第二稿 死の美しさ
何故か初っ端から暗い話題ばかりですね。おそらくコロナのせいでしょう。
この文章は昔に書いたもので拙い部分と今の僕でもんー? と首を傾げるところがありますが、美しさとはなにか。死とは何か。そんなテーマについて考えるきっかけに慣れれば幸いです。
この世界は汚い。生きようとする波動には薄汚いものが混ざっており、臓物の赤黒い色と姦計のむせ返るような吐き気は汚いと投げ捨てたくなる。
命は汚い。生きているという行為はどうしても気持ち悪くて汚くなる。
だが死は美しい。流線形の白い骨は生きているときよりもその美を感じさせる。美しさには死の香りがある。活発に動く少女よりも物憂げに空を見る老婆を美しいと感じるように。友と仲睦まじく語り合う青年よりも今この時死に行こうと決意する老人を美しく感じるように。
その意味では赤ん坊もまた美しい。赤ん坊とは老人と同じように死に近しい存在だ。ふとした先は死である。そもそも赤ん坊は死から生まれてくるのだ。人生を季節に例えるならば死は冬であり、老人は秋、赤ん坊は春となる。春と秋が似ているように、赤ん坊と老人は近しいものがある。違うのはただ一つ、目的地だ。赤ん坊は生命力あふれる夏へと向かい、老人は静かな冬へと向かう。
人はどうしたって死の運命から逃れることはできない。なのに人々は常に夏でありたいとせがむ。だが私は思うのだ。いつまでも夏であるというのはなんと寂しいことであろうか、と。
死とは美しさであり、その生涯をかけてつくる芸術品だ。死は決して冒涜されてはならない。だが死を隠すというのはどういうことだろうか。死は見せなければならない。見なければならない。美しいものを見るというのは人間が持ちえた唯一の取柄なのだから。
生きていないものは美しい。生きていないように見えるものは美しい。
美しさを作り上げるためには死をまぶす必要がある。それは決して感動消費などという安易な言葉で表せない。
死とは美しさなのだ。