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DECEMBER  作者: 竜月
三日目 Bohemian Rhapsody
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三日目 (16) 葡萄色


 五感のどこかに引っかかったその何かを、内面を見つめて分析する。これじゃない。違う。何だ。僕は今、何に違和感を感じた?

 その時、またしても、フ、と。

 梓を振り返る。


「梓。何だか変な匂いがしないか?」

「……はい?」


 怪訝そうな声色の梓だったが、スンと小さく鼻を鳴らすと僕と同じ感覚を覚えたようだった。何度も鼻を鳴らして、違和感の正体を探ろうとしている。


「……あちらからですね」


 梓は殺人鬼が現れた方向とは逆の方向を指し示した。そちらの廊下はすぐに曲がり角で直角に折れている。


「……気になります。確認しておきましょう」


 先を警戒しながらの足取りは遅かったが、僕の誓約の宝玉は、電燈代わりにとても役に立った。


『こんな使われかたはナットクいかない!』


 ミカエルは不本意そうだったが。

 この廊下には窓がないので進めば進むほど暗い。ただ、ずっと先の廊下の端は多少明るくなっていた。あちらは入口の方だ。入口からの光が射し込んでいるのだろう。

 一つ一つ、通り過ぎる病室を嗅覚で探って行く。

 扉が閉まっている病室と開いている病室は半々ほどだったが、開いている病室を覗くと、ベッドはひっくり返され、書類や布団は泥に汚れ、床に散乱していた。まさに荒廃だ。カーテンの掛かっている部屋と掛かっていない部屋がある。掛かっていない部屋は中庭からの光で多少明るかった。

 心臓が落ち着いてきて、より匂いが鼻につく。

 強くなっていく謎の匂いを辿って、


「ここですね」


 梓が一つの部屋の前で立ち止った。

 その病室は入口の扉が閉じている。

 けれど匂いは確実にここから漏れていた。部屋の前に立つと強くなった匂いが嗅覚を刺す。聖剣を握る手に力が入る。

 梓が不快そうに顔を歪めた。


「……矢張り」


 その呟きに内心首を傾げる。

 この匂いがなんなのか、梓は既に解かっているのだろうか。


「……開けます」


 中に何が待っているのか解からない。なのに、梓は躊躇うことなく引き戸を開け放った。

 部屋のカーテンはかかったままだった。だから中は真っ暗なままで、視覚の代わりに嗅覚がより鋭敏に働き始める。

 扉を開いた瞬間に、くらりと意識が遠のく程の濃密で強烈な匂いが溢れた。

 大きく吸い込んでしまって、噎せながら吐き出す。脳内に入り絡みつくようで不快だ。

 聖剣を構えているので鼻を摘むことも出来ない。浅く吸って、浅く吐いて、出来るだけ匂いを吸い込まないように呼吸をするようにした。

 視界は確保されていないのに、梓は超弓も構えず無警戒に病室へ入って行く。


「お、おい」


 僕も戸惑いながら後に続いた。

 室内は外より一層の冷気を溜め込んでいた。

 病室に入って三歩目。

 ぐにゃりと。

 とても柔らかい、空き缶みたいな大きさの何かを踏んだ。

 驚いて飛び退る。

 鼠でも踏んでしまっただろうか。見えなくて気持ちが悪い。

 少し身を屈めて床を睨むが、何かいるのは解かるけれど具体的には視認出来なかった。

 梓が何故か壁際を大回りして、部屋の奥へ歩いて行く。まるで真ん中に近いところを通りたくないかのよう。


「……開けますよ」


 カーテンを掴み、そして一気にレールから引き剥がした。

 部屋に光が入る。


『シノブ見ないでっ!』


 ミカエルが叫んだ。



「――――――」



 その瞬間、匂いが消えた。

 僕が呼吸を忘れてしまったから。


「……なんと醜い」


 梓は表情を歪めて、足元に気をつけながら近付いて行く。


「……これだから『殺人鬼』の思考は理解に苦しむのです。こんな徒労のような行為で生き甲斐を満たすなんて」


 解からない。

 梓の言葉が耳には届いても脳が麻痺している。

 この光景が眼には入っても脳が拒否している。


「……ひい、ふう、みい、よう。……、……、ふむ。恐らく四体ですね。風体からしてまさか代理戦争の関係者ではないと思いますが、貴方の例もありますし。一応結論は保留しましょう」


 止めていた呼吸が、肺の催促で無意識に再開する。

 例の臭いが嗅覚を刺激して、その瞬間に全ての感覚がそれとリンクして眼の前の光景を認識し始めた。

 濃密な臭いが嗅覚を突き刺して潰す。

 とても寒い。末端が冷え切っている。

 口の中がカラカラだ。水を飲みたい。

 心臓と血の音が煩くて耳鳴りがする。

 頭、腕、足、胴体、指、顎、胸、腹、何処かの部位。バラバラの人間の躯が、葡萄色の血溜まりに浸っていた。若い男の頭と眼が合った。その男は、鼻から上しかなかった。


 ――人間の、死体だ。


「あ、」


 尻餅をつく。

 そこまで血染みは広がっていたが、血は既に乾き始めていた。押しつけた手に黒い汚れはついたが、濡れたりはしない。

 足の先に、元は白かったらしい服を着た、指先のない掌から肘までの腕が落ちていた。ああ。さっき踏んだのは、これか。

 腹から喉へ熱いものが上がってくる。

 僕は四つん這いになって、嘔吐した。

 びしゃびしゃと胃液に近い透明なものを吐き出す。喉が焼けるように熱くて、眼から涙が零れた。

 こんな、こんなことが。


「……何してるんですか」


 頭上から声がかかった。

 梓の言葉は冷たく、そして静かだ。


「……立ちなさい。もうここまで入ってしまった以上、『殺人鬼』は病院内でカタをつけます」


 梓のブレスレットが蒼く光った。


『梓さん……。忍さんは一般の方ですから。もう少し待ってあげて――』

「……お断りですね」


 強く撥ねつける言葉で。


「……此処は戦地であり、容易く死地に変わる場所です。貴方は自ら選択して踏み込んだ。ならば――、自らの足で立ち上がりなさい」

「…………」


 梓の言葉が四つん這いの背中に圧し掛かった。

 左手の指輪が眼に入る。ダイヤモンドには仄かな黄金色が灯っている。中で、こちらを見上げているミカエルの姿が見えたような気がした。

 眼を閉じて、唾を呑み込んだ。

 ……ああ。そうだ。梓の言う通りだ。

 口を拭う。そして立ち上がる。

 足に力を入れていないと倒れてしまいそうだったけれど、それでも僕は立てていた。


『忍さん、大丈夫ですか?』

「ええ。ありがとうございます」


 ミカエルもありがとう。そう言う意味を籠めて宝石に指先でちょんと触った。

 梓は素知らぬ顔だ。……こんな凄惨な光景を眼の前にしてもちっとも動じない彼女は、矢張り一般人とは大きく違うと思う。その在り方は羨ましくもあり恐ろしくもある。だが、すぐさま出発と言わずに僕を待ってくれているあたり、どこか優しさを持っていると思った。

 彼女に、応えなければならない。

 眼を逸らそうとする本能を拒否して、確りと彼らを見つめた。

 込み上げる吐き気を抑えながら尋ねる。


「彼らはどうして?」

「……理由を探すのは無意味ですね。生物が其処にいて、『殺人鬼』が其処にいれば、こんなことは何時何処にでも起こり得ることですから」


 ふと、病室の端に酒の缶が幾つも転がっているのを見つけた。良く見れば死体の傍にも、血に染まっているお菓子の袋や瓶などがある。

 恐らく彼らはここに忍び込んで飲み食いしながら遊んでいたのだろう。肝試しみたいなものだ。町外れの廃病院と言うロケーションはその舞台には絶妙だ。

 そこで運悪く――災厄に出遭った。

 血に塗れた彼らの顔を見る。

 長髪の男と坊主の男。髪の長い女が二人。髪の色や肌の色は解からない。眼を閉じている顔、歪んだ笑みの顔、ただただ不思議そうな顔、恐怖に震える顔。

千千と乱れていた心が、収斂されていく。

 一つの言葉が、僕の中に浮かび上がった。

 ――僕は、彼らをたすけられなかった。

 その時僕はここにいなかったのだから仕方がない? いや違う。彼らは代理戦争の被害者で、僕は代理戦争の関係者だ。

 その死には、絶対に責任がある。

 心は静かに、決意が固まっていく。

「こまっている人がいたら、たすける」の誓い。その為には、再び犠牲者が出る前に『殺人鬼』を止めなくてはならない。ここで。今ここでだ。

 それが出来るのは、僕らだけ。

 ぎゅっと手を合わせて死者を弔い、そして、背を向けた。


「行こう」


 スイッチは、いつもの儀式をやり直すことなく切り換わっていた。




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