聖堂
精霊たちよ、聞き届けて欲しい。
婚約したルヴィアーレに力を貸して欲しい。私はこの国を蝕む王を倒す。そのためにはルヴィアーレの力が必要になるでしょう。私のためにルヴィアーレにあなたたちの力を分けて欲しい。
婚姻の予定はないが婚約により王族の配置換えが行われた。彼に力を貸して欲しい。
どうか私の祈りを、聞き届けてくれないだろうか。
跪き祈りを捧げ、フィルリーネは顔を上げた。マリオンネの女王を模した石板の彫刻に精霊の光が灯っている。光は瞬いているが集まっているのはルヴィアーレに陥落した精霊たちばかりだ。彼らが声を届けてくれるのか、頷いて聖堂から出ていく精霊がいた。
「フィルリーネ様は、ルヴィアーレ様との婚姻をそこまで心待ちにされておりましたか」
この聖堂を管理している司教はゆったりとした雰囲気で目を細めながら言った。司教であっても精霊を見ることはできないのだろう。天井にも集まっている精霊たちの瞬きを見ることなく、こちらに近付く。
「祈るのは当然ですわ。お父様の選んだ方ですもの。間違いはなくてよ」
もうどこから間違ってるのか分からないよね。思いながら立とうとすると司教は厚めの布を当てた手を差し出してきた。婚約の印が光るため布越しで手を引いてくれる。手を引く程度で不義があると認識するのを司教は知っているようだ。
昔からカサダリアにいる司教で年は七十近い。綺麗な白髪のぽっちゃりとした方で、キュッとしまった襟元が苦しそうだ。真っ白な衣装で裾や袖に金の刺繍がされているが、下品に見えない程度でよく似合っていた。
司教は王の婚約時も祈りにも立ち会ったと、懐かしそうに言った。
「フィルリーネ様のお母様はとても繊細な方で、祈ることも恐れ多いと震えながら精霊に祈りを届けておりましたよ」
「まあ、そうですの?」
母親と言っても三割り増し肖像画しか知らない。王から母親の話を聞いたこともない。叔父から人となりを聞いたことはあるが、何せ昔のことすぎてあまり覚えていなかった。
精霊に祈りを捧げるのにぶるぶる震える母親から自分ができるのも不思議だ。この聖堂でぶるぶる震えるなら、寒いか足が痺れたかとかしかなさそうである。
司教は丸い身体でゆっくりと歩きながら、広間から隠れた部屋にフィルリーネを連れる。どうやら世間話がしたいようだ。
カサダリアの聖堂にはまず来ないので、この司教とも何度会ったか程度だった。この司教、フィルリーネの噂を知らないのだろうか。王との繋がりが欲しい者以外、あまり自分とは話したがらないのだが。
部屋には豪華な彫り物がされた長机と椅子が並んでおり、そこが王族の休憩所だと分かる。王都の聖堂にも同じものがあるが、あそこで休憩したことはない。念の為作られている飾りのような部屋だ。ここも同じく殆ど使わないのではないだろうか。
促されて座った椅子はふんわりとしていたがとても冷たかった。部屋の中はやけに涼しい。いつも無人なのだろう。
「フィルリーネ様のお母様は精霊に敬意と畏怖をお持ちでいらっしゃいました。その力を得ている王にも」
精霊に畏怖を持つのはこの国では珍しい。母親は貴族だ。外の景色を見慣れている村人などは精霊の恩恵を感じることはあっても、貴族では殆どないだろう。敬意を示すのはあっても畏怖を持つことは珍しいのである。
「何故、畏怖などと。精霊に敬意を持つのは当然ですわ。けれど、恐るべきではないのではなくて?」
いや、精霊怖いこともあるよ。畏怖を持つとまではいかないけれど、そう感じる王族は多いだろう。ただ、貴族でそれを思うなら相当魔導の強い人だったのだろうか。
「そうですね。敬意を持つのは当然です。しかし畏怖も持っていらっしゃった。王族になることで精霊を遣うと言う行為に恐れを抱いていらっしゃったのだと思います」
貴族から王族に上がることによって、敬意を示す精霊を遣う立場になる。それが怖かったのではと司教は言う。しかし遣うと言う言葉は語弊がある。王族は精霊に願うだけだ。お願いして動いてもらう。遣うような偉さは王族にはない。
だが敬虔な者は恐れるのかもしれない。貴族から王族に上がるのは特別だろうから、そんな気持ちが生まれることはあるだろう。
余程小心者だったのだと言うには酷か。しかし恐れすぎではないだろうか。
「婚姻され、フィルリーネ様を身籠もられた頃には、よく悩んでいらっしゃいました。とても繊細な方だったのです。王妃として国を支え次の王族を身籠もられたことに、とても大きな不安を抱えていらっしゃった」
「まあ、お母様はそんな方でしたの? お身体が弱かったとは聞いておりますけれど」
母親は自分を産んですぐに亡くなっている。つまり精神的に病んでいたのだろう。死因は身体が弱かったと聞いていたが、そうではなかったのかもしれない。
「その時にお生まれになったフィルリーネ様は、ほとんど泣くことがなく、医師たち皆が心配したと言っておられました。しかし、元気な産声を上げずとも、このように立派になられて、私は嬉しく思います。フィルリーネ様。どうぞ、ルヴィアーレ様と末長くお幸せに。お母上様の分も」
司教はそう言って目元に涙を溜めた。母親がここで祈っていたとは初めて聞いたが、司教はその母親の心配事の相談者だったようだ。話を聞くに、祈っていたのは母親だけだったのではないだろうか。そうでなければ王がいながら司教に相談などできない。
そもそも母親は異国の人間ではなく、この国の人間だ。精霊の配置換えはなく、そこまで熱心に祈る必要はない。王族に入るため精霊に祈る必要はあるが、そこで精霊が拒否することはないのだ。マリオンネで婚姻を行えば、自動的に精霊が力を貸す。
それなのにそこまで熱心に祈っていたのならば、余程恐れがあったのかもしれない。
司教の様子から見るに相当まいっていたのだろう。精神面に弱い者が王族、しかもあの王の妃では、心配事が多いに決まっている。
「そうね。お母様の分も幸せにならなければ。明日早朝、ルヴィアーレ様とまた参りますわ」
「ええ、お待ち申し上げます」
司教はそっと涙を拭って立ち上がった。うーん。涙流しているところ本当に申し訳ないけれど、ルヴィアーレと婚姻とか、ないから。しないから。しても離縁だから。その涙、もっと流れちゃうかもしれない。申し訳ない。
心の中で謝るしかない。幸せにはなる気だけれど、婚姻はちょっとなあ。あと将来王族じゃなくなるかもしれません。ごめんね。もう謝るしかないね。
フィルリーネも立ち上がり部屋を出ようとすると、見慣れた男を囲んだ団体が入ってくるのが見えた。
わあ。間が悪すぎるのよ。
入り口からまさかのルヴィアーレがやって来たのだ。お祈りは明日の朝の話だよ。今日じゃないよ。