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第一二一話 旅立つ前に 四 霧の城館



「な、なんなのだ、アレは……」

「アナタ、もしや不吉なことの前兆では……」


 ――などと、そこに視線を留めたまま抱き合うコロニア伯夫妻を始め、彼らの従者や侍女、護衛といった者たちも、思いがけぬ怪異にざわめき出した。

 しかし、そんな状況下でも船頭は怪異へと向けて冷静に舵を切り、船首にいる自分の息子にも櫂を使うよう合図した。そこへ行くよう依頼されていることも無論あるし、彼生来の好奇心が恐怖に勝ったということもある。それに、伯爵を乗せているという安心感が彼の背中を押したのかもしれない。

 やがて誰もが不安げに黙り込み、霧中の怪異へと徐々に近づいていくなか――。


「ありゃ? なんだアレは?」


 またも船頭が間の抜けた声を上げた。

 あの怪異からだいぶ離れた低い位置、もう船からはさして遠くない場所に、大きな光が揺らめいているのだ。

 そうしている間にも、川の流れのまま船はその場所へと近づいてゆき、やがて川岸らしき影が見えてくると、その大きな光の正体が、レーン川と支流との合流点の岸で燃えている焚き火だとわかった。


(ああ、やっと岸に着いたか……。なんでぇ、こっちの光は焚き火だったのかよ……あれ? おかしいな、川岸が二段になってやがるぞ。低い部分は船曳き道で、その奥がちょっとした高台になってるんだろうが、あんな高台あったっけ? いやいや、そんなことより、この場所で合流してくる川なんか無かったはずじゃ……)


 ようやく霧の中に見えてきた川岸に安堵したのも束の間、異変に気づいた船頭が訝しげな視線を巡らせていると――。


「失礼ながら、祝賀会のお客様でいらっしゃいますか?」


 ――焚き火を囲んでいた男たちのひとりがランタンを掲げ、川船のコロニア伯一行に声をかけてきた。丁寧な口調とその内容から察するに、彼は川船で来る客を迎える役回りの者なのだろう。


「エックシュタイン家の者らしいですわよ、安心いたしましたわ」

「うむ、あの光の列は会場となる建物の窓明かりであったようだ。どれ、ここはひとつ、伯爵の威厳というものを示してやらんとな。――然り! 我はレーン宮中伯麾下八伯がひとつ、コロニア伯である!」


 ホッとした様子の夫人と顔を見合わせたあと、コロニア伯はカイゼル髭の先を指で整え声を張り上げ、それはもう威厳タップリに返答した。


「ようこそお越しくださいました、これより船着き場までご案内いたします。――船頭、ここから入ってもらうぞ、曳き綱をこちらへ!」

「へ、へいっ!」


 コロニア伯に恭しく一礼した男が、今度は船頭に素早く指示を出すや、船頭は言われたとおり曳き綱を投げるよう息子に合図した。

 すぐに投げられたその綱を、声をかけてきた男とは別の者が受け取り、船曳き馬の馬具に手早く結びつけると、二頭の船曳き馬は、コロニア伯一行の乗る川船を、レーン川の支流らしき川のほうへと曳き込んでいった――。


(おや? 支流かと思ったが、ほとんど流れがねぇところを見るに、こりゃあ川じゃなく人工の水路か? うっすら見えている限りだと嘘みてぇに広い幅だが……)


 馬に牽引される船の姿勢を保ちつつ、船頭の脳内は混乱の真っ只中である。

 レーン川本流に対して真っすぐ鋭角に、下流方向に向かって掘り抜かれたであろうこの水路は、地球の単位で五〇メートル以上も幅があり、その両岸に、本流側と同じく船曳き道と高台が続いているのだが、彼の記憶では、これほど立派な水路などここに存在しなかったはずなのだ。

 その一方、コロニア伯夫妻のほうは他のことに混乱していた。


「ねえアナタ、あの建物が祝賀会の会場だとして……立派すぎませんこと?」

「ああ、そうだな……。これほどの城館、タウルス=レーンガウ伯領内には存在しなかったはずだが……」


 水路を進んでゆく船のちょうど正面、濃密な霧越しにボンヤリと、件の窓明かりの列が何段にも見えるのだが、その列の幅と段数から予想される城館の大きさが尋常ではない。窓明かりが城館の形状をそのまま表しているとすれば、三階までがとてつもなく横に長く、その上に、やや両端を短くした上層階がそびえるという、七階から八階建ての建造物になってしまうのだ。


「窓明かりの密度と配置から察しますに、いくつもの建物や塔などの集合体ではなく、あれでひとつの城館のようですわね。……こんなの、ひとつの城館としては、セファロニアのティエール宮殿本館よりも大きいのではないかしら?」

「ううむ、いかにタウルス=レーンガウ伯領が豊かとはいえ、とうてい伯爵家の持てるような城館ではないぞ。……しかも、あれほどの光量を得るために、いったいいくら金がかかることか。さすがにあれすべてが魔導照明ということはなかろうが、ロウソクやオイルランプだとしても恐ろしい数が必要だぞ……」


 ……などと夫婦で驚いている間も、水路を進み接近していくにつれ、煌々とした窓明かりの列を眺める伯爵一行の視線は上がり続け、急角度で見上げるあまり首が痛くなってきたころ、船曳き馬たちが右に緩く曲がったことで、ようやく一行は水路を抜けたことに気づいた。

 右折後もかなりの距離を真っすぐ進み、今度は直角に左へ曲がり、少し短い距離を進んでからまた直角に左折した数分後、とうとう我慢しきれなくなった伯爵は、船曳き馬の口取り縄を握っている男に声をかけた。


「おい馬丁!」

「はい?」

「正直に申せ、これはいったいなんなのだ?」


 足を止めぬまま上半身だけ振り返った馬丁に、コロニア伯は静かな水面をビシッと指差して問うた。この直後、信じられない答えを聞くことになるとも知らず……。


「ああ、入り江でございますよ、人工の」

「はあ!? 冗談を申すな! ここに来るまでの距離から推測しても相当な大きさになるぞ、レーン川下流域にでも行かぬ限り見ぬほどのな! これほど巨大な入り江を造る大事業にどれだけ莫大な金と時間がかかるか、この私が知らぬとでも思うたか! ごく最近になってようやく復帰したエックシュタイン家に、どうしてこれが造れようか!」


 さもこともなげに答えた馬丁の言葉に、たちまち激しく反論するコロニア伯……。まあ、エキサイトする気持ちも理解できる。まさに彼の言うとおり、資金面ではもちろんのこと、何よりも時間的に考えて、エックシュタイン家では絶対に実現不可能な大事業なのだから。


「ははは、ここへいらっしゃったお客様は、たいてい似たようなことをおっしゃるか、そうでなければすっかり黙り込んでしまわれますな。――ですが、これは誓って冗談でも嘘でもございませんし、もちろん夢魔(アルプ)の見せた夢でもございません。正真正銘、三日前の夕方に完成したばかりの入り江なのです、それも、たったおひとりのお方によって、わずか三日足らずの工事期間で」


 コロニア伯の鋭い舌鋒を笑って躱したあと、馬丁は至って真剣な表情を作り、さらに信じがたい言葉を口にした。……そう、誠にもって信じがたい。大量の人員を投入して数年がかりで行わねばならぬ大土木工事を、たったひとりで、それもわずか三日足らずで完成してしまう人間など、もはや人間ではなく神ではないか……。


「たったひと……ええい! まだ私を愚弄するか!」

「いいえ、愚弄など滅相もございません。――ああ、ちょうど船着き場が見えてまいりました。わたくしはそこまででございますので、ご不明なことなどございましたら、なんなりと案内の者にお尋ねください」

「船着き場ぁ? ――おお! あれに見えるは、フライスガウ伯の〈ラーヴェンヴァルト四世〉ではないか!」


 馬鹿にされたと思い激高する伯爵だったが、馬丁の指し示す先を見るや、たちまち怒りを忘れた。

 霧の中から徐々に見えてきたのは、馬丁の言葉どおりの船着き場。そこに、何隻もの川船に交じり堂々たる大型船が係留されている光景は、男ゴコロというものをくすぐる壮観さがあったのだ。

 フライスガウ伯の御座船たるその大型船の名は、〈ラーヴェンヴァルト四世〉。そしてフライスガウ伯は、コロニア伯やタウルス=レーンガウ伯と同じく、レーン宮中伯を支える八伯爵家のひとつである。

 このラーヴェンヴァルト四世、全長三〇メートル、全幅六メートルの大型平底船で、川船としては珍しく立派な船尾楼船室まで設けてあり、また、黒塗りの船体に施された金の装飾が、主の美意識を物語るように美しい。特筆すべきは、これほど大きい船だというのに帆とマストが存在せず、通常航行では櫂の一本すらも使わないという点だ。その理由については、いずれ語ることもあるだろう。


「久方ぶりに見るが、やはり美しい船よのう……。馬丁、急げ! 早く近くで見たいからな」


 子供か……。

 自身もレーン川沿いの都市で生まれ育ったコロニア伯は、よほど船への思い入れがあるらしく、人工入り江について問いただすこともすっかり忘れ、日本にいる三女神の長女がごとく瞳輝かせて馬丁をせかす始末であった。


      ◇      ◇      ◇


「……アナタ……」

「見よ! この金色に輝く船首像はな、かつて大鴉の森を治めておったという湖の乙女様を模したものでな、そもそも、ラーヴェンヴァルトという船名も――」


 ラーヴェンヴァルト四世の美しい船首像を両手で指し、夫人の声にも耳を貸さずしゃべり続けるコロニア伯……。


「ちょっと、アナタ……」

「この船は平底の川船ゆえキールを持たぬ構造でな、南方船のような三角帆を張ったところで上手く働かん。それではどうやって風上に向かうかといえば――」

「アナタッ!」

「おおう!? 驚いたではないか……」


 業を煮やした婦人に耳を引っ張られ大声出されたことで、ようやくコロニア伯は我に返った。

 実は彼、船着き場に到着するや否や真っ先に上陸し、ラーヴェンヴァルト四世に駆け寄って舐め回すように観察したかと思えば、お供を引き連れ追いついてきた夫人に、この船のことをアツく語っていたのである……。


「あのう……コロニア伯閣下、ご満足されたでしょうか?」

「おお、待たせたな……」


 自分たちの傍らで困ったような顔をしている男から声をかけられ、夫人からジトーっとした目で見られつつ、バツが悪そうにするコロニア伯であった。

 声をかけてきた初老の男は、見るからに上等な外套に身を包んでいるうえ、その物腰が堂に入っていることからも、経験を重ねた上級使用人であろうことが窺える。今日は客を出迎え城館内へ案内する大役を任されたのだろう。


(ははーん、どこかの執事でも借りてきたのであろうな、この者も寒いなかご苦労なことよ。ご苦労といえば――うん?)


 ラーヴェンヴァルト四世から目を離して案内役を一瞥したあと、あらためて船着き場周辺を見回したことで、この時、コロニア伯はある事実に気づいた。


(これだけの船が係留されておるというのに、その船頭らがひとりも見えぬぞ……。それだけではない、船よりも馬車で来る者のほうがはるかに多いだろうに、馬車や御者の姿も見当たらぬのはどうしたことだ? ……いや、主人夫妻に随伴していったであろう従者や侍女はともかく、館に入れてもらえぬはずの他の供回りまで、ただのひとりもおらんではないか……)


 ……そう、まさにそのとおり。

 祝賀会場が水に囲まれた城館だろうことは、入り江を半周してきた伯爵にもわかる。その玄関口にあたるこの場所は、本来ならば、貴族たちを乗せてきた馬車と船で溢れ、その御者や船頭と水夫、あるいは護衛や下級使用人といった、城館の外で待たされている人々により、それなりの賑やかしさがあって然るべきである。

 それなのにどうだ、あの船頭親子を含むコロニア伯一行と、エックシュタイン家側の人間と船曳き馬、あるいは係留されている船を除き、ここには人っ子ひとり馬車の一台すら存在せず、冷たい霧が静かに漂っているだけではないか……。


「……ああ、なるほど、ここに係留されておる船に乗っていた連中は、前日に来てヴァイスバーデンで一泊したのだな。それで、今日は私が一番乗りしたと――」

「いえ、コロニア伯閣下が最後でございます」

「ええっ!? …………そ、それでは聞くが、何ゆえ誰もおらぬ。この入り江はどうやって……いや、それよりも、まずはこれから答えろ! あの城館はどうした!」


 迷推理を案内役にバッサリ切られ、貴族とも思えぬナイスリアクションをしたコロニア伯は、数々の疑問について説明を求め始めたかと思えば、これこそ本命とばかりに一点をビシリと指差した。窓明かりだけが幻想的に浮かぶ、霧の城館を。

 しかし、案内役から返ってきたのは、今度も耳を疑うような言葉のみ……。


「あちらでございますか? わたくしも詳しくは存じませんが、この入り江が完成するまで存在しなかったことだけは確かでございます」

「嘘を申すな! この入り江は三日前の夕方に完成したばかりだと聞いたぞ! それからの短期間でどうやって……」


 コロニア伯の怒りはごもっともである。これだけの巨大建造物がわずか数日で建つはずはないのだから。

 この時、激高する彼の脳内にロウソクの火が灯った!


「…………は、ははーん、読めたぞ……。狡猾で知られた先代のタウルス=レーンガウ伯ならば、毎年この時期に出るという霧すら利用しようと考えかねん。……つまりだ、この霧で上手く外観を隠したのだろうが、あれはおそらく――演劇で使うような書き割りだな!」


 ひとりで何やら納得したかと思えば、今度は案内人をビシッと指差すコロニア伯、カイゼル髭をピンと立てて……。


「……なるほどナルホド、板や布を使って急造した書き割りならば合点がいくわ。よくもまあ、これだけ大がかりな書き割りを間に合わせたものよ、これに関しては私も感服せねばなるまい。……どうせあの内部は、客を入れる部分だけ高価そうに見える布などで板壁を隠し、それなりに見栄えのする調度品などを置いて、どうにか体裁を繕っておるのであろうな。思えば、なんとも涙ぐましい努力ではないか……。だが今日は寒いうえ、貴族の目も節穴ではない。今ごろは、粗末な書き割り館の中で寒さに震える客たちから、エックシュタイン家に対する怨嗟の声と嘲笑が沸き起こっておるに違いあるまい……。フハハハ――」


 ……などと、またも迷推理を披露したあと、勝ち誇ったように高笑いし始めるコロニア伯であったが――。


 ガチャ……。


「何やつ!」


 ――自分の背後に突如として現れた気配を察し、慌てて振り向き身構えた!


「ヒィィィ! アナタ、ま、魔物ですわ!」

「お前は下がっておれ!」

「奥様、こちらへ!」


 ソレを目にしたとたん半狂乱になった夫人を伯爵が庇い、護衛たちも即座に剣を抜いて壁を作った。さらに、従者や侍女もまた夫人の左右で剣を構える。いささか残念な言動はしても、さすがはレーン宮中伯麾下八伯が一角、そしてその家臣、見事な反応と言わざるをえない。

 それでは、彼らがここまで警戒する理由は何なのだろう? 彼らは今、何を目の当たりにしているというのか――。

 霧を背に無言でたたずんでいるソレは、頭部両側から巨大な角が天に向かって屹立し、全身を黒光りする甲殻で覆われた、漆黒の魔人……。



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