三日目 (19) まぼろしの世界
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眼を開いた時、僕は知らない場所にいた。
外だ。どこかの公園。そのベンチに座っている。
公園は高台にあるようで、ベンチの前には柵があり、そこから眼下に世界が広がっていた。
いや、広がっている筈だった。
眼下の世界には町並みがなかった。一面全て灰色で、ムラも凹凸も何もなく、奥行きも掴めない。
ただ、空だけが蒼い。
蒼と灰が、世界を作っている。
立ち上がり、柵に近寄った。
「……なに、ここ」
『解からない』
ミカエルの声が聞こえた。
指輪に眼を落とす。
『解からないけれど……、たぶんあの『殺人鬼』のせいよね』
最後に見た光景を思い出す。
ピンクと赤色の発光。
「あれは一体なんだったんだろう」
僕の独り言に、
「……特異魔法です」
背後から声がかかって振り返った。
「……恐らく限定型の特異魔法。呪文の詠唱と魔法陣の布設などが条件のものでしょう。私たちはまんまと達成を許し、何がしかの権能で此処へと送られた訳です」
相変わらずの桃色の着物と涼しい顔で、梓はしゃなりしゃなりと歩いてきた。
「梓――」
「……ッ!」
歩み寄ろうとした僕へ、梓は超弓の弭を突き付けた。睨まれて躯を竦ませる。
「……こうなったのは貴方の責です。即座に『殺人鬼』の死を以って決着をつけていればこんな事にはならなかった」
「…………」
「……今更取り返しのつく問題ではありませんから、貴方に答えは期待していません。只、自省しなさい。どこまでも微温湯の生き方を」
それだけ言って、梓は僕から眼を切った。もうかける言葉などないとでも言うように。
『シノブ……』
ミカエルが心配そうに言う。
僕は僕の思考に潜る。
どうすれば良かったのか。
どうすれば良かったんだろうか。
梓の言う通り、殺すべきだったのか。
それは、違うと思う。感情でそう思う。
けれど、生かしておけば彼女は誰かを殺すだろう。
「こまっている人を、たすける」のなら、彼女を殺すべきだったんじゃないだろうか?
ここが、僕が眼を背けてきた理想の境目だ。
矛盾を超えた、確固たる信念を見つけなくてはならない。
顔を上げた。
「梓!」
辺りを検分している梓に近付いた。
梓は振り向かない。
僕は真摯に、今の気持ちを、彼女の背に語りかける。
「……ごめん。まだ答えは出せない。けど、ちゃんとはっきりさせるから。中途半端はしないから。とにかく、ごめん」
「…………」
梓は少しだけこちらに視線を向けて、また背を向けた。
「……進みます。付いてきなさい」
そう言って公園の出口へ歩き出す。
僕は後に続いた。
公園を出て、街の中を歩く。
不思議な世界だった。
公園を出た時、道は何故か上に昇って行く道しかなかった。下りの道は公園を境に灰色の世界になり途絶えている。しゃがんで灰色に触れてみたが、そこにあるのかないのかも判然としないような、不確かな感触しか返って来なかった。とてもじゃないが進めない。
上り坂を進んでいても、不思議な光景を幾つも見た。
道の両側に家が建っている住宅街なのだが、色が付いている家と、ついていない灰色の家と、斑になっている家があった。更に二階部分だけなくなっている家もあったし、門扉だけを残してその奥には何もない場所もあった。
まるで、街中を巨大な灰色の怪物が這い回り、牙で乱暴に齧り取って、躯で汚していったかのようだ。
試しに何軒か形を残していた家を訪ねてみたが、扉を開けると中は全て灰色だった。
空を見上げた。見慣れた色を見て心を落ち着けたい、そんな気持ちだったのだが、公園では蒼かった筈の空が、何故か今は周囲と同じ灰色に変わっていた。異様さが更に不安を煽る。
先を行く梓に尋ねる。
「ここは一体何?」
「……そうですね」
梓は一定の歩調のまま、辺りに視線を走らせている。
「……恐らく、世界式です」
梓は僕に伝わらないのは織り込み済みだったようで、尋ねるまでもなく意味を語り始めた。
「……世界式とは、その名の通り“世界”を創る方程“式”。術者の抱えた幻想を現実の世界として固定する方式のことです。近年の魔術界で最も注目されている研究分野の一つで、実際我が『九条』でも研究されています」
此処は非常に興味深い、と梓はそうとは聞こえないくらい冷静に呟いた。
「……此の世界式は恐らく『殺人鬼』が創り出したものでしょう。尤も魔術で創った世界ではなく特異魔法に因るものなのでしょうけれど。……世界式について、現在の魔術界の研究では未だその道筋の式までにしか至っていません。小さな箱庭サイズの世界式ですら、創り上げた者はいませんから」
相変わらず話は良く解からないけれど、梓は僕に語りながら自分の中で整理しているのだろうと思う。とにかく黙って聞いておく。
「……世界式には現在二つの方向性が示唆されています。二つとは、創造していく方式と、侵食していく方式。
……創造世界式は現実空間に箱を生み出すように世界を創る方式で、侵食世界式は現実空間を創り換えて世界を創る方式です。
……此れは特異魔法で生み出された異例の世界式なので私の知らない方式である事もないとは言えませんが、理論上、どんな世界式にも必ず境界が存在する筈です」
「境界?」
「……現実世界と世界式の間の壁のことです。其れを見つけて破壊して脱出します」
「そ、そう」
意外にアナログな脱出方法なんだな。
今までの話が訳解からなかった分、その説明は何だかすんなり心に入った。
「……しかし」
速くも遅くもない歩調を保ったまま、梓は怪訝に辺りを見回した。
「……何も起こりませんね」
「え?」
「……『殺人鬼』の創った世界式にしては静かで何もない世界過ぎませんか。しかも此れは特異魔法でしょう? 私たちに対する攻撃くらいあって然るべきなのに」
「まあ、何もないならそれにこしたことはないんじゃない?」
「……それにしても。……ん? 此処は――」
「うわっ、梓?」
前を歩いていた梓が突然立ち止まっていた。よそ見していて背中にぶつかってしまう。何か文句を言われるかと思ったが、梓はそのまま振り向かず、じっと動かなかった。
「梓?」
回り込んで顔を覗く。
驚いた。
梓は大きく眼を見開いていた。顔を真っ青にして、唇を震わせて、愕然としている。
それは、これまで見たことのない梓の表情だった。
「梓! おい梓!」
肩を掴んで揺する。
はっと僕の顔に眼の焦点を結んだ梓は、すぐに僕の手を振り払って、再びズンズンと坂道を昇り始めた。
「待ってよ! ねえ、どうしたの!」
『アズサ、どうしたの?』
「解からない」
ともかく後を追う。
さっきよりもずっと歩調が速まっている。
周囲の景色も進むにつれて変わり始めていた。灰色の住宅街は終わり、その先は深緑の木々の中へと道が伸びている。
そうして気が付いた。
景色が色づき始めている。
今、両側に生える木々は土色の幹と深緑色の葉をちゃんと持っていて、進めば進むほど鮮やかになっていった。公園を出た時はあんなに灰色だったのに。
「……矢張り――矢張り。此の世界式は」
梓が唸った。
言葉は小さく聞き取り辛かったが、どうやら何かを掴み始めているようだった。ただ、それが良い予兆だとは思えない。梓のあんな表情を思えば。
そして――道は終わった。
その館は、木々に包まれた坂道をずっと昇って行った先に、ひっそりと、しかし荘厳と建っていた。まるで森の中に突如ワープしてきたかのような異物感がある。
白く高い塀がずっと続き、それよりも遥かに高い五角の門柱が入口脇に二本建つ。柱には薔薇を象ったレリーフが一つずつ彫られていた。高さは、二十メートルはあるだろうか。なのに、その柱の間の入り口に門が付いていないのがなんだか未完成の絵画のようだった。
門から覗ける庭内は整然としている。煉瓦の歩道が門から数十メートル続き、奥にある落ち着いた色合いの邸宅へと繋がっていた。
それしかない庭だった。
整然と草が生え、何もない空間を晒しているだけ。花もオブジェも彩りもない。
周りを包む森や静寂と相俟って、奥まった所に孤立して建つこの家は、とても寂しい感じがした。
僕と梓は門の前に立つ。
梓が柱に歩み寄り、そっとレリーフに触れた。
「……間違いありませんね」
静かに呟き、振り向いた。
「……此の世界式が何を元として創られたかが解かりました」
「うん」
『なになに』
梓は強く唇を噛みながら、
「……此処は、私の精神世界です」
そう言った。
「精神、世界?」
「……はい。過去、記憶、歴史、思い出。言い方は沢山ありますが、つまりは私の世界。私を基礎にした世界式です。……此処は、九条家ですから」
「――え?」
言われて、もう一度家を見た。
相変わらず動きのない、時間が止まっているかのような家。
これが魔術一家の『九条』の家。
梓と楓の、家なのか。
「……腹立たしい。人の記憶を勝手に世界式に創り換えるなんて」
「え、ちょっと待って。じゃあ、あの灰色の街は」
「……私の視点から見た世界、と言うことかもしれませんね」
「――――」
梓は簡単に言ったが、僕にとっては衝撃だった。
あんな奇妙で寂しい街。彼女の眼には、世界はああ見えていると言うのか。
どうしてそんなことに。
「……境界が見つからないまま一本道で此処へ辿り着いた以上、入らざるを得ませんね。心してください。『九条』家は伏魔殿です」
門へ向かう小さい背中。
どれだけしっかり者で心が強くても、彼女はまだこんなに小さくて幼い。
そんな躯で、君は、何を背負っているんだ。
じっと見つめていると、おもむろに梓が振り向いた。
「……何神妙な顔しているんですか。似合わない。さっさと来なさい」
「ああ」
心中の疑問を、僕は聞けなかった。今聞けば、それは単なる興味本位だ。けれど梓の話はそんな覚悟で踏みこんで良いような話ではなくなる気がするから。そんな僕には話してくれないだろう。
とにかく、今は彼女と前へ進む。
梓は門柱の間、九条家敷地と外との境目にある長方形の仕切り石の前で立ち止っていた。草履の先が触れるまでほんの数センチ。けれど、何故かそこから中に入ろうとしない。
「どうしたの?」
「……いえ。ただ、非常に微妙な問題が」
そのまま暫く何かを逡巡していたが、やがてそっと右足を踏み出した。
草履が仕切りを捉える。梓はその後はすんなりと九条家に入って行った。
振り返る。
「……言っておきますが、貴方は安易に入らないように」
言われるまでもなく、僕はその場から動いていなかった。先行く人があれだけ警戒していたら、そりゃ入れない。
梓はしゃがみ込む。
「……一見門がないように見えますが、此の仕切り石は九条の者以外が這入ろうとした瞬間に高速で射出される仕掛けとなっています。下手に跨ぐと、骨を砕かれて空へ飛ばされるのでお気をつけあそばせ」
「…………」
もし僕が安易に這入ろうとしていたらどうするつもりだったんだろう。そう言うことは先に言って欲しい。
「……世界式で創られた世界ですから、きちんと私を認識するかどうか疑ったのですが、どうやら大丈夫ですね。私の精神世界を元にしているのですから、飛び出さないのは道理ではあります」
梓は仕切り石に手を置いた。静止して、何か思いを籠めるようにしてから手を離す。
「……どうぞ。解除しました」
恐る恐る石を跨いだ。その間は怖くて堪らなかったが、何事もなく敷地内に入れてほっと息を吐いた。
「……赤い煉瓦は踏まないように。射出されますので」
「…………」
だから先に言ってくれと。心臓に悪い。
足元にとにかく気をつけながら、梓の後に続いた。梓は踏んでも大丈夫らしく、するすると滑るように歩いて先に行ってしまう。僕は下だけを見て、付いて行くのがやっとだった。
やがて煉瓦が途切れた。
見上げると、巨大な門構えや伝え聞いた九条の凄さからすると意外に小さな、木目と煉瓦、和風と洋風の混在した瀟洒な館が建っていた。窓には全てカーテンが引かれ、ひっそりと静まり返っている。
「……這入ります。注意を」
警戒を促され、聖剣を構える。
梓は両開きの扉を静かに引いた。
中は薄暗かった。扉を開けたことで溜まっていた空気が混ざり出す。屋敷が息を吹き返すように見えた。
玄関を開けて、正面には階段が、両側には扉があった。階段は踊り場で折り返し頭上へ続いている。
実際の世界ではないらしいけど、梓にとっては勝手知ったる自分の家なわけで。探索の判断に関しては梓に一任した方が良いと思った。梓も当然そう考えているだろう。
僕は辺りの警戒に意識を割く。
梓は三和土で草履を脱がずにそのまま室内へ上がる。こんな状況でも少し意識が咎めるのがおかしいが、僕もそれに倣った。
階段、そして二つの扉、梓はそれに見向きもせず、階段横の行き止まりへ足を向けた。
階段の下にはもう一つ扉があった。ただ、ドアノブと装飾があるような扉ではなく、指を引っ掛けるだけの取っ手がついた簡単な扉である。物置だろうか。
梓が取っ手を引く。だが、びくともしない。鍵が掛かっているとかそう言う様子ではなく、そもそも開く構造になっていないかのように微動だにしなかった。
「……矢張り錠は生きているのですね」
私の精神では此の扉は鍵は掛かっているのが当然、と言うことでしょうか、と呟きながら、梓は扉の表面にそっと手を当てた。
ぐっと押し込むと、手が仄かに光る。
梓が手を離すと、壁の一部のようだった扉は取っ手を引くまでもなく勝手に向こうから開き始めた。
「……九条の魔力に反応する錠前です」
扉が開く。
中は僕が想像していた光景とは全く違っていた。
そこは狭い収納空間などではなく、入口だった。
扉が開いてすぐに急な下り階段があり、暗くて見えない奥深くまで続いている。一層冷たい空気が流れてくるのを感じた。
「……此の先は九条の魔術の中枢です。私の精神世界の中で、最も再現率と濃度の高い場所で在る筈。事態を動かす何かがあるとしたら、きっと此の中」
「あ」
そこで聞いておかなければいけないことを思い出した。
「そう言えば入る前に聞いておきたいんだけどさ、境界って言うのはどうやって見つければいいのかな。それとどうやって壊せばいいのかも教えておいて欲しいんだけど」
梓は振り向かずに言った。
「……解かりません」
「え?」
「……そんな知識はありません。まだ誰も世界式を完成させていないのですから。解かる筈がないでしょう」
「えっと、じゃあどうすれば」
「……知りません!」
言い残して、梓はさっさと階段を下りて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと、待って待って!」
すぐに追いかける。暗く狭い通路、見失いそうな桃色の背中と、木の階段の感触を感じながら、思考を回す。
まさか……、そうは見えなかっただけで、梓も動揺していたのか? 方法も解からず「境界の破壊」を提案したのは、それ以外にアイデアがなかったから?
ばたん、と背後で閉じる扉。
喪われた光と道標に不安が募る。
「ミカエル」
とりあえず、光を。
『はいはい。やってあげるわよ懐中電橙』
指輪から黄金の光が溢れて、狭い通路を明るく照らしてくれた。かざして、急な階段を降りて行く。
段にして五十程。かなり深くまで潜って、やがて出たのはまるで洞窟のような広間だった。
地下を刳りぬいて造ったようで、壁や天井は岩が剥き出しでごつごつとしている。床だけはコンクリートで均してあるようだ。壁には石油ランプが吊るされ灯り、室内を赤く仄かに照らしていた。
三十畳ほどあって横には広いが、縦には随分と狭い空間だ。手を伸ばせば天井についてしまう。広間の中心には小さな円卓が置かれ、その上にランプが一つ置かれていた。そこだけカーペットが引いてある。
そして、広間から様々な方向に新たな洞窟が伸びていた。
「……うわあ」
感嘆の息が漏れた。
まるで現実味のない、絵画みたいな空間だ。魔術を、叡智を、存在を秘匿する、まさにそんな雰囲気の部屋。
通路は幾つかあるので、当然僕には最善の選択は解からない。だからやることはさっきと変わらず、とにかく辺りの警戒に努めた。全体が仄暗い空間だ。突然『殺人鬼』が顕れるかもしれない。後は梓の選択を待つ――その筈だが。
意に反して、梓は一向に動き出そうとしなかった。
無言の背中を、無言で見つめる。
「…………」
どうしたの、って聞けば良い。
なのに何故か尋ねられない。そんな簡単なことが出来ない。
何故だろう。口が開かない。
――僕は……返答を聞くことを怖がっている。
嫌な予感がしていた。
「……そんな」
梓の小さな呟きは、崩壊への序章。
「……ど、どうして、こんな」
『梓さん? どうしたんですか』
「……有り得ない」
一歩、二歩、後ずさる梓には、ラファエルの声も届いていない。
「……此処は、此処は」
ぐるりと辺りを見回して、梓がこちらを振り向いた時に、僕は梓の顔を見た。
子どもの顔。
年相応の、怯える子どもの顔だった。
「……私が潰した筈なのにっ!」
叫びが洞窟に反響する。
そして、その声によって生まれたかのように、一人の人間が洞窟の暗がりから現れた。
「のう」
暗闇が震えた。
「聞け。此度の宣布より、貴様の全てが九条と魔術への供物となる。捧げよ。命を以って捧げよ。さすれば見えよう、九条と魔術の深遠が」
枯れた黒檀のような男だった。いや、男と言うよりも老爺と言った方がいい。暗い色の着物を着て、小さな躯と曲がった腰、骨ばった手で、切り出したままの無骨な木杖を突いている。
「のう、貴様が次代の九条家当主じゃ。九条と魔術に、己を奉遣せ」
頭の少ない白髪が後ろへ撫でつけられて、皺でくしゃくしゃの顔には白目のない鈍色の瞳が埋もれていた。
今にも折れそうな躯、けれど声色は熱に漲っている。
生気と腥気を持つ不気味な老爺だった。
どさりと音がした。
驚いた。僕の前で梓が尻餅をついていた。歯をカチカチと鳴らし震わせて、手足を空回らせながら懸命に老爺から遠ざかろうとしている。
「梓!?」
「……あ、あ、ああ」
急いで彼女の肩を支える。
けれど、梓の様子は尋常ではない。
「梓!」
『梓さん!』
『どうしたのよ!』
呼びかけても応えないし、こちらを見もしない。
梓を胸に抱えて、聖剣を老爺に向けた。何者か解からないが、梓の狼狽を鑑みても明らかに危険だ。
僕が――護らなくては。
老爺は特にその剣を気にした様子もなく、間を持ってゆったりと立ち止まった。
「のう、貴様じゃ。貴様が次代当主となる。……アレの事は忘ぜよ。アレには九条と魔術の深遠に臨む覚悟が無かった」
……――なんだ?
疑念を覚える。
老爺は誰かと話しているようだった。
僕たちは返事をしていないし、他に声も聞こえない。
では、誰と何の会話を?
「のう、貴様は確かに才は劣るが無才では無かろう。アレが彩られた絹だとするのなら、貴様は純白の木綿じゃ。九条の魔術と矜持と覚悟と在り方は――此れから埋め込んで造ってくれるわ」
「いやああああああああっ!」
絶叫。
僕の腕の中で、両手で耳を塞いだ梓が叫び声を上げていた。
「梓!?」
一瞬信じられない思いで固まる。
あの梓が、叫んでいる。恐らくは、恐怖で。
激しく身動ぎする梓を必死で抱きとめた。
老爺はそんな僕らを一瞥もせず、地面をどん、と木杖で突いた。
「のう、始まりじゃ」
その瞬間、またしても世界が切り換わった。