四日目 (2) かなしみのない
警察に事情を説明して帰ってもらって、僕とミカエルは巡回の続き……の前に、所用を済ませることにした。
平日よりも賑わう商店街へ。
キョロキョロと物珍しげなミカエルを引っ張って全ての店を素通り、端っこの『満点宮』に着いた。
営業中の札がかかっている。なにせこの店はいつだってどんと来い二十四時間営業だ。本格的な中華料理店で、殆ど一人での営業で、二十四時間営業ってどうなっているのやら。働いている僕にもキムさんがいつ眠っているのか解からない。
ミカエルに店の前で待っていてもらって、中に入る。
りりん、とベルが鳴る――
「お疲れ様です忍ですっ!」
と同時に、お客さんがいないことだけ確認してから、店の奥に向かって叫んだ。
どたどたどた、と近付いて来ていた足音がフロアに出る寸前で止まり、とぼとぼ戻って行く。
キッチンを覗く。
「キムさん」
「……やっぱりシノブさんアルネ」
首だけで振り返り僕を確認して、真ん丸い躯で肩を落とすキムさん。相変わらずチャーミングだが、何歳なんだろうこの人。
「キョウはナンのヨウアルね?」
キムさんはのそのそコンロの前に戻り中華鍋を持つ。今日は何かを揚げているようだった。
僕はフロアには入らぬまま、
「……すみません。暫くシフトお休みしても構わないですか?」
「いいアルよ」
即答だった。
「あの、その」
「イっておくけど」
僕の言葉を遮る。
「シノブさんはこのおミセにはヒツヨウなおヒトアルからね。ソウジもリョウリもそのワカさでとってもジョウズ。だから、ナニがアるのかはシらないけど、デキるだけハヤくモドってキてホしいアル」
「キムさん」
「タダし、キュウリョウはアげられないアルよ」
中華鍋の油を見つめながら、キムさんは糸目でころころ笑った。
……ささくれていた心にキムさんの言葉が沁み込んで温かくなる。きっと彼は聡くて鋭くて優しい人なんだろう。ありがたい。感謝の気持ちが溢れる。
「ほら、これモってイくといいアルね」
何かを投げられて受け取る。
それは紙に包まれた揚げたてのカレーパンだった。
「キノウTVでミたからタメしにイクつかツクってみたらアンガイオイシかったアルね。またコンドカンソウキかせるアル」
「ありがとうございます」
様々な思いを籠めて頭を下げた。深々と、せめて誠意が伝わるように。
心の中で感謝の言葉を幾度も唱えてから頭を上げて、そして言った。
「出来ればもう一つ貰えますか?」
「ふむ。まあうちの道場は基本自由参加じゃから忍が決めて構わんが……それは、本当に儂にも言えん事情なのか?」
「……すみません」
道場の板張りの床に正座したまま、頭を下げる。
修禅師匠は僕の前で同じように正座して、難しい顔で腕を組んでいた。
石楠花橋の向こう側、古賀道場。
まだ午前中。昨日の雨は夜の内に上がって今は青空と太陽が出ているけれど、道場内は冬の冷たさ、そして動く者のいない寒さに満ちていた。
修禅師匠は枯れ茶色の着物を着ていた。部屋で囲碁を並べているところを奥さんに呼んでもらったので、道場着であるいつもの袴は着ていない。着物姿の時は少し優しく見える修禅師匠だ。
「絶対に迷惑はおかけしませんから」
「馬鹿者。むしろ迷惑はかけてこい」
修禅師匠はじっと僕を見据えて、そして大きく一度頷いた。
「良かろう。暫く休め。儂は忍を信頼しておる」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「そう言えば、伊織先輩はいませんか?」
道場にも更衣室の方にも伊織先輩の姿はない。家の方にもいないみたいだったのでこっちだと思ったのだが。
「アイツも朝早くから出掛けて行ったぞ」
「そうですか……」
伊織先輩にも伝えておきたかったのだが。
「良いぞ。儂から言っておいてやる」
「すみません、お願いします」
もう一度修禅師匠に頭を下げて、道場を辞去した。
家の方にも顔を出して奥さんに挨拶をし、古賀家の敷地を出たところで、
「もう良いよ」
『はあい』
指輪が一瞬輝いて、収まった時にはミカエルがそこに立っていた。
「おわった?」
「うん。行こう」
再び街の中心に向かって歩き出した。
ミカエルはただ歩いていても跳ねるようでどこか楽しそうだ。
「すごく雰囲気のあるお爺さんだったね。シノブの師匠なんでしょ?」
「そう。強い人だよ」
辺りには山と歴史ある家と工場と田んぼが広がる。
一昨日もここに来た。昼間に歩いて道場へ、そして夜にミカエルと出逢い空を飛んで。
昨日もここに来た。山の中の廃病院へ街を飛び越えて。
そう言えば小鳥遊が壊した工場はどうなっただろうか。あの時は必死で飛び回った上に夜だったので、詳しい場所は解からない。
誰も傷付いたり悲しんだり苦しんだりしていないと良いけれど。
それにウィータが殺した四人の若者たち。朝の内に警察に連絡しておいたが、身元は解かったのだろうか。
家族の元へ帰れていると良いけれど。
口元が震えた。
ミカエルが僕の表情を見つける。
「どうしたの?」
「いや」
また口元が震える。
自嘲の笑みだ。
僕は、投げ捨てるように笑っていた。
「誰にも迷惑をかけないように、って思っていたのに。……気が付いたら見ず知らずの人にまで迷惑をかけているんだ」
笑みはすぐに消える。
なんとなくミカエルの顔が見れなくて視線を落としている内に、僕は昔の事を思い出した。
話してみようと、理由もなく思った。
「僕さ、高校の時から今の家に独り暮らしをしているんだけど。そうしたかったのは、誰かに迷惑をかけずに自立して生きる為だったんだ。その為にアルバイトも始めて」
今はあらゆる面で時任家から資金援助を貰っている。学生の僕にはどうすることも出来ない額だ。けれどいつか、貰った恩とともに返す。その為の第一歩だった。
「けれど、いざ独り暮らしをしてみたら散々でさ」
小夜の不安病は、僕の独り暮らしが引き金だった。
そして、今度は梓の顔が過ぎる。
「今回の代理戦争でも『こまっている人がいたら、たすける』なんて言いながら、結局たすけられてばかりだよ。いつまで経っても僕は……理想に追いつけない」
ミカエルは何も言わなかった。僕は彼女の顔を見ていないので、どう言う表情をしているのかは解からない。
無言で街を歩く。ミカエルは僕に歩調を合わせてくれている。
やがて石楠花橋にさしかかり。
「シノブ」
そこで、やっとミカエルが口を開いた。
ミカエルは青空を見上げていた。
「わたしの話を聞いてもらっていい?」
「うん」
「シノブから見て、わたしってどう言う風に見える?」
「どう、って?」
「性格とか印象とか、なんでもいいんだよ」
「うーん」
今までのミカエルの姿を思い描く。
「明るくて楽しそうで何にでも反応して飛びついて、綺麗で優しくて時々神秘的、かな」
「……もう少し口ごもってよ」
「へ?」
「なんでもないっ」
ごほん、とミカエルは咳払いを一つ。
「それ、半分正解で半分間違い」
「え?」
「たしかに天使になりたての頃のわたしは、今シノブが言ったとおりの性格と雰囲気だったと思う。けどね、天使として色々な使命をこなしていくうちに……わたしは、わたしのままではいられなくなった」
「……どうして?」
「どうしても。変わらざるをえなかったの。だから天界にいた頃のわたしは、ラファエルよりも他の天使よりもずうっと天使らしかったのよ? 天使の中の天使だったんだから」
信じられないでしょ、と問われて、うん、と頷いた。
「なによー」って僕の肩をばちばち叩くミカエルを見てもそう思う。
けれど、どこかで納得もしていた。
時折ミカエルが見せる神秘さは、存在感は、矢張り天使たる所以だったんだなと。
石楠花橋を渡り終える。
川沿いの枯れた葉のつく並木を眺めながら、
「……その変わりゆく最中にわたしは、わたしの理想を捨てた」
「どんな理想だったの?」
ミカエルは寂しげな顔のままで笑った。
「――『かなしみのない世界』よ」
「…………」
言葉を失った。
なんて途方もない理想。なんて甘くて夢のような理想。
遠くて遠くて遠すぎて、輪郭も見えない。
「だから最初に出会って貴方の理想を聞いた時、わたし嬉しかったのよ。ああ、わたしと同じように、けどわたしと違って、夢みたいな理想を信じている人っているんだなって」
どうしてミカエルが急に自分の話をし始めたのか、ようやく解かった。
彼女は僕に――「理想を諦めるな」と言っているんだ。
天使の彼女が捨ててしまうような理想を、人間の僕には持ち続けろ、と。
「酷いこと言うね」
「……ごめん」
ミカエルは俯いて謝る。
でも、
「そのつもりだよ」
言われずとも、理想を捨てるつもりなんてなかった。
『こまっている人がいたら、たすける』。僕はその理想で出来ているようなものだから。
それなのに悩むのはきっと、
「きっと、僕の何かが問われているんだと思うんだ」
「?」
「意志とか行動とかやり方とか。これまで所詮夢でしかなかった理想を現実に整合させる為に、何かが問われている気がするんだ」
今まで僕は理想を抱きながら生きてこれた。勿論小夜のことを含めて失敗したことはあったけれど、手が届かないことはなかった。
だが、この代理戦争で初めてどうにもならないことに出遭った。
誰にも迷惑をかけずに誰かをたすけて生きるために。僕は何かを変えなくちゃいけない。
「だけど……、それがまだ解からない」
今日の朝から考え続けていた。
梓の忠告に自分の納得出来る答えを返したいから。
だから、ぼうっとしているとすぐに自分の思考の海に沈んでしまう。
「こら」
ぽんと背中を叩かれた。
横を見ると、ミカエルの眩しい笑顔が。
「そんな風に考えこんでも解かんないものは解かんないよ。とにかく今はわたしと見回り。でしょ?」
「……うん。そうだね」
屈託のない太陽みたいな笑顔に、僕の中のモヤモヤは溶かされてしまった。
思わずつられて笑顔になってしまう。
ミカエルの凄いところだ。