。
「マーヤ姫殿下、悪意なきとはいえ、分を超えたる願いを皆が申しましたこと、心より謝罪いたします。どうか、ご意思のままにご出立ください。――されど、湖の乙女様のご子孫にして神殺しの姫君たるあなた様にお力添えしたいという、我らの想いは、父なるレーンの枯れることなきがごとく確たるものでございます。今後、何かございました際には、どうかご遠慮なく我らをお頼りください。我ら一同、必ずやご助力いたします」
恭しく頭を垂れて誓う前宮中伯の姿を見るや、誰しもが次々と彼に倣って膝をついてゆき、最後には諦めたようにゾフィーアもまた膝をついた。あたかも、絢爛たる大広間で主君への忠誠を誓う家臣たちのように。
これこそ、後世の歌劇や演劇で幾度も演じられることになる名場面、『黒き乙女と膝つく宮中伯』である。
異世界転移してから二か月足らず、真綾はついに、ひとつの領邦を掌握したのであった。
◇ ◇ ◇
その後、場も落ち着きを取り戻し、そろそろお開きという段になって、遅ればせながらと熊野が自己紹介などしたおかげで――。
「ふ、船ですと! これほど巨大にして絢爛たる宮殿が!?」
コロニア伯が目ン玉ひん剥いて驚いていた……。
「はい、これでもわたくし、かつて〈南海の女帝〉と呼び讃えられた貨客船なのでございますよ」
「南海の、女帝……」
無理もない、この世界における船というものはもっと小さく、不衛生で、船員や客の部屋などというものも存在せず、簡素な船室がひとつでもあれば上等、という程度のシロモノであり、宮殿のごとき巨船など想像すらできなかったのだから。
まあ、こんな感じで、熊野の正体を知ったコロニア伯が驚くという流れから、紆余曲折を経て――。
「そ、そこをなんとか!」
「お願いでございます、あれほどの美食を頂いてしまったら、もうどこのお料理でも満足できませんわ!」
「お金ならいくらでも!」
「アタクシにもっとショコラを!」
「もっと美酒を!」
――鏡の間は混乱の極みにあった。……そう、いざ帰るという段になって、招待客たちは気づいてしまったのだ、今からこの快適な場所を離れて寒さのなか帰らねばならぬという、自分を待つ過酷な現実に、そして、〈ごく普通〉の高級宿に戻った翌朝から〈ごく普通〉の豪華料理を食べねばならぬという、自分のたどる悲しき未来に。
そんなわけで、熊野丸が豪華貨客船であると知った彼ら彼女らは、せめて今夜だけは泊めてもらえるよう真綾に懇願したのだが、許さなかったのだ、エーリヒ(マネージャー)が……。
「いい歳した大人ばかりじゃというのに、まったくもって聞き分けないことよ、駄目じゃと言うておろうが……。皆、ヴァイスバーデンの宿を取っておるのじゃろう? こんな間際で大量にキャンセルなどされてみろ、宿の者、すなわち当家の領民が大いに困ることになるわ。――さあ、大人しくお引き取り願おう」
「そ、それでしたら、どなたもお困りにならないよう、宿には今日の宿泊代をきちんとお支払いいたしますわ」
「そうそう、マーヤ姫殿下に対価をお納めしたうえで宿にも代金を払うなら、何も問題はございますまい」
「後生です、アタクシにショコラを!」
「美酒を!」
取り付く島もないエーリヒに食い下がる人々。……もう、必死である。
「エーリヒ様、皆様このようにおっしゃってますが……」
「いやいやクマノ様、甘やかしてはなりませんぞ、こやつらに一泊でも許してみなされ、もう一泊、もう一泊と、ずるずる居座り続けるに決まっておりますわい。一度でも贅沢を知れば忘れられんのが人の性、ましてやここで何日も暮らしたとあっては、こやつら皆、廃人のようになってしまいますぞ。ここでキッパリと断ってやったほうが皆のため、ひいては宮中伯領全体のためというものじゃ」
客をもてなすことが好きな熊野としては、ここまで懇願しているのだから泊めてあげてもいいのでは? などと思うのだが、エーリヒはそんな熊野をやんわりと諭した。
すると、残念そうにひとりごとを言い始める熊野……。
「はあ、そういうものでございますか……。眺めのよい喫茶室や展望ラウンジ、それから大劇場や展望大浴場などもございますし、船室はすべて冷暖房完備でバス・トイレ付きなのですが、まだまだご賞味いただきたいお料理やデザート、お酒などもございましたが、残念です……」
「…………」
狙ったわけではなかろうが、皆に聞こえるように、しかも、わざわざ余計な情報まで付けて熊野が言った瞬間、わずかばかりの沈黙が訪れ、すぐに――。
「どうかお慈悲を!」
「今夜だけと約束いたしますので!」
「ショコラを!」
「美酒を!」
悲壮な声が一斉に沸き起こった。
「知らんがな」
それをエーリヒが無情にもひとことで断ち切ると、今度は悲鳴めいた嘆きの声が一斉に沸き起こったのだった……。
ともかくこうして、旅立つ前にと真綾が為した奇跡の数々により、新生エックシュタイン家の船出は順風満帆に始まったのである。
レーンガウの高級温泉保養都市ヴァイスバーデン、そこからほど近いシルシュタインという町のすぐ南に、マーヤスハーフェンと呼ばれる大きな川港があるが、その名の由来には、開港当時のタウルス=レーンガウ伯の娘、マーヤの名を付けたとする説と、たったひとりで数日のうちに巨大な入り江を造ったとされる黒き乙女、マーヤ・ラ・ジョーモンの名を頂戴したという説、この二説がある。
そのどちらが正しいかについては、後世の郷土史家などが意見を戦わせることになるが、当事者たるマーヤと真綾にとっては、どうでもいいことであった。
◇ ◇ ◇
さて、蛇足ではあるが、ここでいくつかの事柄についても語っておこう。
まず、船着き場にひしめいているはずの馬車や馬の姿が、なぜかまったく見えなかったことについてだが、これは単純に、真綾が【船内空間】へ収納したためである。
それでは、御者や船頭といった者たちはどうしたかといえば、おめでたい日でもあることだし、【船内空間】に入れるのではなく彼らにも喜んでもらいたい、ということで、熊野丸の船員用エリアに収容し、温かい食事などを提供していたのだ。
たとえば――。
「こんなぬくぬくした場所でごちそうを頂けるなんて、伯爵様の依頼を受けて正解だったぜ。……それにしても、こんだけ立派な川港ができたんだ、これからレーンガウはもっと栄えていくに違ぇねぇな」
「父ちゃん、うめぇよ! こんなごちそう、俺、生まれて初めてだ!」
――コロニア伯がチャーターした川船の船頭親子も、他の船頭や御者たち、それから貴族家出身ではない供回りたちと同様、ハンバーガーやらカレーライスやら、次々と出てくる料理の数々に舌鼓を打っていた。
ちなみに、彼らでも食べやすいようにと、手掴みやスプーンで食べられる料理をチョイスするあたり、さすがは熊野である。
最後に、従者や侍女、あるいは騎士や騎士見習いといった、貴族家出身の者たちについてだが、主と離れたあと、彼ら彼女らは夢のような時間を送っていた。船室、設備、料理、そのすべてにおいて熊野丸の二等は他船の一等を超えると称賛されていた、その二等エリアで。
たとえば、二等大食堂の奥、熊野丸船尾に位置する二等喫煙室では――。
「我々にまで料理をご用意してくださったこと自体にも驚きましたが、そのうえあのように立派な大食堂で、しかもあれほどの美食を頂けるとは、まったく思いも寄りませんでしたな。……一介の従者に過ぎない私が国賓のように遇していただけるなど、一生の思い出ができました」
「ああ、まったくだ。そのうえ晩餐が終わったあとも、こうして極上の美酒まで振る舞ってくれるのだから、エックシュタイン家は本当に懐が深いな」
コロニア伯の従者が重厚な革張りソファーに腰掛け、先ほど終わった二等大食堂での晩餐、それも、これまで味わったこともない料理の数々を思い出し、しみじみと感動を噛み締めていると、同僚である騎士がウィスキーグラスの氷をカランと鳴らした。
貴族の子として生まれたとはいえ召喚能力を得られなかった彼らは、幼きころから他家に出され、貴族に奉仕する者としての生を送ってきたため、貴族のように扱ってもらえたことが嬉しくて堪らないのだ。
一方、二等大食堂より二層上に位置する二等喫茶室では――。
「先ほどの晩餐といい、このお菓子といい、本当にわたくしなどが頂いてもよろしいのでしょうか? セファロニアの姫君でさえ、これほどの贅沢はおできになれませんでしょうに」
「難しいお話はよしましょう、これほどのお菓子、この機を逃せば、おそらく一生お口にできませんわよ」
「そのとおりですわよ、このショコラなんて、きっと世界中でここにしかございませんもの、頂けるだけ頂いておきましょう」
コロニア伯夫人の侍女が他家の侍女たちとともに、スイーツなパラダイスを和気あいあいと満喫していた……。
「それにいたしましても、晩餐でお腹いっぱいになったはずですのに、甘いものならまだまだ頂けるのですから、人間の体ってホントに神秘的ですわね」
「「ですわね~」」
「「「オホホホホホ!」」」
……主と同じように。
このような次第で、思いがけぬ歓待を受けた人々は例外なく喜び、メイン会場とは別の場所でもエックシュタイン家の評判は上昇しまくったため、タウルス=レーンガウ伯となったカールは、後年、何かとその恩恵を受けることになる。
これもまた、旅立つ真綾の置き土産であった。




