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第一二三話 旅立つ前に 六 鏡の間



 かつて、日本と欧州を結ぶ長い航海の途中、熊野丸では頻繁にパーティーが開かれ、乗船する紳士淑女たちを楽しませていたものだ。

 あれから、どれほどの時が過ぎ去ったことだろう。今宵、久方ぶりに豪華貨客船らしい活躍ができるとあって、それはもう、すこぶる熊野は張りきっていた……。


 声のした方向を反射的に振り返った夫人は、たちまち真っ青になって悲鳴を上げた。


「ヒイィィィ! あ、アナタ! 今度こそ魔物ですわ!」


 彼女たちからそう離れていない空中に、いつの間に現れたのか、等身大の人形が二体、ヌボーっと浮いていたのだ。貴族家の使用人らしき衣装を着ているものの、なぜかファンシーな感じの顔を描かれた人形たちが……そう、真綾と花による去年の演劇で使用された、あの人形たちである。


「落ち着け、この私が付いておる。……見た限り、ゴーレムともメネローケとも違うようだし、おそらく、目に見えぬ精霊がただの人形を操っておるのだろう。――して、姿なき精霊よ、いったいここはどこなのだ? ハイデンロッホの蛇乙女が住むという地下宮殿か、あるいは、湖の乙女様が住まわれたという湖上の城か、いずれにせよ、我らは伝説に聞く宮城の類に迷い込んでしまったようだが……」


 伯爵ともなれば肝はそれなりに据わっているらしく、コロニア伯は夫人を宥めると、実体の見えぬ熊野にも臆することなく尋ねた。


「エックシュタイン家が主催いたします祝賀会の会場でございます」

「何ぃ!?」


 熊野の答えを聞くや否や、目ン玉ひん剥いて驚くコロニア伯……。


(そ、そんな馬鹿な! こ、これほど贅を尽くしたホール、とうてい伯爵家に手配できる城館のものではないぞ! ましてやこの短期間で!)


 ――などと、内心少なからぬ衝撃を受けているコロニア伯であったが、それを知ってか知らずか、熊野は至って明るく淑やかに言葉を続ける。


「さあ、皆様お待ちかねでございます、コロニア伯ご夫妻様はどうぞこちらへ。――お供の皆様はこちらへおいでください」


 こうして、人形たちが来賓用とお供用に分かれ、フワフワと空中を移動し始めると、コロニア伯夫妻と供回りたちもいったん分かれ、それぞれの案内人形についていくのであった。


      ◇      ◇      ◇


 熊野操る人形に案内されてコロニア伯夫妻がたどり着いた先は、高さ三メートル台半ばはあろう立派な両開き扉の前であった。

 白地に金の装飾を施されたその扉の前で、コロニア伯は精神の均衡をなんとか保とうと必死である。


(……ま、まあいい。エーリヒ・フォン・エックシュタインは先代の宮中伯と仲が良かったし、シュナイダー商会の前会長とも懇意にしておったらしいからな、おそらくは泣きついて大金を借り、客を迎えるホールだけは贅を尽くして体裁を繕ったのであろう。……しかし、あの豪華すぎるホールだけで資金が尽きたのは一目瞭然、この部屋の中では今ごろ、粗末な内装に興を削がれた客たちが、エックシュタイン家のことを冷笑しておるに違いない、うん。……どれ、その輪の中に私も入っていこうではないか)


 そうやって自分を納得させ、ようやくニタリと笑えた彼の前で――。


「こちら、〈鏡の間〉でございます」


 ――熊野の晴れやかな声とともに、扉は勝手に開いていった。


「…………」

「…………」


 この時のコロニア伯夫妻ほど、「あんぐり」という副詞が似合う人間もいないだろう。まさに、あんぐりと口を開けて、ふたりは室内の様子を眺めていた。

 彼らが目の当たりにしているのは、寒さに震えつつエックシュタイン家を冷笑する人々……ではなく、春のごとき暖かさのなか楽しげに談笑する人々の姿。

 いや、それよりも――。


「……な、なんという壮麗さだ。内装に使われているのは、エルトリアやアナトリア産の大理石ではないのか? 色違いのそれらを組み合わせた床の模様のなんと美しいことか。これほどの高級石材をはるばる各国から取り寄せるのに、いったいどれほどの金が……」

「左右の壁をご覧くださいアナタ、床面から立ち上がる大窓が並んでいるのかと思えば、あれらすべて窓を模した鏡ですわ。それぞれ何枚かの鏡をつなぎ合わせているようですが、元の一枚一枚自体が非常識な大きさです。これほど大きな一枚鏡を作る技術なんて、セファロニアやエルトリアにもございませんのに……」

「ああ、まったく……。これほど大きい鏡…………何ぃ!? 天井を見てみろ! 総鏡張りだぞ! そ、それに、なんだあの巨大魔導シャンデリアは! あれほど豪奢にしてキラキラと輝く魔導シャンデリア、見たことも聞いたこともないぞ!」


 ――この世のものと思えない内装に、コロニア伯夫妻は度肝を抜かれていた。

 輸入大理石をふんだんに使った内装というなら、まだ、財力絶大な王侯の宮殿で見かけることもあろう。……しかし、大きい平面ガラスや鉛クリスタルガラスを作る技術が無いこの世界では、人の全身を映せるほど大きい一枚鏡も、近代以降のようなクリスタルシャンデリアも、贅沢どころか絶対に存在しないオーパーツなのだ。無論、ボイラーの蒸気を利用した暖房や、電灯というものも含めて。……彼らは気づいただろうか? スピーカーから流れてくるクラッシック音楽に。

 ほどなくして、そんな夫妻に目を留めるや、コロニア伯の庇護下にある下級貴族とその同伴者、あるいは夫妻それぞれの友人知人といった者たちが、夫妻の周りに集まってきた。


「コロニア伯閣下、お待ちしておりましたぞ」

「遅うございましたな」

「奥様も、ご機嫌麗しゅう」

「御機嫌よう、奥様」


 ――などと言いつつ夫妻を囲んだ彼ら彼女らが、揃いも揃って興奮気味の表情で、挨拶もそこそこにしゃべり続けたのは、彼らの受けた衝撃を思えば至極当然のことであろう。


「閣下、ご覧になりましたかな? あの立派なホールを。それがしなど思わず声を失ってしまいましたぞ。そしてこの大広間の素晴らしさといったら、各国の王宮のそれをも凌駕するとは思われませんかな?」

「これほどの会場……いや、宮殿を用意できるのですから、エックシュタイン家の力たるや凄まじいものがございますな!」

「ぐぬぬ……」


 貴族たちが口々に会場やエックシュタイン家を称賛するものだから、コロニア伯は俄然面白くない。


「あちらをご覧くださいませ奥様、正面の壁に飾られている三枚の大きなレリーフ、至高なる三女神様のものでございましてよ。いずこの名工の手による作かは存じませんが、あまりに麗しく神々しいお姿なものですから、思わずお祈りを捧げてしまわれる方も何人かいらっしゃいましたわ。溜め息の出そうなあの魔導シャンデリアや大きな鏡といい、春のようなこの暖かさといい、これほど素敵な大広間、セファロニアにございまして?」

「あそこに置かれている大きな壺なんて、各国の王侯が近年こぞって収集していらっしゃるという、はるか東方の磁器だそうですの。わたくしも近くに行って拝見しましたが、それはもう滑らかな肌に、驚くほど緻密で美しい彩色を施してございましたわ。あれほど巨大にして絢爛豪華な磁器、エルトリアやセファロニアの王宮にもございませんでしょう? それにこの、どこからともなく聞こえてくる音楽だって、まるで天上の楽隊が奏でているようではございませんこと? わたくし、このような宮殿が存在する国に生まれたことを、心より誇らしく存じますわ」

「ぐぬぬ……」


 何しろコロニア伯夫人は、常々この帝国のことを文化後進国として見下しているのだ、外面はともあれ内心それを快く思っていない帝国人が、この時とばかりに溜飲を下げんとする気持ちも、まあ理解できぬことではない。

 そんなお友達のお口から出てくる言葉の数々を聞いて、コロニア伯夫人も面白いはずがない……。

 結局、夫婦揃って苦虫を噛み潰したような表情のまま、男性陣と女性陣に分かれて社交を始めたころ、鏡の間に熊野の声が高らかと響いた。


「皆様、これより主賓のご来場です。――レーン宮中伯、ゾフィーア・フォン・エーデルベルク様! そのお父君にして前レーン宮中伯、ラインハルト・フォン・エーデルベルク様!」


 主賓来場を告げる声のあと、下手壁面に二か所ある大扉のひとつが開き、そこから、ゾフィーアとラインハルトが並んで入場してきた。

 コロニア伯よりも早く……というか、いの一番に到着していたこの親子であったが、こういった場では最も高位の者が最後に入場するという慣例のため、熊野の用意してくれた別室で今まで待機していたのだ。

 コロニア伯に長々と待たされ、さぞやご立腹であろう……。


(思ったとおり……いえ、それ以上だったわ)


 ……いや、ゾフィーアは上機嫌であった。

 エーデルベルクで火災が発生したあの夜、熊野丸召喚をほぼ真下から目撃した彼女には、真綾の守護者が何であるか予想もできなかったが、城から、つまり、熊野丸の全容をほぼ真横から目撃した者たちからの、「無数の目を爛々と輝かせた怪物でございました」、という報告に交じり、「窓明かりを煌々と連ねた巨城のように見受けました」、との声があったため、ゾフィーアは真綾の守護者の正体を、〈動く城〉のようなものではないかと推測していた。

 コロニア伯の魂胆など見透かしていた彼女が、あえて火に油を注ぐような真似をしたのも、また、兄と慕うカールに自分の城を貸さなかったのも、すべては、エックシュタイン家が窮すれば真綾は城を召喚するだろうと踏んでのこと……つまり彼女は、この機を利用して真綾の城に入ろうと目論んだのだ。


(待機用に用意してくださったお部屋といい、そこで頂いたお茶やお菓子といい、言葉にできないほど素晴らしいものだったし、この鏡の間を始め、お見せいただけたすべての場所が、人界の常識というものを超越していたわ。……これではもう、城というより神々が住まう宮殿ね。つい先日は神をも一蹴なさったというマーヤ様ですもの、これほどふさわしい守護者もないでしょう。……そのマーヤ様ご本人に案内していただけるなんて、わたくし、今まで生きていてよかったわ)


 ……などと幸福を噛み締める彼女の顔を見て、何人か青ざめた者もいるが……ともかく、顔面蒼白な父親を連れフライング気味に訪問してきた彼女は、待機用の部屋に落ち着くまでの間、船内のあちこちを真綾に案内してもらったのだ。

 何しろ、張りきっていたのは熊野だけではない。花以外の友達が家に来ることのなかった真綾は、遊びに来た友達に家の中を案内する子供のノリで、それはそれは張りきって、宮中伯親子を案内しまくったのであった。無論、機関室のような重要区画を避けるなど、案内する場所は限定しているが。

 熊野丸のことを褒めてもらえて真綾も満足、真綾手ずから案内してもらえてゾフィーアも満足、まさにウィン・ウィン……。


「ゾフィーア、何度も言うが、あれほど早い時間に押しかけるなど、マーヤ姫殿下に対し失礼にもほどがあろう。私の寿命を縮める気か?」

「あらお父様、マーヤ様ほどの強者は些末なことなど気になさいませんわ。現に手ずから案内してくださったでしょう?」

「しかし、常識というものをだな……」

「この間はお父様に引き留められたせいで、わたくしはマーヤ様のご活躍を拝見できなかったのですよ、これくらいの心労、我慢なさいませ」

「ううむ……」


 ゾフィーアと並んで歩きながら、娘の無謀を窘めていたラインハルトであったが、父親の心労など気にも留めない娘の様子に、とうとう言葉を詰まらせた。

 そんな親子の向かっている先は、広間奥で貴族たちに囲まれているエーリヒとカールのもとである。無論、個人的な挨拶はすでに済ませているのだが、儀礼上、衆目の前で再度挨拶をする必要があるのだ。

 ところで、前述のとおり主催者親子をそれぞれ貴族たちが囲んでいるわけだが、エーリヒを囲んでいるほうの貴族たちが年若く、それより上の世代が彼に挨拶したあと近寄ろうとしないのは、英雄譚の中でしか知らぬ最強の竜騎士に憧れる世代と、狡猾にして峻厳苛烈な彼を実際に知っている世代の、深くて広い世代間ギャップというやつであろう……。



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