第七問 ~お好み焼きに片足を突っ込む~
以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。
【お好み焼きに片足を突っ込む】
張り詰めた、吐き気のするような緊張感に包まれた会議室で、資料編纂課長である佐伯 紘一は一人、資料を手に立っていた。彼の前にはこの会社の取締役たちが、値踏みするような視線を佐伯に向けている。そして居並ぶ取締役たちの中心には、まるで妖怪としか思えないような威圧感を放つ、柔和な笑顔の老人がいる。その老人こそがこの会社の頂点、会長の鈴宮 厳一郎だった。
「それでは、始めてください」
機械的な司会の声が冷酷に始まりを促す。社内企画プレゼンテーション――各部署が自らの企画を直接取締役にアピールすることのできる唯一の場所。通称『御前会議』と呼ばれるこの場に、資料編纂課の命運を賭けて、佐伯は今、戦いを挑んでいた。
「か、解散!? どういうことだ!」
動揺した佐伯の声に、同期の篠原は顔をしかめる。
「声が大きい! まだ正式な通達じゃないんだ」
資料庫には今、佐伯と篠原しかいないはずだが、それでも大声を出せば誰に聞かれるか分からない。隣室では資料編纂課の課員、つまり佐伯の部下たちが通常業務をこなしている。急に資料庫に入ってくる可能性もあるのだ。この話はまだ課員に知られてはまずい。
「正確に言えば、広報部に吸収される。だが実質は解散と同じだ。課員は全員、異動、出向又は退職勧奨の対象になる。お前も含めてな」
資料編纂課は、佐伯を含めて五名しかいない小さな部署だ。その発足は一九八九年、バブルと呼ばれた時代の真っ只中。創立二十五周年を機に、社史の編纂を目的として各部署から人員を募ったことが始まりだった。本来であれば二十五周年記念事業としての社史編纂が終われば解散する予定だったが、当時の社長、現会長の一声で存続が決まり、社報の発行と社史の更新、そして社内資料管理を本来業務として正式な課となった。まだまだ会社が家族的な雰囲気を持っていた、どこか牧歌的な経営が許されていた時代だった。
しかしほどなくバブルは崩壊し、非生産部門である資料編纂課に対する視線は冷ややかなものとなった。会社のお荷物、バブル時代の残骸。会長の命で存続が決まったという経緯により表立って『解散』を言いだす者はいなかったが、そこが閑職であるという認識は社内の誰もが共有するものだった。やがて経費削減を理由に社報の作製業務が消滅し、人員規模も縮小、ついには今、退職勧奨者の最後の異動先、『流刑地』として社員からの恐怖と嘲笑を浴びる場所にまで成り下がっている。
「どうにかならないのか!? 俺はともかく、課員の皆はまだ若い。彼らの会社員人生がこんなところで終わっていいはずがないだろう!」
佐伯は必死の表情で篠原に詰め寄る。だが篠原は冷淡だった。
「資料編纂課が他の部署で何と呼ばれているか、知らんわけじゃあるまい。ここにいたってだけでキャリアとしちゃ最低だ。引き取ってくれる部署はないだろう」
「お前のところで何とかならないのか? 頼む!」
佐伯は篠原の手を取り、懇願する。しかし篠原は力なく首を振るばかりだった。
「この会社はもう、昔とは違う。今や取締役は外様で占められ、鈴宮繊維時代からの直参はむしろ冷や飯食いなんだ。俺だっていつ肩を叩かれるか分からん。力には、なれん」
バブル崩壊後、地方のいち素材メーカーだった鈴宮繊維は積極的なM&Aによって経営の多角化に乗り出し、原材料から加工、流通、小売りまでを行う一大企業へと成長した。社名を鈴宮繊維からベルファイバーへと変更したのもその頃である。しかし企業文化の異なる複数の会社を買収したことにより、社内は複数の派閥が入り乱れ、複雑な政治状況を呈していた。もはや繊維事業は会社の収益の柱とは言えず、鈴宮繊維時代から残る古い社員、通称『直参』の勢力は衰え、『外様』と呼ばれる買収された企業にルーツを持つ社員たちが幅を利かせていた。
「そんな……」
佐伯はがっくりとうなだれる。資料編纂課は確かに華やかさとは無縁の、弱小部署だろう。しかしここは、会社という時間の中で少しつまずいてしまったり、どこか歯車がずれてしまって途方に暮れる者たちが、羽を休める場所としても機能していた。流刑地と揶揄されてはいるが、ここで力をたくわえ、もう一度力強く羽ばたいていった者たちも決して少なくはないのだ。彼らは無能だったのではない。会社が彼らを生かせなかったのだ。今の課員たちも皆、そう遠くない未来に、この会社を飛躍させるための大きな力になってくれる。佐伯はそう信じていた。こんなところで彼らが潰されていいはずがない。
「……可能性があるとしたら」
篠原はためらいがちに言葉を絞り出した。佐伯は顔を上げる。可能性、とはいえ、奇跡に近い提案に意味があるのか、その迷いが篠原の口を重くしているようだった。意を決したように息を吐き、篠原は言葉の続きを口にした。
「御前会議、しかあるまい」
いかなる個人、いかなる部署も分け隔てなく、企画を持ち込み、取締役に直接ぶつけることができる場所、経営戦略会議――通称『御前会議』。そこに自ら立案した企画を持ち込み、居並ぶ取締役たちを説き伏せ、企画を成功させて実績をアピールする。資料編纂課が生き残る道はそれしかないのだと、篠原は言った。確かにそれができれば、資料編纂課の価値は再認識され、存続は可能になるかもしれない。しかしそれは諸刃の剣でもあった。御前会議でのプレゼンテーションに失敗すれば、それがどんな花形部署であったとしても評価が急降下する。後がない資料編纂課にとって、それは自らの寿命を縮める行為に等しかった。のるかそるかの大博打。そして成功する確率など万に一つもありそうにない。
「……やるしか、ないようだな」
そうつぶやいた佐伯の顔から迷いと戸惑いが消え、篠原は目を見開いた。久しく穏やかだった、いや、覇気を失っていた佐伯の瞳に強い光が宿る。それは佐伯の決意の光だった。会社とは、人だ。仕事の意味を見失ったり、家庭と仕事の狭間で苦しんだり、それでもここで働きたいと思っている社員たちを、斬り捨てるような会社であってはならない。課員たちは絶対に、守らなければならない。
「資料編纂課の廃止はほぼ既定路線だ。それをひっくり返すなら、次回の御前会議がリミットだぞ?」
御前会議は月に一回行われ、次回は一週間後の予定になっているはずだ。次々回、つまり一ヶ月と一週間後に行われる御前会議では、資料編纂課の廃止はすでに正式決定されている可能性が高い。ということは、佐伯はたった一週間で取締役たちをねじ伏せるような企画を立案しなければならないということだ。本当にできるのか、と問う篠原の目に、佐伯は口を真横に引き結んだ。
「この業界を取り巻く昨今の情勢について、皆さんもご存じのことと思います」
緊張を悟られぬよう、あえてゆっくりとした語り口で佐伯は話し始める。居並ぶ取締役たちはまるで興味のなさそうに資料に目を落としていた。
――資料編纂課などに何ができる
彼らの表情があからさまにそう告げる。佐伯は舌で唇を湿らせ、話を続ける。
「国連によって採択された持続可能な開発目標、いわゆるSDG′sは新たな世界のあるべき姿を示している。その潮流を無視した経済活動はもはや世界で受け入れられなくなりつつあります」
SDG′sの文脈においてアパレル業界が多くの問題を指摘されていることは、取締役たちも認識しているはずだ。大量生産を前提としたファストファッションは水資源の大量消費と服の大量廃棄を生み、化学繊維が水質汚染と健康被害の原因と指弾されている。廉価を追求するあまりに労働環境は過酷さを増し、労働者を搾取しているとさえ批判されている。消費者のエシカルファッションへの関心の高まりと共に、『ただ安い』『ただかわいい』は時代遅れとなる。環境負荷の少ない原材料の選定からフェアトレード、廃棄量の縮減の取り組みなど、生産から廃棄までの一貫した持続可能性の確保が、消費者に選ばれるための前提となるのだ。
「そんなことは君に言われんでもわかっとる」
広報部長の四宮が、くだらないと言わんばかりに声を上げた。手に持っていた資料を机に放り投げたパサッという音がやけに大きく部屋に響く。
「SDG′sに関しては我が広報部がすでに対外向けに取り組みを発信しとる。資料編纂課ごときが、今さらのこのこでしゃばる余地はない!」
無駄に時間を取らせるな、早く終わらせろ。四宮の目は蔑みと共に佐伯をにらみつける。しかし佐伯は動揺もなくその目を見つめ返した。
「そうでしょうか?」
「……なんだと?」
四宮の顔が不快さを伴って険しさを増す。四宮はヘッドハントされて他業種からいきなり広報部長になった外様の筆頭だ。彼は直参を『懐古趣味に浸る社内の化石』と言ってはばからない。その化石が反論するのはけしからん、というところだろう。もっともここで引き下がっては課が終わる。佐伯は努めて冷静に言った。
「広報課が行っているのはホームページに弊社の取り組みを紹介する記事を載せたことだけ。最終更新日は去年の日付だ。これでは世界に向けて『SDG′sに興味はない』と言っているに等しい。だがそれ以上に致命的なのは、その取り組みが実際には為されていないということだ」
佐伯の指摘に四宮は顔を紅潮させて反論する。
「無礼なことを抜かすな! 記載した取り組みは全て実際に行ったことだ!」
「最初の一度だけ、でしょう?」
ぐっ、と四宮が言葉に詰まる。会議室が小さくざわめいた。佐伯は皆を見渡し、語り掛ける。
「SDG′sの達成に必要なのはパフォーマンスではなく継続です。外見を取り繕うことはSDG′sの本質に反する」
四宮は机を叩き、憤怒の形相で立ち上がった。椅子が床を擦る耳障りな音がやけに大きく響く。
「パフォーマンスなどではない! ただ、各部署との調整に手間取っているだけだ! 状況が整えば取り組みは継続していくつもりだ、当然だろう!?」
佐伯はやや大げさなほどに驚いた顔を作る。
「そうでしたか。しかしこの一年、SDG′sに関して広報部から各部署に働きかけがあったという話は聞きませんが?」
「資料編纂課などという弱小部署が我々の活動の中身を知っているはずが無かろう!」
「知っていますよ」
激昂する四宮と対照的に、佐伯は落ち着きを払っている。やり取りの全てか彼の手のひらの上にあるかのように。
「資料編纂課は、社内のあらゆる書類が集まる場所です」
ハッと息を飲み、四宮は周囲を見渡す。突き放したような視線が四宮に集まっていた。言い訳のように首を振り、四宮は佐伯をにらみつける。
「そ、そもそも、SDG′sなど一過性のファッションに過ぎん! 環境に関心がある、などと言えばもてはやされる風潮に舞い上がった一部のバカが躍っているだけだ! こんなもの、あと一年もすれば誰も憶えていない! 安い、手軽、かっこいいかわいい、客が求めるのはそれだけだ!」
自らの正当性を主張するような四宮の大声を、佐伯は忸怩たる思いで聞いていた。曲がりなりにも大企業と言われる会社の幹部社員の言葉として、あまりにも情けない。
「……そうではない価値を、人々は見出し始めている。他者や自然や未来に対する責任を我々は等しく負っているのだと、私たちは気付かねばならないのです」
静かな佐伯の声を怯んだと受け取ったのか、四宮はバカにしたように顔をゆがませて佐伯をなじる。
「お前はそれでもビジネスマンか! 我々の仕事は利益を上げることだ! 客の欲望を満足させることだ! 百年経たねば効果の見えぬ目標などに誰が関心を払い続けるものか! 人間なんぞ所詮は欲望の奴隷に過ぎんのだ!!」
人間存在を侮辱する四宮の発言に、佐伯の双眸が火を噴いた。理想を嗤い、理念を蔑み、着実な努力を貶める言葉が人間を腐らせる。しかし人間は決して、目先の欲望に惑い溺れるだけの存在ではない。
「過去から学ぶ知恵も、未来を描く知見もないのなら黙っていろ!!」
四宮の嘲笑をかき消す大音声が会議室に広がる。びりびりと空気が震え、窓がカタカタと音を立てた。四宮は顔を真っ赤に染め、しかし気圧されたように口をパクパクと動かしている。
「……私は今、お好み焼きに片足を突っ込むつもりでここにおります」
佐伯は自らの正面に座る老人をまっすぐに見つめた。会議室を張りつめた沈黙が支配する。やがてこらえきれなくなったように、会長――鈴宮厳一郎は笑い始めた。
「ええやろ。SDG′s関連の活動は今後、資料編纂課に機能を集約させる。金も人手も機材もなんもかも、言うだけ用意したる」
「か、会長!?」
驚愕の表情で四宮は会長を見る。しかしギロリとにらまれ、四宮は沈黙した。会長は再び佐伯に目を向ける。
「そない大口叩いてんから、『できませんでした』じゃすまされへんで。半年で目に見える成果を持ってき。それがでけへんかったら――」
会長は妖怪じみた笑みを浮かべ、手刀を自らの首に当てた。
「――首、置いてってもらうで」
「ありがとうございます」
挑むように会長を見据え、佐伯は深々と会長に頭を下げた。
佐伯が示した覚悟は資料編纂課の皆に伝わり、やがて日本中を巻き込む大逆転劇の幕開けとなるのだが、それはまた別のお話。