今後
「カノイ、これもお願い!」
「姫様、早いです!」
「早くないわよ。ほらほら、次さっさとよこしなさい。これは修正を! 数字がおかしいわよ。ちょっと、これの資料はどこ!? こんな書類に印など押せないわ。突き返しなさい! ガルネーゼ、何に引っ掛かっているの。同じ書類見続けて進んでないわよ!」
中央政務官室から飛び交うフィルリーネの声は、完全に政務官たちを萎縮させていた。
政務最高官長であるタウリュネの父親エシーロムは、王の愚行に関わってはいなかったものの、情報を得ていながら何もしなかったことを咎められ、三ヶ月の謹慎と減俸を言い渡されている。
罰は緩めで、その間細かいところまで政務を行っているのが副宰相ガルネーゼとフィルリーネだ。ガルネーゼはカサダリアに戻らず、フィルリーネの政務補助をするようだが、部屋の中に入ればガルネーゼがフィルリーネにこき使われているのが目で見て分かった。
政務最高官室を使わず、政務官室の机一つを陣取って、フィルリーネはガルネーゼに無遠慮に指図する。
「すごい状況だな…」
つい呟いた言葉に、サラディカも汗を拭く。体格のあるガルネーゼが身体を丸めて資料に目を通しているが、囲まれた資料で頭と背中しか見えない。ベルロッヒとの戦いで大怪我をしたはずだが、もう政務を行なっている。頭も怪我をしていたらしく包帯が痛々しいが、書類を見る程度には回復しているようだ。
フィルリーネが近付いて何に引っ掛かっているか確かめに行った。
それを政務官たちが固唾を吞んで見守っていた。それを目にしないのはフィルリーネの本性を知っている者だけだ。政務官として戻ってきたイカラジャとカノイは、その姿など視界に入れずがしがしと資料をめくっていた。そうでないとフィルリーネの判断についていけないのだろう。
フィルリーネはガルネーゼの書類を見ながら、別の書類を眺めて彼女を横目で見る政務官に叱咤する。それになぜかカノイが返事をし、叱咤される者に指示した。
「姫様は資料見るの異次元に早いですから、あれを見てる暇なんてないですよ。これ、もう一度確認してください。地方領での精霊の減りのせいで全体的に作物が不足しています。援助するための金額を計算し直さないと。これじゃ少なすぎます」
「イカラジャ、手伝ってあげて。あなたの方が詳しいわ」
「お任せください!」
勢いよく返事をするイカラジャに周囲は呆気に取られている。前におかしな言い掛かりで地方に飛ばされたイカラジャが、当たり前のようにフィルリーネに従っている姿が信じられないのだろう。
何と言ってもフィルリーネの指示の仕方が別人すぎて、そこからついていけていないのだ。一体何が起きているのかと目を回したいだろうが、その暇もない程フィルリーネの指示が早い。
「これは、おかしいだろう。カサダリアに来ている書類と別物だ」
「間違いないのね?」
「間違いない」
「カノイ、カサダリアから書類を取り寄せなさい。ついでに誰の書類か調べて」
「分かりました!」
カノイはすぐに資料をまとめると、カサダリアに手紙を飛ばした。折り畳まれた紙がふわりと浮かぶと一目散に窓の外へ飛び出す。魔導に乗せた手紙の配達方法だ。
今度は廊下をばたばた走る者がやってくる。王騎士団だ。アシュタルがこちらに頭を下げて部屋に入った。
「フィルリーネ様、横領に関与した者たちの投獄終えました!」
「ありがとう。まだ出そうだからそこで待機していて」
「承知いたしました」
政務と言う捕物を行なっているわけだ。王騎士団が警備をしつつ、フィルリーネの指示を得て犯罪者を捕らえている。
「ルヴィアーレ、そんなとこにいても手伝わせられないわよ」
こちらにはとっくに気付いていたと、資料を見ながら目も合わせず言ってくる。
「私が見ても問題なかろう。まだ立場は変わらぬ」
「そう言う問題じゃないわ。ラータニア王とまだ何も話していない今、あなたを使うわけにはいかないでしょう」
婚姻が破棄されればこの国で政務を行えない。それを踏まえ、フィルリーネは大人しくしていろと言うが、こちらは情勢を知りたい。断られる筋合いはなかった。
「もう少ししたら休憩するわ。ちょっと話しましょう。誰か、ルヴィアーレを控えの間に連れてあげて。イムレス様も後から来るから、そっちで待ってて」
フィルリーネはそれだけ言うと書類に目を戻した。ぱらぱらめくる書類に判を押し、次の書類を見始める。その早さが本当に見ているのか疑いたくなるが、あれでよく読んでいるのだから頭が下がる。
案内はすぐ近くにある控えの間だったが、そこにはミュライレンとコニアサスがいた。
軽い挨拶を交わすがミュライレンの顔色が悪い。コニアサスも気付いているか、ちらちらと顔を見上げながら手に持っていたパズルを合わせていた。
「フィルリーネ様にお呼びいただいたのですが、ルヴィアーレ様もいらっしゃるとは思いませんでした」
震えるような声。怯えているのか手の平を強く握ったままだ。
第二妃とは言え唯一の妃だ。グングナルド王が勾留され、フィルリーネの表向きの気性から不安が強いのだろう。コニアサスを王にすると宣言しているが、まだ信じられていないのではないだろうか。
「イムレス様も後からいらっしゃるようです。今後のことをお話しされるそうですが、緊張されることはないでしょう。フィルリーネ姫はコニアサスを気に入っていらっしゃいますから」
「コニアサスをですか?」
ミュライレンがぱっと顔を上げた。聞き慣れない話すぎて、どう返せばいいか分からないようだ。
「将来優秀になるだろうと、良く仰っていらっしゃいます」
自分で言って何だが、全く信用できないだろう。しかしフィルリーネの弟に対する愛情は不気味なくらいだ。表に出さない方がいい程に。とは言えミュライレンの顔色は悪すぎた。ある程度その緊張を和らげていないと、フィルリーネが来たら失神してしまいそうである。
ミュライレンは困惑顔をして俯いた。コニアサスが察すると、こちらとミュライレンを交互に見遣ってミュライレンの手に自分のそれを添えた。その手に儚げに笑むがそれもすぐに消えてしまう。
これは早めに補った方が良いだろう。だからか、イムレスを呼びガルネーゼを加えて話す場を作ったわけだ。
「失礼します。おや、フィルリーネ様はまだいらっしゃらないのですか?」
「イムレス様。フィルリーネ様はまだ…」
「先程政務室におりました。そろそろいらっしゃるでしょう」
「ルヴィアーレ様もいらっしゃるとは思いませんでした。政務室に行かれたので?」
イムレスは朗らかに笑いながら席につくが、ミュライレンの顔色にすぐ気付いただろう。一瞬目を眇めると、小さく息を吐く。
「眠られていませんか?」
「…いえ、そのようなことは」
「ミュライレン様が心配になるような話はされませんよ。体調なども気遣ってこの席を設けられたのでしょう。フィルリーネ様の本性はいつものアレではありませんから、肩の力を抜くといい」
「本性…?」
その言い方はどうかと思うが、全くの別人であることは口添えしたい。ミュライレンは今にも倒れそうな顔をしている。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
そう思っていたらフィルリーネが早速本性で現れた。後ろからぐったりとしたガルネーゼがついてきたが、ミュライレンはフィルリーネを見るなり恐れるようにすぐに立ち上がりコニアサスを促す。
「フィルリーネ様にはご機嫌麗しゅう」
「ごめんなさいね、私から呼んでおいて。…顔色悪いわね。座って。すぐに終わるわ。コニアサス、あなたもちゃんと聞いて、大切なお話しよ」
コニアサスの挨拶を遮ると、フィルリーネはソファーに座るように促す。その言葉遣いにミュライレンは混乱しながらイムレスやガルネーゼを視界に入れた。二人の頷きに納得しかねているが、そろりとソファーに腰掛ける。
「王のこと、あなたに相談できなくて悪かったわ。けれど話すことはできなかった。私たちには王のためにこの国を捨てる気はなかったから」
フィルリーネはミュライレンの正面に座ると、ゆっくりと、しかし力強くミュライレンを見つめて話し始める。
多くの者たちが王によって殺されたこと、ラータニアの浮島を狙っていたこと。そのためフィルリーネは高飛車で馬鹿な娘を演じ、長年偽ってきたこと。
ミュライレン自身が政治に全く興味ないのが問題なわけだが、しかしフィルリーネはそれを咎めることなく、王の罪とフィルリーネの罪を説明した。
フィルリーネは甘すぎる。それを口にしたくなるが、コニアサスを王にするためにミュライレンは必要なのだろう。
「あなたたちに辛く当たったことを謝らせて。偽りを続けていたとは言え、肩身の狭い思いをさせていたでしょう。あの男は周囲に気を配れる心も無い。本来ならば私があなた方を助けなければならなかった。それが行えなかったことを深く詫びます」
「そ、そのような。お顔を上げてください、フィルリーネ様!」
「コニアサスも、姉として良い態度をしてこれなかったわ。コニアサス。これから時間を掛けて会いましょう。お勉強も教えてあげられるわ。これからはあの男の視線を気にせず会えるから」
フィルリーネの言葉にぽかんと口を開いたままだが、コニアサスはミュライレンの顔を見上げながら、フィルリーネの顔を見つめる。ミュライレンは眉を下げて、コニアサスの頭を下げさせた。
「ご好意感謝いたします。コニアサス。お姉さまがお勉強を見てくださるのよ。お礼を言って」
「お勉強…」
「勉強だけでは無いわね。お庭で遊んだりもできるわ」
「フィルリーネさまが、遊んでくださるのですか?」
「そうよ。たくさん遊びましょうね」
フィルリーネの言葉にコニアサスは顔を綻ばせた。我慢できないように口を閉じながら満面の笑みを見せる。
その顔にフィルリーネは緩やかな笑みを見せた。
見たことのない、朗らかで優しい笑みだ。その顔を見てコニアサスが顔を真っ赤にさせた。フィルリーネの笑顔など見たことがないのだろう。その笑みだけでコニアサスはフィルリーネに陥落したのではないだろうか。