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DECEMBER  作者: 竜月
三日目 Bohemian Rhapsody
59/63

三日目 (21) 特異魔法


 鉄扉をぶつかるようにして開ける。

 廊下に飛び出すと、道は左右に広がっていた。


「どっちだ?」


 両方に視線を飛ばすと――、扉の傍に、誰かがうずくまっていた。


「え?」


 それは藍色の着物を着たおかっぱの少女だった。

 膝を抱えて、背中を壁に預けている。ぼんやりとした視線を正面の壁に向けて、身動ぎもせずにしゃがんでいた。

 一瞬身構えたけれど、これもまた梓の過去の記憶だ。僕たちの姿も声も届いてはいないだろう。

 少女の顔をまじまじと見つめて、ふと気が付いた。


「この子……、楓じゃないか?」

「確かに面影があります」


 笑顔と奔放さに満ち溢れた今の楓とは全く違うけれど、造作は通じるところがあった。

 子どもの楓はおもむろに立ち上がると、ゆらゆらと廊下を歩き出した。

 その小さい後ろ姿を見て、


「こっちに行こう」


 僕は何故かその後を追うことにした。


 

 壁のランプを目印に廊下を抜けて、三分。

 途中の扉などを全て無視して、僕たちは最初に地下へ降りた時の広間へと戻って来ていた。

 何故か楓の姿は途中で見失ってしまった。けれど、自然と辿り着いたのが始めの場所だった。

 真ん中の円卓の傍で立ち止まる。


「『殺人鬼』はどこだ?」


 とりあえず知っている場所に出た今、先ずそれを考えなければならない。


「でも、忍さん」


 ラファエルが心配そうに言う。


「この世界式は梓さんの過去そのものなのでしょう? そんな膨大な世界、探そうにも不可能なんじゃ……?」

「いや、大丈夫」


 僕は断言した。


「探すのは九条家の敷地内だけで十分な筈です」

『どうして?』

「ミカエル。僕たちが見てきた光景を覚えてる?」


 灰色の街。灰色の世界。

 あの時は解からなかったけれど、


「眼下の街全て、それに公園より下への道、更には公園から九条家へ続く一本道以外、全てが灰色だったでしょ? あれはたぶん梓に記憶が存在しない部分だったんだ。存在しない記憶を元に世界は創れない。だから街は灰色だった。

 ……つまり、僕たちは色付いた世界だけを捜索すれば良い。敷地外は公園まで一本道で隠れる場所がないから、きっと『殺人鬼』はこの建物のどこかに潜んでいる」

『なるほどね! それならなんとかなりそう』


 喜ぶミカエルとは対照的に、語った僕は哀しみを抑えるので必死だった。

 今の言葉は、そのまま梓の人生を物語っている。



 九条の敷地から殆ど出ることもなく

 一番の遠出でも公園まで

 常に暗い地下に潜り続け

 街に誰一人記憶に残った人間はいない



 それが彼女の人生だ。

 ……そして、あのおぞましい地獄の責苦も。

 この世界が彼女の記憶である以上、彼女は過去実際にあんな行為を受けたと言うことになる。

 あんな狂気の行為を。


「…………ッ」


 言葉にならない熱が胸の中で渦巻く。

 絶対に、彼女を助けなくてはならない。


「だから選択肢は二つ。下に潜るか、上に昇るか」


 階段と、洞窟を交互に見やる。

 悩んでいる暇はない。


「二手に分かれましょう。僕とミカエルで上、ラファエルさんは下をお願いします」


 様々な可能性を考慮した分担だった。

 先ず、実際に『殺人鬼』を見つけた場合を想定すると、ラファエルが出会っても彼女は何もすることが出来ない。彼女たち天使が単独で力を行使出来ないのは初めに聞いたことだ。ならば、結局僕が辿り着かなければならない。

 そして、上と下なら恐らくだが上のが捜索範囲は狭いだろう。それほど大きな邸宅ではなかったし、暗く入り組んだ洞窟に比べたらずっと早く捜索を進めることが出来る。

 だから先ず僕たちで上を調べて、そこで出会ったならそのまま戦闘。もしいなかったならすぐに下に降りて、ラファエルと合流を目指しながら捜索する。ラファエルは見つけたら大声で僕たちを呼ぶ。それが最も効率的だと考えた。

 ラファエルは頷く。


「解かりました」


 頷き合う。

 彼女は階段から見て左側の通路へ走って行った。僕は上の捜索が終わったら逆側から捜索すれば良い。

 見送っている暇はなかった。


「行こう!」

『うん!』


 暗い階段を駆け上った。

 何段飛ばしているか良く解からない。指輪の光だけでとにかく必死で駆け抜けて、階段の先、暗い壁に体当たりして外に飛び出した。錠がかかっているらしいから思いっ切りぶつかったのだが、存外簡単に開いた。中からは開けられる仕様なのかもしれない。

 近くにあった花瓶を置いてある卓を引っ張って来て、ドアが閉まらないように挟んだ。

 再び、玄関ホール。


『どこからいくの?』

「僕なりの勘なんだけど……」


 目線を階段に向けた。


「一番上から探して行こうと思うんだ」

『ああ、そう言えばあの女』

「うん。前例があるし」


 病院でも院長室を選んでいた。何となく、そう言う所が好きなのかもしれない。

 階段を数段昇ったところで、上を仰ぎ見た。踊り場で折り返した階段は二階の廊下に繋がっていた。その先の昇り階段はない。外見から判断しても二階建てと言うことはないだろう。と言うことは、また別のところに階段があるのだろうか。


「……よし」


 ここから先は、暗い洞窟ほどではないとは言え、矢張り警戒して進まなければならない。慎重に進むのが得策だ。

 だけど、


「そんなこと言っている場合じゃないな!」


 聖剣を片手に、全力で走り出した。



 昇り階段を探して廊下を駆ける最中、眼に付いた扉はとりあえず全て開放していった。『殺人鬼』がいたらそれで良いし、そうでなくても後の捜索で危険も面倒も少なくなる。全部乱暴に蹴飛ばして開けていったのは、緊急時且つ仮想空間なので許して欲しい。

 それにしても、


「ハア、ハア! くそっ、ややこしいなこの家!?」


 僕は三階にいた。

 ここが一番上か確かめるために窓から身を乗り出して上を見ると、まだ上にもう一階分あるようだった。

 その最後の昇り階段を探しているのだが、一向に見つからなかった。

 理由は、やたらとややこしい家の造りにある。

 普通の家なら、ひたすらに廊下を歩いて、出会った扉を片っ端から開けて行けば必ず全てを捜索出来る。しかしこの九条家は、例えばある部屋に入り、その奥の扉を開けると新しい廊下に出会ったり、一度バルコニーに出ないと辿り着けない部屋があったりと、とてもややこしい。侵入者対策なのかもしれない。


『シノブ! そっち行き止まり!』

「ええっ? ハア、ハア、なんだってんだ……」


 何度目か解からない行き止まりに、膝に手を吐いて息を整える。見据える廊下の先は、真ん中に細長い陽取り窓のある壁になっていた。そちらを見る視線も自然と忌々しげになる。

 だが、落胆も休憩もしている暇はない。

 とりあえず壁際にぽつんとあった扉を開けて、また廊下をひた走る――つもりだったのだが。


「あ……」

『これ!』


 開けた扉の先が、階段になっていた。細くて狭い昇り階段が姿を現す。

 探し求めた、階段だ。


「こんなところに」

『やった! やったねシノブ』

「……ハア、ハア……ふう」


 ミカエルはとても喜んでいるが、僕は努めて冷静にゆっくりと息を整えた。

 心を澄まして、覚悟を決める。

 曖昧な、予感のようなものがある。

 ――この先に、『殺人鬼』がいると。

 これほど手の込んだ隠し階段なのだから、隠れ場所には最適である、と言う論理的な理由。

 しかし、それよりも強い、感覚的な理由。

 ――僕は、この先で『殺人鬼』に出遭うべきだ、と。

 階段を一段ずつ昇って行く。

 一歩、一歩。整う呼吸と精神。

 梓を助ける責任は、僕にある。

 『殺人鬼』を止める責任も、僕にある。

 ――記憶を失って目覚めたあの日から、僕はずっと受け取る人生を過ごしてきた。誰かから、気遣いや助けを受け取ってきた日々。奈月から、綺麗な理想を受け取ってきた過日。理想から、自らの存在価値と生き方を受け取ってきた僕。

 初めてなのかもしれない。

 真に「こまっている人を、たすける」のは。

 だから、僕は出遭うべきだ。

 戦い、傷付き、苦しむべきなんだ。

 掲げた理想の為に。

 昇り切った先に、扉があった。

 ドアノブに手をかけて、押し開ける。

 これで誰もいなかったら拍子抜けだけど――、


「……やっぱりいるよね」


 山のような本が貯蔵された部屋だった。造りは先の院長室と似ているが、大きく違うのは家具が全て揃っていることと、ロフトがあること。ロフトの上にも大量の本棚が詰まっていた。

 部屋の真ん中の奥、巨大なデスクの向こうの黒い革張りのチェアーに、『殺人鬼』は座っていた。


「いらっしゃい。待ってたわあ、って言うのは嘘だけどねえ」


 ところどころ破れ焦げたドレスのまま、女は優雅に背もたれにうつかって、ロックグラスを揺すった。グラスには琥珀色の液体が入っている。氷のからんからんと鳴る音がやけに清浄に聞こえた。


「見てこれえ。アドリアン・カミュって言うカルヴァドス。ここの主は中々にリッチなのねえ。高いお酒ばっかりよ」


 まるで楽園、と楽しげに嗤う。

 黙って扉を閉める。ゆっくりとした歩調で、殺鎌大体二本分くらいの間合いまで近付く。


「すみませんが」

「うん?」

「貴女の、名前は?」


 女は不思議そうな表情を浮かべる。

 僕は言った。


「呼びかける時に、名前を知っていた方が便利なんです」

「ふうん……まあ、いいけどねえ。ウィータよ」

「ウィータさん」


 もう一歩近くへ踏み出す。


「ウィータさん」

「なあに」

「この世界、止めてくれませんか」

「やあよ」


 女はニヤリと口元を歪めた。


「そんなこと言いだすってことはあ、これがどう言う特異魔法か解かったわけねえ」


 沈黙。

 女は愉快げに語る。


「ま、話してあげても良いわあ。どうせ貴方も私もここから出られないんだしい。

 ……私の特異魔法――【幻想と幻影の零落ステンドステンドグラシリア】。囚われの人間の思い出したくない記憶、過去、心に閉まってある部分を引き摺り出して引っ掻き回す権能よ。我ながら、いやらしい特異魔法になったもんだと思うわあ」


 話を聞きながら、ウィータの手にそっと視線を落とした。

 グラスを持っている手は左手、誓約の宝玉の付いたピンキーリングは右手に嵌まっている筈だ。右手はだらりと力なく下げていてデスクに隠れて見えなかった。


「宝玉が見たいのかしら?」

「―――」


 表情には出さなかったけれど、一瞬息が止まった。

 ウィータは嗤う。


「フフ。貴方、解かり易すぎるわねえ。生きるのに苦労するわよお?」

「……忠告ありがとう。でも苦労して生きるのも楽しいから」


 それをウィータは特に否定もせず、グラスの琥珀色の液体を一気に呷った。

 空になったグラスを置く。


「もう少しお話に付き合ってもらえる?」

「いえ、すみませんが無理です」


 聖剣を構える。

 ウィータは溜め息を吐いて肩をすぼめた。


「ざあんねん」

「……この世界を止めてください」


 ウィータは歪んだ笑みを浮かべたまま立ち上がった。殺鎌は持っていない。


「い・や・よ。止めて欲しかったら貴方がどうにかなさいなあ。さあ、どうするのかしらあ?」


 僕の中で葛藤が渦巻いて唇を噛む。彼女の手に視線を送るが、右手だけは躯の後ろに隠していて見えなかった。


『シノブ……』


 ミカエルの声には心配と不安の色だけがあった。本当ならもう一つ、意味合いが混じっていて然るべきなのに。

 僕に行動を促す、そんな示唆の色合いが。

 彼女は優しいから、きっと僕を気遣っている。

 ――解かっているんだ。

 ここで、殺す。

 それが今僕が取るべき行動だ。

 倒す、だとか、止める、だとか、言葉で薄めるべきじゃない。殺す。殺す。殺す。突きつめればそう言うことで、どこまで行ってもそう言うことだった。

 ゆっくりと歩を進めたウィータは、聖剣の届く距離で立ち止まり両手を広げた。


「さあ」


 ウィータの意図は解からないけれど、絶好の位置だった。

 視界の裏で、燃え上がる炎の赤がフラッシュバックする。

 耳朶の内で、世界を劈く梓の悲鳴が反響して再生される。

 絶対に。

 たすける。

 絶対に、たすけるんだ。

 息を止める。両腕に力を籠める。

 聖剣を上段に掲げ、構える。

 ウィータは動かなかった。

 僕は動いた。

 梓をたすける。

 たすける!


「……――ッ!」



 聖剣を、振り下ろした。



 ――――――

 ――――

 ――


「……ッ、ハアッ、ハアッ、ハア――ッ!」

『シノブ……』


 心臓が早鐘を鳴らしていた。

 吐息と血流が耳の裏でうるさく騒ぐ中でも、ミカエルの声は良く響いた。

 僕は剣を振り下ろして、止まっていた。剣先はカーペットを斬り裂いて、その下の木の床まで砕いている。

 そして、


「……怖いわねえ」


 ウィータは、その砕けた床の横に立っていた。


「これだけお膳立てしてもまだ殺さないなんて。……貴方が倒れた私を助けようとした時。私『ああ、この子は無垢で騙され易い、至純な原石みたいな子ね』って思ったのよ。マトモ過ぎて、きっと長くは生きられないってね。けれど、間違ってたわあ。――貴方は、誰よりも狂ってる」


 『殺人鬼』の私なんかよりもずっとねえ、とウィータは呟いた。


「…………ッ」


 僕は床に崩れ落ちた。

 ウィータの前で跪き、呆然と自分の手を見つめる。

 何故だ。

 何故外した。

 僕は、確かに殺すつもりで、振り下ろした筈なのに。


『シノブ、ダメ立って! 逃げるのよ!』


 ミカエルが叫んでいるのが聞こえるけれど、躯が動いてくれない。頭もまるで働いていない。全てを出し尽くしたかのような脱力感だけがある。


「慌てなくても大丈夫よお、ミカエル」


 ウィータが言った。


「私、殺鎌を出すことが出来ないの。それもこの特異魔法の発動条件だから。まあ、それでも人間一人縊り殺すくらい簡単だけど……必要ないでしょお」


 僕から離れて行く。

 ウィータは再びチェアーに腰掛けて、酒瓶からグラスに琥珀色の液体を注いだ。それを持って、薄い光の射し込む窓に捧ぐように掲げる。


「後は私は待つだけよお。囚われの彼女の心が終わってしまって、この世界が太陽よりも目映く綺麗に輝くのをねえ」


 その言葉が僕の胸を打つ。

 僕は梓を見殺しにするのか。

 そうだ。ここでウィータを殺さなくては、僕は梓を殺すんだ。

 どちらを選ぶのかなんて問いは、既に答えが出ているから必要ない。

 問題は、それを頭では承知している癖に……僕の躯は、どうして殺してくれないのかだ。


「…………」


 床に数滴、血が垂れた。唇を噛み切ったらしい。けれど痛みは感じない。感じるのは滾るような熱だけだ。


「……――す」


 正体の解からぬ暗い感情が、腹の奥で淀み溜まっている。この感情はウィータにではなく、全て僕自身に向かっている。

 自己嫌悪。自己嫌悪。自己嫌悪。


「……――す」


 たすけるべきが僕なんだから。

 死ぬべきだって僕なのに。


「……――殺す」


 増大していく正体不明な淀み。

 やがて、その昏闇は、重い蓋を押し開けて溢れる――。

 気付けば、初めてその言葉を呟いていた。


「殺す」


 溢れた感情に押されて立ち上がった瞬間に、僕の頭に飛び込んできたのは、初めて識る情報の渦だった。


「――え? あ、あ、あ、うああっ!」

『シ、シノブ!?』

「なあによ?」


 ミカエルの心配そうな声も、ウィータの髪の毛越しの怪訝な視線も届かない。

 声にならない声が零れて、何かが、脳内に流れ込んでくる。

 奔流。

 情報の奔流だ。

 脳に物理的に衝突するような感覚すら覚える。

 眼を見開き、唇を震わせて、それらを必死で受け止めた。

 ……最後に視たのは、夕焼けに遊ぶ、三人の子どもたちの風景だった。


「―――ッ、はあっ」


 体感時間は一時間にも二時間にも感じたが、恐らく刹那の間の出来事だったのだろう。

 僕の知識の中に、まるでずっと昔から存在していたかのような自然さで、極めて不自然なものが居座っていた。

 これは。

 この知識は。


「…………」


 意識と焦点を現実に戻す。

 ミカエルもウィータも、突然意味不明の声を漏らしながら呆然と虚空を見つめた僕を、じっと見ていた。まあ実際はミカエルの視線も髪に隠れたウィータの視線も見えはしないんだけれど、そう感じる。

 ウィータが苦笑混じりに尋ねてきた。


「大丈夫う?」

「……ええ。大丈夫です」


 僕は大きく深呼吸をした。


「ただちょっと、初めての体験だったもので」

「…………?」


 怪訝の視線が向けられる。

 僕はそれに応えることなく、


「なるほど、こう言う感覚だったのか。これなら確かに、最初から知っているものだと勘違いされてもおかしくない」

『シノブ、ホントに大丈夫?』

「ああ。それよりも」


 言った。


「この世界を、止めよう」

『え……?』

「ふーん」


 ウィータが楽しそうに嗤って椅子から立ち上がる。


「ナニナニ、私を殺す決意を固めたのかしらあ? でも、私それ勘違いだと思うわよお? あそこまでやって殺せなかった至純少年がこの期に及んで殺せるようになるとは思わないものお。ねえ?」

「さて、どうでしょうか」


 ウィータの顔から笑みが消えた。


「……落ち着き払っちゃって。つまんない。狂った君はあんなに魅力的だったのに、ホントに殺す決意をしてマトモになっちゃったんだったら興醒めだわあ」


 僕は黙って聖剣を上段に構える。

 ウィータは座ったまま動かない。

 ――さっき。正体不明の暗い感情が溢れ返った時のこと。

 同時にある情報が、まるで最初からそこにいたかのように突如記憶に色付いて現れた。知らなかったと言うより、思い出せなかったかのように。

 その情報の名は、魔法。

 僕に与えられていた魔法。

 つまり、失われていた僕の特異魔法。



「【万死】!」



 聖剣を、振り下ろした。

 先程とは違い、太刀筋は真っ直ぐ僕の正面を通った。床も砕いていない。体勢も崩していない。言うなればお手本通りの剣道の面打ちだった。

 けれど、ウィータには届いていなかった。当然だ。だって彼女は間合いにすら入っていないんだから。

 デスクの向こうから、ウィータが口を開く。


「……どう言うつもり」


 その口調が莫迦にしたものではなく、至って真剣だったことに僕は素直に感心した。

 だって、傍目には意味不明で莫迦な行動にしか見えない筈だから。遠くで素振りをしただけ。誰の眼にもそう映る筈だ。

 それが、内にどんなモノを秘めていようとも。

 けれど、ウィータはそこから何かを感じ取った。

 流石は『殺人鬼』。

 だが、


「もう止められない」


 僕とウィータの間の空間に、一筋の裂け目が入った。


「え、な、なんなのお?」


 驚愕するウィータの前で、一本の筋だった裂け目は周囲の世界を布のように撓ませて、より大きな裂け目となっていく。

 僕の方からもウィータの方からも確認出来る裂け目。三次元上のどこに位置するのかも解からない裂け目。

 その向こうに見えたのは、廃病院の屋上の風景だった。


「そんなっ!?」


 ウィータが身を乗り出して叫ぶ。その拍子にデスクの上の酒瓶がごとんと倒れて、口から中身をとくとくと零した。流れ溜まった液体がデスクを流れていく。デスクは徐々に傾いていた。


「……ありえない」


 ウィータは叫んだ。


「貴方、世界を斬ったの!?」

「……これが、僕の特異魔法らしいよ」


 もう一度、今度は横薙ぎに聖剣を振るった。

 剣先が何の抵抗もなく虚空を滑る。

 すると、先程の縦の筋に重なって新たに横の裂け目が出来て、十字に裂けた世界は、まるで張力を失った布ように撓み始めた。

 もう止まらない。世界は自重で裂けていく。


『きゃあ!』


 ミカエルが叫んだ。

 バラバラと棚から本が落ちて、あらゆるものが倒れた。デスクの上を横になった瓶が転がって落ちた。窓の外から射す淡い光が、激しく震えた。

 天井にも床にも皺が寄る。

 僕もウィータも、立っているのがやっとだ。

 弛み揺らぐ世界で、僕は叫んだ。


「絶対に、梓は僕がたすける!」


 最後に見た。

 ウィータは嗤っていた。

 世界が、ぐにゃりと潰れた。



      ■□■


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