第四問 ~煮込みトマトと秋の空~
以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。
【煮込みトマトと秋の空】
川べりに座り、工藤 謙太郎は深いため息を吐く。夏はすっかり遠ざかってしまい、吹き渡る風は秋の顔をしている。肌寒さを感じ、謙太郎は身震いをした。
「まぁた黄昏れてんの?」
背後から呆れたような声を掛けてきたのは、振り向かずとも分かる、中学からの腐れ縁、園部 晶だった。謙太郎は反応を返さず、川面をじっと見つめている。不快そうに鼻を鳴らし、晶は謙太郎の横に座った。
「もう一ヶ月だぞ? いい加減浮上しろよ情けねぇ」
言いながら晶は手に持ったソーダを謙太郎に差し出した。缶を受け取り、謙太郎は鼻をすする。
「うるせぇ」
悪態にさえ力のない謙太郎の横顔を見つめ、晶は小さくため息を吐いた。
この春から高校生活が始まり、一学期は目まぐるしく過ぎていった。出身中学が同じクラスメイトは晶だけ。別中の生徒や県外からの越境組との一からの人間関係の構築は新鮮な経験だった。共通の話題捜しに戸惑ったり、鉄板ネタにピンとこない顔をされて微妙な空気が流れたりしながら、互いに手探りであることを笑ったりした。思いもかけない話題が盛り上がった時は妙なハイテンションになった。後から思い返すと恥ずかしいほどに。そんな日々の中で、謙太郎は一人の女の子に恋をした。
椎名 美月。
腰まである黒髪が印象的な、少しキツめの女の子。主張が強いわけではないのに、いつの間にか皆に頼られ、クラスの中心にいる。ほうぼうから持ち込まれる厄介ごとを鮮やかに捌いて平然としているクールビューティ。たった一ヶ月で全校生徒から『高嶺の花』と認定された彼女に想いを寄せる有象無象に、謙太郎もまた名を連ねる一人だった。他の男どもと謙太郎が異なる点があるとすれば、それは美月のため息を見たことがあること、くらいだろうか。遥か遠くを見つめて小さくため息を吐く彼女の姿はひどく大人びて、謙太郎の心臓はどきりと跳ねた。愚痴も弱音も、そしておそらく本音も見せない彼女の視線の先にあるものを、謙太郎は知りたいと思った。
『高嶺の花』に手を伸ばす勇気はなく、彼女との特別な接点など望むべくもないまま、一学期は終わりを迎えた。晶と、そして新たにできた友人たちとひたすらにバカなことを繰り返して高校最初の夏休みは終わった。はしゃいで川に飛び込み、引いた風邪をこじらせて登校日を欠席した謙太郎の二学期の初日に彼を待っていたのは、ひどく残酷な宣告だった。
椎名美月が転校した。
ショックだった。別れも言えずに想い人は姿を消した。そして何よりショックだったのは、転校するということを転校する前に知ることもできない程度の間柄だった、という事実だった。彼女と謙太郎の間には、何の関係も存在しなかったのだ。告白もできない、どころか、認識されていたかも怪しいまま、謙太郎の恋は終わった。
夕日が川面を赤く染め始める。もうずいぶんと日が短くなった。時間は刻々と流れていくのに、謙太郎の時間は夏の終わりで止まったままだ。始まりもしなかった想いを引きずり、どうにもできないことに囚われ続けている。晶の言う通り、今の自分の姿はひどく情けないものだろう。
「……バカみたいだな、俺」
自嘲気味に謙太郎は口の端を上げた。隣に座っていた晶が険しい顔を作り、謙太郎に詰め寄った。
「バカじゃねぇよバカ! バカじゃねぇ!」
真剣に怒りを示す晶の視線に、謙太郎は面食らったように目を丸くした。晶は謙太郎のネクタイを掴んで引っ張り、顔を近づける。
「好きになることはバカじゃねぇよ! すげぇことなんだよ! 勇気がいるんだ、好きになるってのは! そんくらい気付け、バカ!」
晶のあまりの剣幕に、謙太郎は「結局俺はバカなのかバカじゃないのか」という問いを飲み込んだ。ふんっ、と鼻を鳴らし、晶は手を放して顔を背けると、脇に置いていたソーダを一気にあおった。謙太郎もまた、再び川面に目を向ける。夕日を反射する川面の光が目にまぶしかった。晶から受け取ったソーダの缶のふたを開ける。プシュッと気の抜けた音がした。少しぬるいソーダをひと口。ふぅ、と息を吐いて、謙太郎はポツリと言った。
「……秋味メロンソーダだ」
「いや、普通のソーダだぞ?」
晶は不思議そうに謙太郎を見る。謙太郎は呆れたように晶をにらんだ。
「ちげーよ。そういう気分だっつってんの。察しろ」
「知らねーよお前の気分なんてよ」
謙太郎をにらみ返し、晶は不満げな表情を浮かべた。謙太郎は小さく笑った。二人はそのまま、日が落ちるまで、ずっと川面を眺めていた。
高校生活はあっという間に過ぎ去り、謙太郎は地方の大学に進学した。ずっと腐れ縁だと思っていた晶は謙太郎とは別の大学に進み、思いのほかあっさりと、二人の縁は途切れた。大学生活も気が付けば終わり、謙太郎は見事に就職浪人となって地元に帰った。やや肩身の狭い実家生活。アルバイトをしながら就職活動をしていく中で、謙太郎の足はしばしば高校近くの川べりに向いた。
ふぅ、とため息をつき、謙太郎は川面を見つめる。夏はとうに過ぎ、秋の気配をまとった風が川面を渡っていた。いつかもこうやって黄昏れてたな、と苦笑する。あの時から全然成長した気がしない。あの時は失恋の痛手だったが、今は見えない未来への不安。黄昏れている理由は、少し大人になっただろうか? それともむしろ後退した? 独りで考えていても答えは出ない。あいつがいれば、何と言うだろう。
謙太郎はおかしそうに笑った。あの日、あれだけ焦がれていた椎名美月よりも、今は晶のことをよく思い出す。一緒にいるのが当たり前だった親友。バカで、バカのままで笑っていられた時間を共有した相手。故郷に帰ってなお郷愁に似た思いがくすぶるのは、きっと晶がいないからだろう。
「……煮込みトマトと秋の空、か」
川面を染める夕日の赤に目を細める。失って初めて、あの時間が確かに貴重だったのだと知った。そして、あの時間を貴重たらしめていたのが誰だったのかも。そしてそれはもう、遅いのだ。
「まぁた黄昏れてんの?」
背後から聞こえてきた声に、謙太郎は息を飲む。振り返らずとも誰か分かる、懐かしい声。
「進歩ねぇなぁ」
謙太郎が振り返ると、そこにいたのはあきれ顔でこちらを見下ろす、腰まである黒髪の、見覚えのある顔の、見知らぬ女だった。口をパクパクさせ、謙太郎はようやく言葉を絞り出す。
「髪が、長い」
「久しぶりに会った第一声がそれかよ」
相当にがっかりした様子で女は言った。呆然と謙太郎は言葉を続ける。
「スカートはいてる」
「はくわ。お前は私を何だと思ってんだ」
女は謙太郎を軽くにらんだ。ガサツで、いつも一緒で、バカやって騒いで、何でも話せて。親友だと、そう思っていた。でも――
何も言わない謙太郎に、女は怪訝そうに眉を寄せる。見惚れていたことに気付き、謙太郎は思わず視線を逸らせた。
郷愁の赤の正体は――