三日目 (12) 殺人鬼
「……行きましょう」
梓の背から羽が生える。
今気付いたことだが、梓の羽は背中から直接生えているわけではなく、着物の外、背中から数センチ離れた所から突然生えているようだ。どう言うメカニズムか解からないが……まあ、天使の羽のメカニズムを考えるだけ無駄な気がする。
ただ、僕の羽もそうしてくれれば、制服に穴が開かなくて済んだのに、とは思う。
梓が楓と手を繋いで、枝から飛び立つ。
「いくよ」
『うん』
僕も羽を生やして、枝から両足を離した。
ゆったりと羽ばたいて、地上から二メートルほどの高さで飛びながら建物に近付いて行く。
楓は途中で梓が降ろした。
楓は契約もしていないし、覚えている魔術もあまり戦闘には向いていないので、離れて戦況を窺っておいてもらうとのことだ。それ自体は特に不思議はなかったのだが、申し訳なさそうな表情をしている楓には驚いた。
少し先を行く梓に従って、木々を避けながらゆっくりと進んでいく。
既に手には聖剣を握っている。
羽を出すと捲くれ上がってしまうコートは楓に預けてきたが、それでも手に汗握るほどだ。精神が昂っている
「……警戒を」
梓が前を向いたまま言った。
そして、枯れた森を抜けた。
「…………」
コンクリートの地面に着地。辺りを観察する。
遠くから見た時は白い建物だと思っていたが、十メートル程の距離で見ると、元は白かったであろう壁もかなり汚れが目立ち、更に規則的に並んだ窓硝子の多くが割れていた。入口の観音開きのドアもすっぽりと硝子がないため開けなくても中に入れる。赤や黒のスプレーでなにやら読めない記号や文字が落書きされていた。
この建物の雰囲気は……病院、だろうか? 所々の窓に残っている同じカーテンや、三階分規則的に並んだ窓がそう思わせる。
と言うことはもしかしたら、今立っている場所は駐車場なのかもしれない。落ち葉に覆われていて、何とも言えないが。
そして。
「今日和あ。ご機嫌いかが? 天使とその契約者の皆さん」
曇り空と枯れた寂しい森に全くそぐわない、妖艶で、熱を持っていて、ドロドロと粘りつく泥のような声だった。
その女性を見た時に、先ず眼がいくのは髪の毛だ。頭頂部から瀑布の如く流れ落ちる黒髪は顔と前半身以外の全てを覆い隠していた。くびれた腰の辺りでふうわりと膨らんで、それでも毛先は170センチくらいある身長の足首ほどまである。
服装も黒のワンピースドレスに黒のタイツ、黒のブーツに黒のシースルーブラウスに黒手袋と黒一色。顔の白さとナイフだけが闇に浮かんでいた。
眼まで髪の毛で隠れていて、見えるのは泣き黒子まで。表情もあまり読めない。
ただ、額辺りの髪の毛から、見慣れぬものが突き出していた。
――角。
白い角が、二本。
……『殺人鬼』。
そして、
「蕾と純粋無垢。……嗚呼なんてこと、私の嫌いなものばかりだ。何もなくてつまらない今を変えてくれると思ったのに。……ねえ君、退廃した女性がたくさんいるソドムの街へ案内してくれないか?」
その男は、一言で言えば貴族のようだった。
赤いマントを羽織り、クリーム色のシャツと半ズボン。その下に白いタイツを履いている。
頭には三角形のハットを被っていて、髪はテグスのような金色。全体的に装飾がとても豪華な服装だった。
彼が、悪魔か。
女が口角をぐいっと上げた。
「熱い挨拶、有難う」
腕を上げると、ブラウスの一部が小さく裂けていた。風矢がほんの少し掠めたのだろう。
梓はほんの少しだけ頭を下げた。
「……どうも。では、今度はそちらから挨拶を頂けますか?」
「ふむ。よろしくて。ではまず彼」
「私は“悪魔皇子”ベルゼブブだ」
指輪から動揺が伝わってきた。
『ベルゼブブ……! 有名どこがきたわね』
ミカエルが僕にだけ聞こえるように言った。
確かに有名だ。僕でもどこかで名前を聞いたことがあるほど。
「……ベルゼブブを自らの眼で見ることが出来るとは。この代理戦争の前は想像もしませんでした」
「フフ、子どもなのが残念だが、君は中々見所があるよ」
梓の言葉に、ベルゼブブは気障に微笑む。
「そしてェ、私は彼の契約者よ」
間延びするような女の声は、ドロドロと耳にへばり付いた。
殆どが髪の毛に隠れているけれど、彼女は意外に表情豊かなようだ。口が笑みの形に大きく裂けている。
梓が言った。
「……おや、貴方の紹介はそれだけですか? 本当に? 何か忘れていませんか? ……ねえ、『殺人鬼』」
女の口元から一瞬笑みが消えたが、そのすぐ後、より一層深い笑みを浮かべる。
「そうねェ。そうよねェ。代理戦争の参加者なんですもの。知っててもむしろ当然よねェ」
指先で額の辺りの髪の毛を少しずらす。
骨のようなソレがより顕わになった。
「可愛いでしょう? 毎日のお手入れを欠かしたことはないのよ?」
にんまりと口を歪める。
「この通り、私は『殺人鬼』。殺したがりの歩く災厄。一応、貴方たちのお名前も聞いておこうかしらあ? 『殺人鬼』が殺す前にこんな儀礼をするのは何だか奇妙な感じだけどねェ」
梓が僕を眼で促した。
「僕は藤川忍です」
ミカエルは……出さない方が良いんだろうな。
左手の甲を相手に向けて掲げる。
声だけが響いた。
『私が彼と契約した天使、“神の御前の姫君”ミカエルよ』
「ミカエル! 良いわねェ。殺し甲斐がある」
女は笑みを深める。
「……次は私たちですね」
梓はブレスレットを顔の高さまで上げて突き出す。
『私は“守護天使”ラファエルです』
「ラファエル!」
「……そして私が――魔術師『九条』梓です」
――女の動きが、ぴたりと止まった。
「……どうしました?」
梓はいつもの無表情を好戦的な笑みに変えて。
「……何か気になることでも御座いましたか?」
女はまるで人形のように動かない。
僕はハラハラと固唾を呑む。
痛いほどの静寂。
さわりさわり。
森の梢が風で揺れる。
そして。