第一二話 大鴉の森 六 湖の乙女
「わたくしが今お話しいたしましたのは、湖の乙女様がご子孫とおふたりだけで敵を迎え討たれた理由、なのですが、……もうひとつ、その無謀とも思えるご決意を、ご子孫の家臣や友好貴族たちが承諾した理由、というものもあります。それは――」
「『それは?』」
「湖の乙女様が、ものすご~く、お強いお方だったからです」
至って真剣な表情で人差し指を立てると、クレメンティーネは信じられないことを口にした。
彼女の口ぶりだと、子孫のほうはあまり戦力に入っていないようにも聞こえるが、だとすれば、湖の乙女はたったひとりだけで、魔物の軍勢に対抗しうる力を有していたことになる――。
「『いくらなんでも……』」
「クマノ様、にわかには信じられないかと思いますが、これは真実なのです。――この森が〈大鴉の森〉と呼ばれるようになった由縁でもあるのですが、湖の乙女様は、大鴉の大群を眷属にお持ちでしたの。大鴉といっても普通の大鴉ではありません、湖の乙女様がその絶大な魔力で作られた使い魔ですので、弱い個体でもハーピー並みの力があります。湖の乙女様はその大群を使役なさっていたうえ、ご自身も巨大な鴉に変化なさるなど、数々の魔術に通じておいででした。――ですので、おひとりで一軍に匹敵するお力を有していらっしゃると言っても、決して過言ではないのです」
真綾と熊野の脳裏に古城で見た光景がよみがえる。あの女城主が湖の乙女であることはもう間違いないだろう。だとすれば、彼女と一緒にいた、真綾の曾祖母と瓜ふたつなあの女性は――。
「弱い子たちをここに匿っていたわたくしは、お城での戦いが始まると、木々を通じてハラハラしながらその様子を見ておりました。――それはもう壮絶な戦いでしたが、敵の陸上部隊を駆逐なさった湖の乙女様は、お城の塔から突如として光の柱が立ったあと、巨大な鴉に変化されますと、あっという間にハーピーたちをも殲滅され、そのまま眷属を引き連れて北方へと飛び去っていかれました。――その日以来、湖の乙女様は二度とここにお戻りにならず、この森は、わずかに生き残った敵や凶暴な魔物たちが跋扈する危険地帯になったのです……。それから……」
「『それから?』」
「湖の乙女様のご子孫であり、貴族家の女当主でいらしたお嬢様も、その後、お姿を見た者がおりません……。お嬢様とも面識のあったわたくしは、森中の木々や動物、精霊たちを使って探したのですが、一向に見つけられず……。もちろん、北へ向かわれた湖の乙女様ご一行のなかにもお姿はありませんでした。……後日、わたくしが木々を通し、森の外縁部に来た人間たちから聞いた話によりますと、人間の社会では、お嬢様が戦死なさったと発表されたそうです……」
悲しそうに目を伏せるクレメンティーネを眺めながら、熊野はひとつの答えにたどり着いていた。真綾や義継たちの出自にも関わってくるため、軽々に言葉にすることはできないが……。
「その人の名前は?」
逡巡した熊野よりも先に真綾が尋ねると、クレメンティーネは緑の瞳で真綾の黒い瞳を捉え、ある人物の名を口にした。
「はい、クラリッサ……クラリッサ・フォン・ラーヴェンヴァルト様です」
真綾が普通の現代っ子だったなら、気づくことはなかったかもしれない。しかし、彼女は家系図が家にあるような名家の子であり、重度のおじいちゃん子でもあり、その祖父が、ドイツから来たという母親のことをたまに語ってくれていた。そして何より、彼女の中には熊野がいる。
『真綾様、このお名前は……』
(はい……)
――などと、熊野と脳内会話を始めた真綾の様子に、クレメンティーネは何かしらを感じ、エメラルドグリーンの瞳に映る少女へ声をかけた。
「どうされましたマーヤ様? まさか、そのお名前に心当たりでも……あら? そういえば、真綾様も艶やかな黒髪をなさっているのですね、光の加減で少し青みがかったようにも見えて、とても美しいです。……瞳も夜空のような色をしていて本当にきれいだわ、まるで…………ハッ! もも、もしや! あなたは……あなた様はっ!」
「……たぶんその人、ひいおばあちゃん」
◇ ◇ ◇
「――そういうわけで、あの時と同じ光の柱とともに出現されたクマノ様のご本体と、その中から出てこられたマーヤ様のことを、わたくしは木々を使い、ずっと注視しておりましたの。するとどうでしょう、ハーピーの群れをいとも簡単に殲滅なさったかと思うと、マーヤ様はじきに北上され始め、今度は、凶暴なカッツェン・ヴァイトをあっという間に倒されたではありませんか――」
「カッツェン・ヴァイト?」
「北上を開始された日の夜中にマーヤ様を襲った、影の塊みたいな、巨大な猫みたいな、あの魔物ですよ。あれは普通なら、剣も槍もスカスカと通り抜けてしまい、倒したと思ってもすぐに再生してしまうという、とても厄介な相手なのですが、その能力も真綾様にはまったく通じませんでしたね、さすがは湖の乙女様のご子孫です」
「?」
布団の中でクレメンティーネが語る身に覚えなき襲撃の話に、着ぐるみパジャマ姿の真綾はキョトンとした。
『真綾様のご就寝中に襲ってきましたので、わたくしが成敗いたしました』
(……ありがとうございました)
グッスリ寝ている自分のことを守り続けてくれた熊野に、あらためて真綾が感謝の気持ちを深めている間も、クレメンティーネの話は続く――。
「マーヤ様は、その後も次々と凶暴な魔物たちを返り討ちにされ、昨夜はとうとう、レッドキャップ率いる乱暴者たちをやっつけてくださったので、今こそ連中の根城にしている洞窟からふたりを救い出してもらう好機と、ラタトスクにマーヤ様のご案内を頼んだのです。――あなたたち、無事でよかったわね」
クレメンティーネがやわらかく微笑むと、コツメカワウソの花に左右から抱きついていた苔男と苔女が、礼でも言うようにペコリと頭を下げた。……真綾の枕元で。
……そう、いつものベッドで横になっている真綾のとなりには、嬉しそうな顔で布団に入ってきたクレメンティーネが、枕元には、コツメカワウソの花に抱きついた苔男と苔女が、なぜか当然のようにいるのである――。
実は、昼食後の会話中、真綾がクラリッサの曾孫であると知り、クレメンティーネは大号泣したのだが、泣き止んだと思ったら、今度はなかなか真綾のことを離してくれなかったため、真綾は結局、こうしてドリアーデの泉で一泊するはめになったのだ……。
なんでも、クラリッサは湖の乙女に連れられて、幼いころからここに何度も遊びに来ており、クレメンティーネにもよく懐いていたらしく、彼女を可愛がっていたクレメンティーネは、魔物による襲撃で彼女が若い命を散らせたと知った時、悲しみのあまり本体が枯れそうになったのだそうだ。
ところが、非業の死を遂げたと思っていたクラリッサは無事に生き延びていた、しかも、その曾孫がひょっこりと現れたのだから、クレメンティーネが離したくないのも致し方あるまい。
異世界で元気にしていたクラリッサの様子を熊野が語り、家族にも恵まれて安らかに生を終えたことを真綾が話すと、クレメンティーネは嬉しそうに泣いていた。
――自分のとなりで横になっている真綾を見つめ、クレメンティーネは穏やかに、そしてささやくように語りかける。
「わたくし、ここ百年ほどの間に、今日ほど幸福な日はありませんでした……。おやすみなさい、マーヤ様。あなた様が、とびっきり幸福な夢を見られますように」
思えば、この優しい木の精霊は、真綾がこちらの世界に転移して来てから初めて出会った、まともに会話の通じる相手だ。しかも彼女は、真綾の曾祖母であるクラリッサのことを可愛がってくれていたと言う。もしかすると彼女は、幼いクラリッサをこうして寝かしつけたことがあったのかもしれない。
今日はきっと、いい夢が見られるに違いない。そう真綾は思った
「ありがとうございます。おやすみなさい」
優しく微笑むクレメンティーネにおやすみを返すと、お腹の上で丸くなっているラタトスクを手で包むようにして、真綾はスヤスヤと眠りにつくのだった。
「『まあ、もうお眠りに……相変わらず寝つきのよろしいこと』」
「クマノ様、では」
「『あらあら、クレメンティーネ様ったら。そんなに慌てなくっても、夜はまだまだ長いですよ』」
「まあ、わたくしとしたことが。……うふふ」
こうして、真綾の寝静まったあとは、あらあらうふふと夜の女子会が始まるのだった。
◇ ◇ ◇
翌朝、小鳥たちのさえずりが響くなか、しっかり朝食を終えた真綾とクレメンティーネは、お互いに別れを告げていた。
肩にラタトスクを乗せたクレメンティーネの足元には、朝露に濡れた下生えの植物と苔男たちが、清々しい朝の光を受けて輝いている。
「お世話になりました」
「いいえ、お世話になったのはわたくしのほうです。百年の間わたくしを閉じ込めていた霧が、一気に晴れたような思いで……マーヤ様、夢のような時間を、ありがとうございました――」
きれいな所作で頭を下げた真綾へクレメンティーネが淑やかに返すと、艷やかな緑色の髪がサラリと流れた。
「――クマノ様も、おいしいお料理の数々、本当にありがとうございました。……これほど気の合うお友達ができて、わたくしは幸せですわ」
「『いえいえ、わたくしも楽しい時間を過ごせました。一晩中、楽しくおしゃべりしたこと、決して忘れません』」
(一晩中?)
『なんでもございませんよ真綾様』
脳内会話するふたりに、クレメンティーネは続ける。
「この場を離れられぬ我が身をこんなにも呪ったのは久しぶりです。できることならご一緒したいのに……」
寂しげに微笑んだ彼女のエメラルドグリーンをした瞳は、涙で潤んでいた。
それを見て、真綾たちは言葉を失う。
「『クレメンティーネ様……』……」
「……この先ずっと、おいしいホットケーキを食べられないと思うと、わたくし、枯れちゃいそうです」
涙をそっと拭ったクレメンティーネが、そう言って笑顔を作ると、真綾は完璧に熊野の言葉を再現した。召喚契約でつながっている熊野の気持ちが流れ込んできたのだ。
「『あらあら、クレメンティーネ様ったら』」
「うふふ」
努めて明るい声を出し合うふたりの様子に、会えなくなってしまった花のことを思い出して、真綾は少し切なくなった。
(花ちゃんに会いたいな……)
そうやって親友の顔を思い浮かべた真綾の足を、ポフポフと突っつくものがある。何かと思って見下ろすと、足元で苔男と苔女が真綾を見上げていた。
苔女は小さなポシェットの中から何やら取り出すと、ゆっくりしゃがんだ真綾にそれを差し出した。よく見ると、ふたつに割ったクルミの殻を植物の蔓で縛ってあるらしい――。
「その中には、この子が作った丸薬が入っています」
苔女の後ろにしゃがみ込んだクレメンティーネが、温かい声で説明を始める。
「ひと粒飲めばたいていの病に効く、なかなかの妙薬なんですよ。……お礼のつもりなんでしょうね、受け取ってあげてください」
クレメンティーネの顔から視線を戻した真綾に、苔男と苔女のモフモフとした頭がコクリと頷いた。まるで幼児のようなその仕草がとても愛らしく、『あら、可愛い』と、熊野も真綾の脳内でお喜びのご様子だ。
「ありがとう」
そう言って薬を受け取った真綾が人差し指を差し出すと、緑色の小さな手が、それをモフッと握った。
ラタトスクをひと晩中触っていたことでチャージされていた真綾の小動物成分ゲージは、これによってもうフルチャージ状態である。
「元気でね」
珍しく微笑んだ真綾は、人差し指を二回上下させてから、そっと立ち上がった。
これからの方針は、クレメンティーネも交えた話し合いで昨日決めている。
「それでは、マーヤ様、クマノ様、どうかお元気で。もし、湖の乙女様にお会いできましたら、わたくしがお帰りをお待ちしているとお伝えください」
「はい。『クレメンティーネ様もお元気で……』」
こうして、異世界で初めてできた友人たちに別れを告げて、真綾と熊野はドリアーデの泉をあとにした。北へ飛び去ったという湖の乙女に会い、真綾がこの世界に転移して来た理由と、元の世界に戻る方法を聞くために。




