四日目 (1) みかん
☨
束の間
キミとつないだ
☨
4
「肘から血が出てるよ。ほらこれ使って。もっと強く抑えた方がいい。誰かと連絡はついた? そう。良かった。警察ももうすぐ来ると思うから。落ち着いて。大丈夫。……お母さん来た? ああ、あの人か。……。こんにちは。はい。はい。娘さんは事故に遭われたんです。……え? いや、僕じゃないですよ。はい。ですから車が。僕? 僕はたまたま後ろを歩いていて。いえ、ですから違うんですって。はあ。……あ、ちょっと待って下さい! 警察がもうすぐ来ますから。……いや、だって事故ですし。はあ。はい。はい。すみません」
肘の怪我を僕のハンカチで抑えた高校生の娘を連れて、中年のおばさんは車で走り去って行った。
「ちょっと」
振り返ると、ミカエルが難しい表情で近付いてきた。
「ごめん。お待たせ」
「ねえ。なにがあったのか全然解かんないんだけど、説明してくれる」
「えっと」
午前十時二十分。
ミカエルと二人、街を歩いていた時のことだ。
流石にドレスは目立ちすぎると言うことで、ミカエルは僕のダウンジャケットとジーパン姿だった。派手な金髪を隠すためにニット帽も被っている。それでも綺麗な外国人はかなり注目を集めたが、まだマシだと思う。
梓からは「くれぐれも宝玉から出して連れ歩かないように」と厳命されていた。だが、そもそも着替えた時点で外に出る気満々だってことくらい気付くべきだ。ミカエルの軽い返事で納得してしまった梓は実はあまり人を疑うことを知らないんじゃないだろうか。
……それもそうか。あんな生活をしていれば。
ともかく、二人で街を歩いていた時。
目の前で事故が起きた。
車道の端を自転車で走っていた女子高生が、後ろから追い抜いたワゴンのミラーにぶつけられて転んだのだ。
慌てて具合を確かめる。幸い肘の擦り傷くらいしか目立った傷はなかったが、本人がかなり混乱していたので、家族にだけ何とか連絡を取ってもらい、僕が警察に通報した。
そして彼女の傍で待っていると、
「今お母さんがやって来て、女の子を連れて帰ったんだよ」
「……えっと、ごめん。やっぱりよく解かんないんだけど」
ミカエルは首を傾げる。
「なんであの人おこってたの?」
「それはまあ、娘が怪我したからじゃないかな」
「なんでシノブにおこるの?」
「それはまあ……勘違いしたからじゃない?」
僕が彼女を怪我させたと。
「なにそれ! シノブは彼女をたすけたんじゃない!」
「まあまあ。そうだけどさ」
女の子が置き去りにしていった自転車を起こす。歩道の端まで運んで、前カゴにあったチェーンをガードレールに掛けておいた。
「シノブはどうしておこらないのよ」
問われて、僕は考える。
そう言えば、
「……どうしてかな」
昨日のことが頭を過ぎった。
なにもかもたすけようとして、なにもかもたすけられず、理想と自己満足に溺れて、結局一つも掴めなかった夜。
「慣れてるからじゃないかな」
そう言って、笑った。
ミカエルは、笑ってくれなかった。
時間は少し遡り。
朝のこと。
眼を覚ますと、僕は自分の部屋のベッドで横になっていた。
カーテンが閉められていて薄暗い。今日も世界は寒そうだけど、布団の中だけはぽかぽかと暖かかった。
徐々に覚醒していく意識は、昨日と今を繋げようとする。
ひとまず躯を起こそうとして、布団にかかる妙な圧力に気が付いた。
床に座りベッドに突っ伏すようにして、毛布を羽織ったミカエルが眠っていた。彼女が掛け布団を抑えているので起き辛かったようだ。
起こさないようにそっと布団から抜け出す。
彼女の顔を見る。その顔は何だか、苦しそうで。
そこで、記憶が繋がった。
「あ…………」
そうか、昨日は。
誰も喋らない、雨の家路を思い出す。
ミカエルの顔を見る。
こんな難しい表情は、彼女には似合わないのに。
声をかけようか。少し考えて、結局僕はしなかった。
「……もう少し、眠っていて」
ミカエルをそのままに、そっと部屋を出た。
廊下は冷たかった。窓の外の風景はまだ朝の静けさに包まれていた。
階段を降りて行く。一段一段、降りる度に内臓が重くなっていくような気がした。何故か自然と足音を殺していた。
リビングの扉の前で息を吐いた。
「ふう……。よし」
ノブを回して、リビングへ入る。
「……お待ちしてました」
正座で出迎えてくれた梓を見て、すぐに扉を閉めたくなった。
「…………」
「…………」
沈黙のリビングで、正座で向かい合う僕と梓。彼女には座布団があって、僕は床に直接だった。凄く冷たくて痛いが文句は言えない。
梓の背後、キッチンから様子を窺っているラファエルと楓の姿が見えた。ラファエルはとても心配そうだが、背中に負ぶさっている楓は半分寝ている。
梓は咳払いを一つ。
「……何か言いたいことはありますか」
「ないです」
弁解することはない。
「……そうですか」
「?」
梓は炬燵に手を伸ばした。上に置いてあった蜜柑と、これまた何故か一本だけ置いてあった塗箸を手に取り、眼を眇める。
ぽいっと空中に蜜柑を投げて、
「……――フッ!」
勢いよく箸を突き刺した。
「うわっ!」
箸は手から離れて、蜜柑は刺された勢いのまま床に落ちる。僕の膝の前で、串刺しになった蜜柑がごろごろと転がった。
更に、
「……いと貴き『九条』の名において六大に命じ、太虚に命ずる。『赤』き炎よ踊れ」
その蜜柑が燃え上がった。
「わ、わっ!」
めらめらと燃えながら床を転がる蜜柑に慌てて後ずさる。
暫く燃えた後、梓が箸を持ち上げた瞬間に炎は消えた。蜜柑は焦げているけれど、床には何の痕もない。
「……私の気持ちは伝わりましたか?」
何度も何度も頷く。
梓は、大きな大きな溜め息を吐いた。
「……全く、しっかりして下さい。貴方はもう戦争に参加しているのです。今回は偶然に偶然が重なって生き長らえただけ。覚悟を決めなければ――殺されるだけです」
「うん」
もう一度だけ、今度はしっかりと頷いた。
「心配してくれてありがとう」
「……ふん。誰が心配なんて」
その言葉で空気が弛緩した。ハラハラと見守ってくれていたラファエルがついに眠ってしまった楓を背負ってキッチンから出てくる。
「さ、皆さんで朝食を頂きましょうか」
はっとした。
「あ、あの。ラファエルさん。朝食って……」
「はい! 私、頑張って作らせて頂きました」
キッチンを見るのが怖い。
顔をしかめた梓と眼が合った。
ああ、彼女はきっと昨日ラファエルの料理を食べたんだな、と思った。
ミカエルを起こして、五人で朝食を食べる。
炬燵に梓、楓、ミカエル。ダイニングテーブルに僕とラファエルが着いていた。
食事はラファエルの作った黒焦げのナニカは当然食べられなかったので(そう言った時にラファエルが涙目になって心底困った)、僕が簡単に作り直した。
トーストに目玉焼きとハムを乗せて塩。インスタントのコーンポタージュ。それだけの簡単な食事だ。キッチンの片付けに時間がかかったので仕方ない。
ちなみに、ミカエルは文句たらたらだった。凛としとけ天使。
もう一つちなみに、さっきの焼き蜜柑は楓が「うみゃーうみゃー新感覚」とデザート代わりに喜んで食べた。
食べ終わって、早速梓が切り出した。
「……今日の行動方針を決定します」
僕とラファエルも炬燵に入る。もともと四辺しかない炬燵に五人は狭いが、梓と楓が同じ一辺に一緒に入った。
梓は着物の懐から、丸めた紙を取り出して机に広げた。
「……こちらを見て下さい」
「これって、狭神市?」
それは狭神市の俯瞰地図だった。住宅街も、石楠花川も石楠花橋も、しっかりと描き込まれている。
「……私たちの最終目標は変わらず、サタンの存在、或いは消滅の確認。其の手段、途中過程として、天使の発見、悪魔の発見を段階的目標とします」
梓は街の中心部にほど近いところを指差す。
「……此の辺りが昨日お姉様が天使を探知した場所です。そして」
つい、と指が北に動く。オフィスビルの辺りだ。
「……此の辺りが空に悪魔を探知した場所です。此処ら一帯は高い建物が建っているでしょう? もしかしたら空ではなくて、どれかの建物の上階なのかもしれません」
「へええ」
「……どうしました?」
「あ、いや、来たばかりの筈なのに、もうずいぶん街のことを把握してるんだなあと思って」
「……当たり前です。戦場の下見は基本ですから」
いいから私の顔ではなく地図を見なさい、と怒られる。
「……今日は別行動にしましょう。私とお姉様とラファエルは先ず天使に逢いに行きます。見つけたら協力を申し出ます。其れから昼過ぎになって、昨日の使用から二四時間経ったら、もう一度『100万人コンサート』を使って街の『架空種』を判別します。そこから先は状況に応じて」
「まかせて。歌っちゃうぜ!」
梓は僕を見る。
「……貴方たちは街を巡回してください。何処かにサタンの痕跡、残滓があるかもしれません。もしも見つけたら報告してください。間違っても追いかけないように。必ず、報告を」
「でも、悪魔がいるここは見に行かなくていいの?」
任ぜられた役目が予想と違ったので、僕は地図を指差した。
「……ほお」
あ、あれ?
梓の声色、雰囲気がすっと冷えたような。
「……もう一度言ってみなさい」
「だから、悪魔……」
「……敵である悪魔を見つけるよりも、協力者である天使を見つける事を優先します。私たちの目標は戦いではなくあくまでサタンの発見ですから」
淡々とした口調だけど、どこか冷たい。突き放すような響きがある。
僕は、止めとけばいいのに抗弁してしまった。
「だから梓たちは天使のところに行って、僕たちは悪魔のところへ行った方が、良いのかな、って……」
声はどんどん小さくなった。
梓の眼が、喋るにつれてどんどんと剣呑に吊り上がっていくのが解かったから。
「……昨日の今日で、貴方を悪魔がいるかもしれないところに行かせるとでも?」
「う」
「……まさか貴方の口から其のような世迷言が飛び出してくるとは思いませんでしたので。私、とても驚いています」
「でも! 巡回したってサタンの痕跡とかそんなの僕には解からないと思うし」
「…………ですからっ!」
「――ッ!」
怒鳴り声に震えた。
「……ふう」
梓は深く呼吸をして、淡々とした声に戻る。
「……ですから、貴方に任せるのは其の程度の任務だ、と言っているのです。痕跡? そんなもの見つかりっこありませんよ。だって残る筈ないのですから。零体の通った痕なんて。……ですが、貴方に任せるのは、其の任務です」
「…………」
ああ、なるほど。僕って奴は、なんて察しの悪い。
「ごめん。全部言わせちゃって」
「……ふん」
梓は地図を丸めて片付け始めた。
楓は炬燵に顎を預けて眼を閉じていた。
ラファエルは眉根を下げた表情。
ミカエルはじっと僕を見ていた。
僕は、どんな表情だったのかな。