第一稿 人間は人間はみな被害者だ
生きるのがつらくはありませんか? 死にたいと思ったことは?
僕はあります。この文章は現状でそう思っている人はあまり読まない方がいいかもしれません。
ここで明記しますが私は自殺幇助しているわけではありません。純粋に議論として読んでいただきたい。これを読んでも絶対に死なないぞ、という方だけお読みください。
人間はみな被害者だ。
悪人も英雄も凡人も天才も、誰だって被害者である。
生きることは辛い。みんな、望んで生まれてきたわけではないのだ。だから被害者だ。
この痛く苦しく反吐が出るほど醜悪な世の中で生きることを義務付けられることは、決して美談だけでは済まない。
生きることは尊いと人は叫ぶ。それは自分の苦痛を神聖化したい心の弱さなのだろう。
そうでなければ人は生きられないのだから。
死んではだめだ。生きていればきっといいことがある。人はそう慰める。
だが世界を見渡せば不遇の人生を送った存在が目に入る。ナポレオンは大西洋の孤島で人生に満足できたのだろうか。信長は火中の本能寺で、その生涯に納得できたのだろうか。
もしかしたらそれらの不幸な人々も最後に納得できることがあったのかもしれない。だが、その不幸はとてもじゃないが幸運と釣り合わない。
自殺を図るものに私はそれをやめろという権利はない。もちろん、やめてほしい。近い間柄ならばそれは顕著だ。しかし、それはただの感傷にすぎない。論理と理性の虜囚である私がそれに従って人の行動を制限することはできない。
人間は自分の視点でしか物事を見られない。コウモリにはなれないのだ。だとするならば人間には他人に対してどれくらいの干渉行為が許されているのだろうか。我々は人間だ。個であるとともに群なのだ。干渉が0であってもいけないし100であってもいけない。ニーズを見極め適切に行動できればいいと思う献身者もいるかもしれないが、その時自分の個はどれくらい残っている? その奉仕を終えたとき他人に尽くしたいと思ってはいまいか? もちろん、それは全体主義の群としてみれば結構なことだ。だが、リソースをそちらに振る分、確実に個の確立にとってはマイナスとなる。
主旨が分かりづらくなってしまうことを謝罪するが、つまるところここで私が論じたいのは、自殺を止めるということが群としてみればむろん善行なのだろうが、個としては必ずしも善行ではないかもしれないということだ。群とは権限を付与するものだ。全体に奉仕するものとして、群のはぐれ物をもとに戻す権限だ。だが、権限とはすなわち刃である。切りつければ傷付けるし、自らをも攻撃しかねない。
ならば、この自殺者に私たちがすべきこと、ないしすべきでないことという論議について結論を下すことはできない。何をしても悪である。止めれば個として悪であり、止めなければ群として悪である。だが、同時に善でもある。これは推察だが、この世のすべての行為が善でも悪でもないように見えるのは、実際には善行でも悪行でもあるにもかかわらずそれらがきれいに相殺されているからではなかろうか。なるほど殺人は確かに群としてみれば悪だ。だが誰かにとっては善になるかもしれない。それを丁寧に集計することで善悪のパラメーターは0に帰着する。群としては裁かれよう。だが個として自分を裁くか否かは個人にゆだねられる。結局のところ絶対の悪など存在しない。そして、絶対の善など存在しない。
人間はみな被害者だ。
不幸の申し子であり、誰もが終わりの恐怖と歓喜に震えている。
死は救いなのかもしれない。だが、そうなれば生は絶望である。
そんな上で生きよとは言えまい。だが、生きてほしいと願うのは個人としての最低限の権利なのではないだろうか。