第九話 ~ザーサイに逃げるな~
以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。
【ザーサイに逃げるな!】
――ザー
通信機からは耳障りなノイズだけが聞こえる。何度呼びかけても応答はない。小さく舌打ちをして、ウェイン・ウエスギ少佐は通信機を地面に叩きつけた。
「あーあ、知らねぇぞ? 装備課のジェシカちゃんに怒られても、オレは助けねぇからな?」
大型の熱線銃を軽々と肩に担ぎ、人を喰ったような笑みを浮かべてウエスギに話しかけてきたのは、身長二メートルを超える黒人の男。ウエスギより五歳年上のウィリー・バートン軍曹だった。彼の豊富な軍務経験に裏打ちされた戦闘技術と状況を読む鋭い洞察力にウエスギは何度も命を救われてきた。ウエスギの最も信頼する相棒――ただ、一つだけ難を挙げるとすれば、上官に敬語を使う意思がないところだろうか。そこを改善すればおそらく今より三つは階級が上がっていただろう男を見上げ、ウエスギは表情を変えずに問う。
「状況は?」
軽口を全く無視され、バートンは肩をすくめる。少佐殿は笑いのセンスがねぇな、とぼやき、バートンはポケットから何かを取り出してウエスギに放り投げた。
「みーんなオレたちを置いて先にいっちまったよ。気が早すぎるぜまったく。オレたちみてぇな年寄りを優先しろってんだ。なぁ?」
バートンが寄越したのは熱線銃のエネルギーパックだった。残量が少しだけ減っている。熱線銃に取り付けられていたものを外してバートンが持ってきたのだろう。
「ちゃんと礼を言ったのか?」
エネルギーパックを見せてそう言うウエスギに、バートンは心外そうに答えた。
「オレのオヤジは牧師だぜ? コソ泥みたいなマネはしねぇ。ちゃーんとお祈りしてからありがたく頂戴してきたさ」
「この前、オヤジはスーパーの店員だと言っていなかったか?」
「キャベツ並べてるときに神の声が聞こえたんだと」
ウエスギは呆れたように肩をすくめる。バートンの話はどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、まったく判断がつかない。バートンは悪戯っぽく笑うと、すぐに表情を改め、声を潜めた。
「避難所の外はあのクソッたれどもで溢れてる。ここが見つかるのも時間の問題だろう。動くなら、今しかない」
ウエスギは後ろを振り返る。そこには心細げにウサギのぬいぐるみを抱きしめる一人の少女の姿があった。おそらくは第78ブロックの、最後の生存者。
司令部との通信は途絶し、他部隊との連携も絶望的。手許にあるのは携行型熱線銃と超振動ブレード付き手斧のみ。未知の『怪物』が跋扈するエリアを、民間人を守りながら突っ切り、脱出する。おおよそ達成不可能なミッションを前に、ウエスギは天を仰いだ。
西暦2101年、火星への本格移住を皮切りに、人類は本格的な宇宙開拓時代へと突入した。火星で培った惑星改造技術は急速な進化を遂げ、木星の衛星エウロパを経て、ついに人は銀河系の外へと飛び出していく。しかし人類の居住に適する環境を持った惑星は、惑星改造技術がどれほど進化したとしても、そう多くはない。そこで必要とされたのが人工居住衛星――スペースコロニーであった。渡り鳥が羽を休める木の枝のように、惑星間移動の経由地として無数のスペースコロニーが造られ、数十万から百万程度の人が住まう。踏みしめる大地を自ら作り出し、人類は生存圏を飛躍的に拡大させていった。
スペースコロニー1984の異常を知らせる警報が鳴り響いたのは、宇宙開拓歴1000年を祝うパーティの真っ最中だった。小型の隕石が居住区画であるセクター4を直撃、隔壁封鎖によって多数の住民がセクター内に閉じ込められた。電気系統の不具合も発生してセクター内の状況は不明、コロニー政府は統一宇宙軍に救援を要請した。コロニー1984に最も近い宇宙軍基地に所属していたウェイン・ウエスギ少佐は即座に召集され、恋人とのディナーは強制的にキャンセルとなった。
セクター4との通信状態は悪く、住民の安否は不明。最悪の場合、全住民避難も想定しておく必要がある。ウエスギたちは救援部隊の第一陣として、状況把握と住民保護を主任務にコロニーへと向かった。隕石がコロニーのレーダー網にも軍のレーダー網にも掛からず、みすみす衝突を許した原因は分かっていない。奇妙な胸騒ぎを覚えながら、ウエスギはセクター4に足を踏み入れた。
第78ブロックの捜索を命じられたウエスギたちは、救護要請を発信する避難所の惨状に愕然とする。そこには避難した住人の亡骸が無数に折り重なっていた。明らかに隕石の衝突が原因ではない。遺体には鋭利な刃物で切り裂かれたような傷痕や噛み千切られたような痕跡があった。辛うじて息のあった男が、気を失った幼い娘をウエスギに託して息を引き取る。同時に、捜索に当たっていた同隊の隊員たちの通信が悲鳴と共に次々と絶えた。
「何が起きてる!?」
少女を抱えて走るウエスギの前に異形が姿を現わす。獣の顔を持ち、長く鋭利な爪を持った二足歩行の『何か』。それは知性の光を瞳に宿し、確かな意志を持ってウエスギたちに牙を剥いた。人類が地球を離れて千年が経ち、未だ起こることのなかった人類以外の知的生命体との最初の接触は、人類にとって最悪な形で今、実現していた。
バートンの言う通り、この場所に留まるのは愚策だろう。ウエスギたちがいるのは、今は閉鎖された旧避難所――老朽化に伴い廃棄が決定していた場所だ。現避難所で襲撃者の手を辛うじて逃れたウエスギは同様に逃げていたバートンと合流し、データを更新し忘れてコロニーの古い地図を保持していたバートンの案内でこの旧避難所に身を隠していたのだ。
最新の地図にはこの避難所は記載されていない。ここが敵に見つかっていないということは、あの獣顔たちはコロニーのメインコンピュータをハッキングして最新の地図を入手している可能性が高い。ここに潜んでいれば、あるいは敵からは見つからないかもしれないが――ここには水も食糧もない。そして何より、空気の循環装置が壊れていた。このままここに留まっていてもおそらく十時間足らずで酸素不足に陥る。
しかし一方で、民間人の少女を連れて敵中を突っ切ることが果たして可能なのか、ウエスギは決断しかねていた。敵戦力は不明、こちらはわずか二人のみだ。この避難所からもっとも近い別のセクターはセクター5、工場区画。走って三十分というところか。それだけの時間を少女を守って戦えるのか? 死と破壊が飛び交う戦場の風景に少女が耐えられるのか? このままここに留まり、救援が来る奇跡に賭ける方が――
『ザーサイに逃げるな!』
決断に迷うウエスギの頭に、ふと幼い記憶が蘇る。野太い、父の叱責の声。優柔不断だった子供の頃、父はよく彼をこう言って叱った。
『イージーな選択はイージーな結果しかもたらさん! 何ができるか、ではなく、何を為すべきかを考えろ! 最良の結果を想像し、それを得るために必要な手段を探すんだ! 挑め! 挑まぬ人生に価値はない!!』
ウエスギは吹き出すように息を吐いた。最良の結果とは三人が生き残ること。それを成し遂げるなら、ここに留まるべきではない。ここに留まるということは、未来を運に任せるということ。それでは『挑んだ』とは到底言えまい。
「……ザーサイに逃げるな、か」
ウエスギはぽつりとつぶやく。バートンが首を傾げた。
「なんだそりゃ。ワシントンか?」
「いや……」
ウエスギはにやりと口の端を上げた。
「……俺の親父さ」
そいつはサイコーだ、とバートンは手を叩いて笑う。ハイタッチを交わし、ウエスギは表情を引き締めた。
「ここを出るぞ。俺が先行する。お前は彼女をエスコートしろ」
「了解だ、少佐殿」
バートンはウエスギに敬礼した後、少女を振り返って
「失礼、プリンセス。少しの間、オレが貴女をエスコートすることをお許しください」
と言うと、彼女を左腕に抱えた。少女はバートンにしがみつく。どこか嬉しそうなバートンにウエスギは言った。
「しっかり守れよナイト様。無事に生きて帰ったら元帥勲章ものだぞ」
「そりゃいい。ウチの犬の首輪に付けたら迷子になってもすぐに分かる」
無駄話をしながら二人は避難所の入り口のハッチの両側に並ぶ。バートンがハッチの取っ手に手を掛けた。
「無駄弾を撃つなよ。あの化け物どもとチークダンスを踊りたいなら話は別だがな」
そいつは勘弁、とバートンが顔をしかめる。ウエスギが熱線銃の安全装置を外した。緊張の息を吐き、バートンがカウントダウンを始める。
「3……2……1……GO!」
バートンがハッチを開け放ち、ウエスギが外に躍り出る。血に飢えた獣の無数の瞳が、一斉にウエスギの姿を捉えた。
たまに頼るのは悪くない。でも、ここぞという時は自力で未来を切り拓かなきゃ。