第一三三話 旅立つ前に 一六 揺れないシャンデリア
水上を航行する船のインテリアは陸上建築物のそれと違い、〈船体の揺れ〉というものが必ず考慮されている。その典型的な例を挙げるなら天井照明であろう。
宮殿にあるような吊り下げ式のシャンデリアは危険なため、船体が大きく傾くこともある船ではまず使われず、その代わりに、天井から柱状クリスタルが生えているようなものや、本体は天井に固定されて装飾パーツ部分だけが揺れるものなど、船体動揺時の安全を考慮したシャンデリアが使われている。
豪華貨客船熊野丸も例外ではなく、欧州の宮殿を参考にしたという鏡の間では、天井から生える無数の柱状クリスタルと小さなクリスタル装飾から成る、豪奢にしてモダンなシャンデリア群が、ぬくもりある電球の光を綺羅びやかに乱反射させていた。
今、その光の下、ゾフィーアとその前に集う貴族たちへ向け、熊野が何やら話し始めていた。
「お話の途中、誠に申しわけございませんが、真綾様の今後のご予定について皆様にお伝えしたく存じます」
「……今?」
「はい、今」
「…………」
あとにしてくれと言わんばかりの問いかけを、呆気なく熊野によって叩き落とされ、ゾフィーアは顔色も変えず黙り込んだ。
「何ぶん、ここは慶事の場でございますし、小さいお子様もいらっしゃいますので、レーン宮中伯領内の難しい事柄につきましては、日を改めて貴族家ご当主の皆様でご相談くださいませ」
「あームズカシイお話聞いたら、ボク、眠くなってきたヨー」
「眠い……」
人の集まりから少し離れた場所でアンナと手をつなぎ、熊野からのパスをセリフ棒読みで蹴り込むヨーナスと、ウトウトと本当に舟を漕ぎ始めているマーヤ。このナイスプレーにより――。
(おお、たしかに、幼い子を大人の話に付き合わせるというのも……)
――などと思い始めた人々に向け、熊野は話を続ける。
「さて、これまでレーン宮中伯領に滞在されていた真綾様でいらっしゃいますが、やんごとなきご事情により諸国を巡っておいでの御身ゆえ、すぐにここを離れ、旅を再開されることとなりました。当面の間は帝国内各地をお巡りになるご予定でいらっしゃいます」
実力ある姫君が自分の住まう領邦内に滞在しているということは、民衆だけに限らず貴族にとっても至極光栄なことであるし、また、あわよくばマーヤ姫に取り入ろう、などと目論んでいた者も少なくなかったため、熊野から真綾の旅立ちを聞いたとたん、この場にいるほとんどの者が嘆息した。
ともあれ、この発表により、ゾフィーアの野望は儚く潰えるかに見えた。
「つきましては、皆様にお願いがございます。真綾様のご出立を広く喧伝していただきたいのです」
「クマノ様、なぜそのようなことを? マーヤ様のご存在を知れば、帝国中の貴族たちがこぞって群がってきますわよ」
神殺しの姫君が帝国内を放浪している、などという空前絶後の事実を知れば、あわよくば姫君に取り入ろうと目論む者、あるいは自分の派閥に取り込もうと企てる者、はたまた単純に、一度拝謁して皆に自慢してやろうと考える者など、帝国中の貴族たちが動き始めるのは目に見えているため、面倒ごとを招きかねない熊野の頼みに、あわよくば派の筆頭ノイエンアーレ伯が宙を見上げて質問した。
「そちらにつきましてはご心配に及びません、いかなるお方がいらっしゃっても真綾様なら簡単に振り払えますので。……実を申しますと、それよりも真綾様がご懸念されていることは、一か所に長く滞在することによって、ご自分を狙う刺客が襲来し、周囲の方々を傷つけてしまうことなのです」
「刺客!?」
「はい、皆様が先刻ご覧になった魔石こそ、真綾様のお命をお狙いになった神様の成れの果てでございます。さような次第でございますので、敵に居場所を特定されている今、別の刺客――おそらくは神様が、再び襲来されるかもしれないのです」
刺客と聞いて驚くノイエンアーレ伯に熊野が説明した、その時――。
「それでは同じでござらんか! ご自分を狙う刺客によってこの地が荒らされることを憂い、安住の地を捨ていずこかへと飛び去られた、湖の乙女様と!」
神の襲来と聞いて臆するどころか猛然と声を上げたのは、なんと、さっきまで真綾とエーリヒによってビビらされていた、あのコロニア伯ではないか。
「マーヤ姫殿下、領邦の危機を幾度も救ってくださったあなた様を、我が身可愛さのあまり放逐したとあっては、我ら皆、必ずや子孫たちに嘆かれましょう、先祖がそうであったように! ――皆もそう思うであろう!」
「まさしく!」
「そうですわ!」
カイゼル髭をピンと立てて言うコロニア伯に、ほとんどの者が力強く賛同した。
さすがは武闘派揃いで知られるレーン宮中伯陣営――と言いたいが、この、待ち望んでいたものを得たような喜びと興奮、そして、皆の瞳に灯る覚悟の火……。どうも武闘派という言葉だけで説明できるものではなさそうだ……。
ほどなくして、しずしずと真綾の前に進み出てきたのは、フロスヒルデを伴ったフライスガウ伯である。
「マーヤ姫殿下、こちらからお声がけするご無礼を、どうかお許しくださいませ。わたくしはフライスガウ伯を拝命しております、フランツィスカ・フォン・フライスブルクにございます。――さて、尊きお方に当家の話などをお聞かせするのは、誠に恐縮でございますが、当家では武装船団の旗艦に代々ラーヴェンヴァルトと名付けております。……その由来をご説明申し上げてもよろしいでしょうか?」
うっとりするほどの淑やかさでカーツィーの姿勢をとったあと、フライスガウ伯が許可を求めると、真綾はコクリと頷いた。
「恐悦至極に存じます。――当家の治めるフライスガウは大鴉の森に接しておりますので、魔境たる彼の地を治めてくださる湖の乙女様には、たいへんなご恩がございました。それに、そのご子孫であるラーヴェンヴァルト家とは領地も近く、長らく友好的な関係でございました。……ですが、今から百年ほど前のこと、突如として魔物の軍勢が湖の乙女様を襲い、それらをラーヴェンヴァルト家ご当主とともに退けられた湖の乙女様は、この地の者に累が及ぶことを憂慮なさったのでしょう、いずこかへ去ってしまわれたのです……」
フライスガウ伯が語り続けるにつれ、感極まったのか、人々の間からすすり泣く声が上がり始めた。
「……個人的な友人でもあるクラリッサ・フォン・ラーヴェンヴァルト様、そして、大恩ある湖の乙女様、この大切な方々が魔物の軍勢と戦われるというその時に、湖の乙女様の厳命とはいえ自分が何もできなかったことを、さらに、この地のために去られる湖の乙女様をお留めできなかったことを、当時のフライスガウ伯は心から悔やみ、せめてラーヴェンヴァルトの名を後世に遺そうと、代々の旗艦にその名を付けるよう決めたのでございます」
耳心地よい美声でそこまで語ると、真綾の理解を待つように少し声を休めるフライスガウ伯。
レーン宮中伯領で生まれ育った者に当代の英雄は誰かと問えば、エーリヒ・フォン・エックシュタインと答えるに違いない。それでは、もう少し昔の英雄は誰かと問えば、ほとんどの者が、クラリッサ・フォン・ラーヴェンヴァルトの名を挙げることだろう。
空と大地を埋め尽くす魔物の軍勢を相手に、ただひとり湖の乙女とともに戦った乙女、クラリッサ・フォン・ラーヴェンヴァルトは、魔境大鴉の森を統べる湖の乙女の子孫であることや、帝国中に知られるほど美しく聡明であったこと、また、その悲劇的な最期も相まって、レーン宮中伯領では最も人気のある英雄のひとりなのだ。
民衆にとってはそうだが、フライスガウ伯たち貴族にとってはそれだけではないらしい――。
「そのような次第でございますので、当家のみならず、レーン宮中伯領に住まう貴族、特に大鴉の森周辺に代々根付く諸家の者は、皆、幼いころよりクラリッサ様と湖の乙女様の伝説を聞かされ、先祖の悔恨と先祖に対する失望を胸の奥底に抱えて育つのです……」
……そう、ここにいる貴族たちがこのような雰囲気になっているのは、熊野の話を聞いたことで湖の乙女と真綾の姿が重なり、幼いころより……いや、先祖代々燻ぶっていた、クラリッサと湖の乙女に対する後ろめたさのようなものが、一気に燃え上がってしまったからだ。
と、その時、水色の瞳で黒い瞳を静かに見つめるフライスガウ伯のとなりから、何者かが真綾にとんでもないパスを回した――。
「あなたからクラリッサの匂いがする。どうして?」
フライスガウ伯と同じ色の瞳に真綾を映したまま、コテンと小首をかしげるフロスヒルデ。すると――。
『真綾様、お待ち――』
「たぶんその人、ひいおばあちゃん」
『あ……』
熊野が制止する間もなく、真綾は受けたパスを豪快に蹴り込んだ。
◇ ◇ ◇
真綾が放ったシュートの威力たるや凄まじく、あのあとしばらく、狂喜する者あり、感涙にむせぶ者ありと、鏡の間はたいへんなことになってしまったが、その詳しい様子などは割愛させていただこう。
……まあ、死んだはずのクラリッサが生きていた、しかも異国に逃れてその地の王に嫁いでいた(彼らは勝手にそう解釈した)、という衝撃的事実が判明したうえ、その曾孫たる真綾がレーン宮中伯領に帰ってきてくれた(彼らは勝手にそう解釈した)のだから、貴族たちが沸き立ったのも無理はない。
「マーヤ姫殿下、先祖の雪辱を果たす好機をお与えいただき、感謝の言葉も見つかりませぬ。私にとって湖の乙女様は最も尊崇する地域神、そしてクラリッサ様は最も憧れる英雄、そのご直系にあらせられる姫殿下に拝謁が叶いました今、もはや今生に未練などございませぬ。〈王級〉の刺客が何するものぞ! このコロニア伯、命に替えましても姫殿下をお守りする所存なれば、どうかこの地へお腰を落ち着けられませい。――皆もそう思うであろう!」
「然り!」
「そのとおりでございますわ!」
今もまた、目を潤ませて真綾を引き留めるコロニア伯に、貴族たちが鼻息も荒く賛同している真っ最中であった。
『うーん、思ったとおり、皆様にとって真綾様と奥様のご関係は、この上ない着火剤でございましたね~』
(海よりも深く反省……)
収拾がつきそうもない状況を前に、やや呆れ気味の熊野と、脊髄反射で答えてしまったことを反省する真綾……。しかし、こうして熱心に引き留められたからといって、真綾の決意が揺らいだわけではない、彼女は鏡の間のシャンデリアのごとく揺るぎない少女なのだ。




