一日目 (7) 不安
楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
それが、習慣ならば尚のこと。
「それではまたな」
あっという間に夜も更けて、時任姉妹は帰りの段につく。
玄関先で片手を上げて別れを告げる薫さん。言葉や話し方はしっかりとしているけれど、その姿は髪はぼさぼさ、服は着崩れ、ずれた眼鏡に赤ら顔と見るも無残な程酔っぱらっていた。
「全く……」
「お、お、お?」
ぱぱぱ、と全体の乱れを直す。髪は結い上げ直して白衣を整えてスーツのボタンを付け直して眼鏡は外して白衣の胸ポケットに突っ込んだ。
本当ならこう言うことは小夜の役目なのだが……今の小夜はそんなことに気が回る状態じゃない。
「白衣とスーツしか着てなくて、寒くないの?」
「少しくらい寒い方がいいのさ。酔いが醒めてまた飲めるからな」
「あのね……まあいいや」
直しついでに姿勢も正す。
それだけで、それなりに見れる女性になるんだから、ズルイと言うべきか。凄いと言うべきか。
薫さんは白衣のポケットから煙草を取り出して、銜えて、そして笑う。
「ふふふっ、まるで浮気ばかりするダメな夫をそれでも甲斐甲斐しく送り出すダメな妻のようだな」
「くだらないこと言ってないでお酒は控え目にしなさい。あとその煙草も」
「人生は儘ならないのさ」
それでは、と少しふらついた足取りで薫さんは我が家を出て行った。最後に真剣な表情でちらりと小夜に目線をやったのは僕へのメッセージだろう。……言われなくても解かってるって。
眼を転じる。
「…………」
そこに、深く俯く小夜が立っている。
表情は髪の毛で影になって見えない。それほど深く俯いている。
「ほら、小夜。もう薫さんは帰っちゃったぞ? お前も帰らないと」
「……嫌、です」
小さな小さな声だったが、明確な否定。
気付かれないように溜息を吐く。
我が儘にウンザリしたわけじゃない。
改善の先行きが見えない小夜の状況に、苦々しい思いで溜息を吐いたのだ。
「解かった。僕も家まで一緒に行くから。それならいいだろ?」
小夜は数秒の沈黙の後、小さくこくりと頷いた。
上着を取って来て、連れ立って家を出る。
震える寒風が吹き荒ぶ。少し前まで、湧き立つような圧倒的な熱量を持っていた街は、僅か三月程ですっかりとその様相を変えて、心を鎮める神秘的な静謐を抱えていた。民家の窓に灯る光に不思議と距離を感じる。空に光る月には不思議と親近感を覚えた。
「……お兄ちゃん」
小夜の声が耳に届いた。
「手、つないでいいですか?」
「ああ。いいよ」
ぎゅっ、と。小さくて冷たい手が僕の手を握り締める。それは強く強く――まるで最期の時に縋るような、そんな必死さが籠められていた。
風が痛い。
コートの襟を引っ張って重ねる。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、いなくなりませんよね?」
「いなくなるわけないだろ」
見上げれば、昏い夜空だった。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、ここにいますよね?」
「手をつないでいるじゃないか」
明るい月、それしか見えない、昏い空。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんは、私が大切ですか?」
「勿論。すごく大切だ」
ささやかな星の光など、月の光量で消し飛んで終っている。
その空に、ゆっくりと流れる光を見つけた。
最初は流れ星かと思ったけれど、その光は一向に消えずに動き続ける。
――あぁ、あれは飛行機の光だ。
宵闇を一機舞う、孤高で孤独な鉄の鳥。
それに抱えられた乗客を思い、それを駆るパイロットを思い、そしてその機体を思い。
何だかとても切なくなってしまった。
僕の家から時任の家までは近い。歩いて五分ほどで着いてしまう。最もその条件が無かったら、小夜は当然のこと、薫さんも時任のお爺さんお婆さんたちも、僕の一人暮らしなんて認めてくれなかっただろう。
ともかくそれだけの距離。
僕と小夜は、つないだ手も暖まらないまま、時任の家に着いてしまった。
居間の電気が点いている。お爺さんとお婆さんがまだ起きているのだろう。薫さんはいつも煙草を吸いながら遠回りして帰って来るからまだいない筈だ。
「小夜。着いたぞ」
小夜は動かない。
「ほら、もう帰らないと」
促して、つないでいた手を、放す。
はっと顔を上げた小夜は僕の腕に縋りついて、揺れる瞳を向けた。
「そ、そうだ! お兄ちゃん、今日は泊まって行きませんか? お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも喜ぶと思いますし、お姉ちゃんだって良いって言います。言わなくったって私が説得してみせますから! そうすればもっともっとお話して、一緒に眠って――」
「小夜」
それだけで、小夜は息を呑んで、言葉を途切れさせる。
抱きしめられた腕は、少し暖かくなっていた。
僕はふっと笑って、
「また明日な」
頭をぐりぐりと撫でた。
「…………」
小夜はしばらくの沈黙の後、
「分かりました」
笑って、僕の腕から離れた。
「また明日ね、お兄ちゃん」
吹けば消えてしまいそうな儚い笑顔で、小夜は時任の家に入って行った。
僕も笑顔で手を振って――扉が閉じた瞬間、空を見上げて、小さく息を吐く。
「お疲れさん」
後ろから背中を叩かれて振り向くと、煙草を銜えた薫さんが立っていた。「ほれ」と差し出されたのは缶珈琲。僕はお礼を言って受け取る。思っていたより冷えていた躯に、缶珈琲の暖かさがじんと沁み渡った。
薫さんと二人、時任家の塀に背中を預けて並び立つ。
背後には時任家の居間があって、暖色系の光と賑やかな声が僕らに届いた。小夜が楽しげに今日の出来事をお爺さんお婆さんに話している。
薫さんがふーっと紫煙をくゆらせた。
「まだ駄目みたいだな」
「そうだね」
缶珈琲をカイロ代わりに両手で握りしめる。ほっと息を吐くと、その息は薫さんの吐き出した紫煙と同じように白い靄となって、昏い夜に溶けていった。
「全く。こんなに長い間不安病になるなんて私の妹とは思えない繊細さだな。根っからの日陰精神は気に入らないが、その根気だけは見習ってもいい」
「まるで当たり前のように『不安病』って言葉を使わないでよ。薫さんの創作なんだから」
「なんだ駄目か? 小夜のような性質を表す言葉に『剣呑症』と言う言葉があるが、私はそれよりも実に正鵠を得たと気に入っているんだが」
「……僕は好きじゃない」
――だって、『病』なんて付けられると、本当に小夜が病気みたいじゃないか。……小夜は病気なんかじゃなくて『特別寂しがり屋』なだけなんだ。
大袈裟にするのは、好きじゃない。
だから、
「小夜は病気だよ」
「―――ッ」
一言で、息が詰まった。
薫さんに眼を向ける。
彼女は僕の視線など何処吹く風、ただ前だけを見つめて、
「『寂しい』『悲しい』『怖い』。それらは確かに誰もが感じる普通の感情だよ。感じる人間に何ら異常は無い。むしろ感じない人間の方が、壊滅的な異状を抱えていると言えるだろうな。でもな忍、ただ『寂しい』って感情。それも、
――往き過ぎて仕舞えば、病となる」
紫煙が吹き散った。
「病なんだよ。あれはもう、病なんだ。認めろ忍」
薫さんの言葉は厳しかったけれど、声はとても慈愛に満ちていて。だから僕は、何も言えずに下を向くことしか出来ない。
何も言えずに。