一日目 (5) 小夜
「ふわ、いい天気だ」
賑やかに昼食を食べ終わると、悠は再び睡眠、奈月は生徒会の仕事に行ってしまい、特にクラスの雑務もなかったので、僕は専門棟の方の屋上に来ていた。
ごろりと大の字になれば、視界一杯に広がる青空。
遮るものなく吹き抜けていく風。
この場所は、学校の中でも僕のお気に入りの場所の一つだった。
ただその場に寝転がって、ぼんやりとした時間を過ごすだけ。それだけで、ここは特別な場所になれた。
もっとも夏場は多くの生徒が食事や休憩に利用するので、こんな風に静かな時間を過ごせるのは今の季節だけなのだが。寒さは厚着と我慢だ。
授業棟の方にも最上階には尖塔があって、その先端には大きな窓が四方に開いている三畳ほどの展望台がある。そちらも僕がよく時間を潰す場所の一つだった。
空には、一羽の鳩が飛んでいた。
仲間からはぐれたのだろうか。それとも孤高の鳩なのだろうか。
ともかく、その鳩は空をひらひらと飛んでいた。
「――――――」
……昔、空を飛びたいと思ったことがある。
『こまっている人がいたら、たすける』願いがあって、誰かをたすけよう、誰かのためになろうと思って生きてきた。けれど常識知らずの僕は、その度に空回って誰かに迷惑をかけて。
そこで憧れたのが鳥だ。
編隊を組んで、隣の者とたすけ合いながら大空を飛ぶ。
それでいて自立していて、単独でも確かにそこに在る。
意識でも義務でもなく仕組みのように自然と周りをたすけて、当たり前だけどそれを誇らず孤立する。
そんな生き方に憧れた。
今では単なる「隣の芝生は青い」的な幻想だと解かってはいるけれど、それでも、まだ――大空には憧れる。
僕にとって飛行することは、
誰よりも孤高であろうとする意思だから。
「お兄ちゃん」
頭上の方からそう呼びかけられて、僕は首を上げて逆さまの視界でそちらを見た。
「探しました。こんなところにいたんですね」
そこには困ったような笑顔を浮かべてこちらを見る小夜の姿。上下反転しているけれど。
「ああ、ごめん」
僕は起き上がりながら答える。
そして改めて、彼女を見た。
肩の上でくるんと内側に丸まった漆黒の髪に大きくて円らな眼、一切着崩すことなくしっかりと制服を着た小柄なその躯は、冬に咲く一輪の花のようだった。華奢な細腕は、触れたら手折ってしまいそう。
彼女は時任小夜。僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶが別に本当の兄妹と言うわけではない。彼女は僕が幼い頃からお世話になっている時任家の娘さん――つまり薫さんの妹で、薫さんが姉同様であると同じように小夜とは妹同様の付き合いなのだ。
「どうしたの小夜?」
「あ、うん。あの今日の夜、良ければお兄ちゃんのお家に行きたいんですけれど、予定はないでしょうか……?」
小夜はまるですごく申し訳ないことを言うかのように、小さな声で言う。
僕は少々呆れた心持で答えた。
「今日は何の予定もないから構わないよ。……あのね、小夜。そんなに僕に気を遣う必要はないんだよ? 僕の家に来たいなら好きな時に来て、好きなだけいればいいんだ。僕たちは兄妹みたいなものなんだから。……まあ、元々時任の家の居候だった僕が言うのもおこがましいんだけどね」
「そんなっ!」
僕の言葉に、小夜は珍しく大声を出した。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんです! 私のお兄ちゃんなんです。居候だなんて……言わないでください」
大きな声を出したことが恥ずかしいのか、小夜は深く俯いて身を縮めた。さらりと髪が風に靡いて、可愛らしい旋毛がこちらを向く。
小夜は大人しいけれど、言わなければならないことはちゃんと言えるいい子だ。
僕は近付いて、その小さな頭を優しく撫でた。
「わっ、わわっ、お兄ちゃん」
「ありがとう、小夜」
「…………」
さらさらの手触りは絹を思わせるほど。
心地よくて笑みが零れる。
制服のスカートをギュッと掴んで撫でられるに任せていた小夜は、しばらくして頭を上げて、赤く染めた頬に笑顔を浮かべた。
こっちの心まで和やかにする、優しくて綺麗な笑顔。
なんて得難い。
その笑顔は、とても得難い。
……小夜と薫さんには両親がいない。
事故で亡くなってしまったのだそうだ。
その時、薫さんは高校三年生、小夜は小学校に上がりたてだった。まだ幼い、子供だったのだ。そのショックは計り知れないものがあっただろう。
けれど、彼女たちは支え合って、こんなにも強く、美しく成長した。
その苦労を、僕は間近で見た。
早く大人を目指した薫さん。寂しさに苛まれた小夜。二人を支えてきたお祖父さんお祖母さん。
数多の困難と数多の苦痛を、時任家の人たちは総動員で乗り越えてきたのだ。
だから、この笑顔はとても得難い。
居候のようなものだった僕は、役立たずどころか足を引っ張ってしまうこともあったけれど、微力ながら貢献出来たと思っているし、それを誇りに思う。
「あ、あの」
僕は――こまっている人をたすけるのだ。
「お、お兄ちゃん」
「ん?」
「あの、いつまで撫でるんですか」
「おっと、ごめんごめん」
手を離す。小夜は「べ、別に嫌だったわけじゃないんですよ?」と小さな声で弁解しながら、
「それじゃ、また今日の夜にです」
と言って小走りで屋上を出て行った。
僕は再び地面に横になって腕時計で時間を確認。後十分ほどの余裕がある。
一応携帯でアラームを仕掛けて、ゆっくりと瞼を閉じた。
ふふ。
何に笑ったのかは、自分でも定かじゃないけど。
悪い気持ちじゃないよ、絶対に。