前編
ご都合主義の快速列車並みの速さで話が進んでいきます。
「ねーえ、エティ」
友人のニーナが私の手を握り締めて私の歩みを止めた。
「何?」
私はニーナの求めに応じて立ち止まり、教材を小脇に抱えて首を傾げる。
「ジルフェイ様と、別れて欲しいの」
私は直ぐには理解出来なかった。ジルフェイ様と、別れて欲しい?
「ジルフェイ様、絶対にエティの事を蔑ろにしてる。このままジルフェイ様と結婚しても不幸なだけだよ」
ジルフェイとは、この国の皇太子であり、とてつもなく美しい人で、私の婚約者の事だ。たしかに、他の人に接する時よりも刺々しかったけれども。
「でも、婚約破棄なんて出来ない。彼方は王家。私は子爵。こちらから何か言える立場ではない」
私の幸せを第一に考えてくれるニーナの言葉が偽りだなんて考えていなかった。ただ、そう見えるんだなあ、世間からはそう思われているのだなあ、と現実を受け止めた気でいた。
「私の方から言っておこうか?」
ニーナが優しく語りかけてくれた。ニーナは遠縁とはいえ王家の血を引いている貴重な令嬢だ。そして、公爵家。私とは身分が雲泥の差である。
「ジルフェイ様に確認をとってからお願いしたいかな」
「うん、分かった。嫌なことがあれば直ぐに言ってね?直ぐに抗議して婚約破棄できるようにするから」
「うん、ありがとう」
その時ちょうど授業開始を知らせる鐘が鳴ったのでニーナと別れて教室に急いで向かった。
「遅れて申し訳ありません」
既に講義を始めていた教師に謝る。
「私に謝られてもね。困るのは自分自身だから」
そう言って席を顎でしゃくるのは私の兄だ。この学校に私が入学したのと同じタイミングで私が卒業するまでの期間限定で教師を務めるのだそうだ。
「はい」
居た堪れなくなって体を小さくして席についた。私の席はジルフェイ様の隣。眉を顰めたジルフェイ様が私に問うた。
「何故、遅れた?」
ああ、責めているようだ。いずれ国母となる自分の妻が時間管理も出来ないようでは困る、と言っているようだ、
「申し訳ありません。以後、気を付けますので」
「理由を問うているのだが」
「友人と話をしておりました」
「友人とは?」
「ニーナです、色々とアドバイスを頂きました」
隠し事をしても何にもならない。馬鹿正直に答えると「そうか」と素っ気ない返事が返ってきた。もしかしたら私が他の男と体の関係を結んでいて遅れたとか思っていたのだろうか。それならば心配無用だ。私に声を掛けてくれる異性はジルフェイ様とその友人しかいないのだから。
「何かあれば、なんでも相談しろ」
「いえいえ、私のようなもののためにジルフェイ様の手を煩わせる訳には参りませんゆえ」
「肯定以外の返事は受け付けない」
「……では、まずニーナに相談をしてからそれでも解決しなければジルフェイ様に相談します」
「そうか」
何の表情も浮かべずにジルフェイ様は私との会話を終了させた。ジルフェイ様と仲の良い公爵家の令息、アクシス様が大きく溜息をついて頭を抱えているのが見えた。もしかしたら私は何かの返答を間違えたのかもしれない。
相手の求める返答もできない、人の感情を機敏に察知できないなど、やはり
ジルフェイ様の婚約者に相応しくない。授業が終わってからジルフェイ様に私の事をどう思っているのかを問うてみようと決意した。そして、あまり良さそうな返事でなければ帰りにニーナに会って婚約破棄をできるように手を回してもらおうと誓った。
授業が終わり、私は荷物を片付けて去ろうとするジルフェイ様を呼び止めた。ジルフェイ様は表情を一切変えなかったがアクシス様は不思議そうに私を見た。
「珍しいね、エティさんが声を掛けてくるなんて。何か相談事でもあるの?」
アクシス様が優しく問いかけてきた。物腰柔らかなアクシス様とは話しやすく、ジルフェイ様とよりも話しているかもしれない。
「一つ、質問がありまして……」
「あ、もしかして邪魔?邪魔だったら去るけど」
「いえ、アクシス様が居てくださった方が話しやすいですので……」
「で、質問とは何だ」
ジルフェイ様がほんの少し顔を強張らせて目をじっと見つめてきた。私は躊躇ったのち、言った。
「ジルフェイ様は私の事をどうお思いでしょうか」
「わお、直球」
アクシス様が煽てた。ジルフェイ様は顔をさらに強張らせて固まった。
「あ、嫌い過ぎて答えられないようでしたらノーコメントと言っていただけましたらそれで良いです」
「ちょっと、ジル。答えなよ。良い機会じゃん、な?」
アクシス様がちょいちょい、とジルフェイ様の体を突いている。
「……」
ボソボソとジルフェイ様が言った。
「ええと?」
聞こえなかったのでもう一度、の意を込めて人差し指を立てるとジルフェイ様はくるりと方向転換してそのまま去っていってしまった。
「あんの、馬鹿……」
アクシス様が溜息をついてジルフェイ様の背中を見た。それから私に曖昧な笑みを浮かべて「いずれ分かるよ」と言ってジルフェイ様を追いかけた。
どうやら嫌いだ、と言うのも嫌なくらいに私を嫌っているらしい。
授業が全て終わり、私はカフェテリアでニーナを待っていた。
「エティ!」
参考書を広げて予習をして待っているとニーナがやって来た。
「ごめんね、待たせたかな」
「大丈夫」
参考書を閉じて紅茶を二人分頼む。そしてニーナに言った。
「婚約破棄の方向でお願いします」
「ようやく決意したのね。うん、わかった。私がなんとかする」
「ありがとう」
ニーナはとても嬉しそうな微笑みを浮かべてやって来た紅茶を飲んだ。
「どういう事だ」
翌日、休日で学校がなかったにも関わらずジルフェイ様は私の家までやってきてそう質問した。
「どういう事、と申しますと……?」
私は急いで二階の自室から一階の応接間に行ってほんのりと冷気を放つジルフェイ様と話をしている。
私は初めて家にジルフェイ様がやってくる状況に驚いて質問に質問を返してしまった。
「どういう事、ではない。婚約破棄をしたいそうだ、と公爵家、ニーナの実家から知らせが入った。是非婚約破棄をするべきだというニーナの激しい手紙と共に、だ。そこにはエティが私を嫌っているからとも書かれていた。それは、本当か?」
初めて、ジルフェイ様は私に向かって長文を話してくれた。そのことが嬉しくてついつい涙目になってしまう。こんな状況なのに、泣くなんて。
「ジルフェイ様。妹を泣かせないでもらえますかね?」
兄が応接間に入ってきて怒った声でジルフェイ様を睨みつけた。
「違う。私が勝手に泣いているだけ。ジルフェイ様は何にも悪くない。嬉しくて泣いているだけだから」
「そう、なら良いけどどうしてジルフェイ様がここに?」
兄は学校で教師をしているときは厳しい事を言うが、家にいるときはとても優しい、妹思いの良い兄なのだ。私にはべらぼうに甘い。そのかわり、私を泣かせたり虐めたりした人への制裁が恐ろしい。幼い頃に私に石を投げた私と同い年の令息が後日涙を流しながら私に謝り倒すという恐ろしい事件があった。兄を見た時のあの令息の恐怖の顔といったら。あれ以来、なんとか先回りをして相手に変な被害が及ばないようにしている。
「ニーナからエティとの婚約破棄を勧める文章が届いたのでその真偽を確かめに。先触れを出さずに押しかけてしまった事は謝ります。申し訳ありません」
「なるほど、だからそんな慌てた格好でこちらに」
「そうです」
「エティ、ジルフェイ様と婚約破棄をしたいというのは事実?事実であればどうして?エティ、ジルフェイ様のことをとっても好いていたじゃないか」
「……」
私は閉口した。自分が嫌っている女に好かれているなんて知ってはジルフェイ様は気分が悪くなるだろう。だから、今まで好いていることを黙っていたというのに。
「エティ?私を好いていたというのは本当か?なら、何故?」
「……」
言って良いものやら分からずに兄を見やれば頷かれた。
「言っても大丈夫だよ、多分エティの考える事は悪いことではないし、そんな事でジルフェイ様は怒らないよ」
「ニーナに、私はジルフェイ様に好かれていない。嫌われている。このままでは幸せな生活を送れない。婚約破棄を進められるようにニーナの方から王家に話をつけておく。そう言われまして。世間一般から見ればジルフェイ様はやはり私を嫌っているのだなあと再確認し、ジルフェイ様にも確認をとれましたのでニーナに頼んだ次第です」
一息に言い切ればジルフェイ様と兄が険しい顔で頷いた。
「まず、確認された記憶がないのだが」
「ええと、昨日質問させて頂きました。無言で去られたので、私を嫌っているのだなあと」
「ジルフェイ様?」
兄がジルフェイ様を笑顔で睨んだ。
「……私の態度が悪かったな」
ジルフェイ様は跪き、私の手を取った。
「エティ、私は貴女を愛している」
「そんな、思ってもいない事を仰らなくても良いのですよ?」
私は、ジルフェイ様が兄の前だから無理をしてそう言っているのだと思った。そして、婚約を一度破棄した女性と結婚したがる人は少なく、将来家庭を持てなくなる私のためにそう言っているのだと。
「いいえ、エティ。貴女は全く理解していない、私のこの言葉は本心だ」
「兄の前だからってそんなこと言われなくても分かっています。だって、私にだけ態度が違うんですから。どんなに鈍感でも分かります。でも、私は大丈夫ですよ。一人で生きていけます」
笑いかければジルフェイ様が溜息をついて「あー、あいつの言った通りだった。ニーナの言うことなんか聞かなければ良かった……」と愚痴を溢す。
ニーナが何かジルフェイ様に言ったの?
「ジルフェイ様、ニーナが何か言ったのですか、私の事で」
ジルフェイ様はちょっと躊躇ってから立ち上がり、頷いた。
「ニーナに助言を求めたのだ、エティの好きな男性像のついて」
「……私はどんなジルフェイ様でも好きですよ?」
「……」
そっぽを向いてジルフェイ様はぶつぶつと念じていた。兄が頭を叩いたためにジルフェイ様はこちらに向き直り、話を続けた。
「エティは冷たい、なんて言ったか、つ、つんでれ?タイプが好きだと」
「ツンデレは苦手ですし、ジルフェイ様の態度はただただ嫌っている人に対するものでした」