三日目 (11) 黒い影
梓は建物に鋭い眼を向ける。もう他の誰も見ていない。
「…………」
どうする。
どうすればいい。
どうすればいいんだ。
「……ああ、くそ! 僕も行くぞ!」
結局はそれしかないじゃないか。
立ち上がった僕を、梓は眉を顰めて振り返った。
「……何を言っているんですか? これは貴方には無関係なことだと言っているでしょう」
「そんなこと言っていられない」
「……何故?」
「危険に向かう梓を、放ってはおけないからだ」
「…………」
梓はぽかんと呆けたような表情を見せた。眼を丸くして、口もちょっと開き気味。それは、紛れもなく子どもみたいな表情だった。
「僕も行く」
「……はあ」
梓はこれ見よがしな溜め息を吐いて、
「……お人好し極まれり、本気の善意とはここまで鬱陶しいものなのですね。勉強になります本当に」
『私も協力します』
ラファエルの声が言った。
『目的は違えど、あそこに居るのは悪魔とその契約者。そして、梓さんは私の契約者ですから』
「……貴方もですか」
『はい』
梓の手首で、ブレスレットが強く輝いた。
梓は唇を尖らせながら、
「……解かりました。仕方ないのでその善意は頂戴しておきます」
不満げに呟いた。
そう言えば、僕も相談しなきゃいけない相手がいた。
「ミカエル」
『いいよ』
即答だった。
『シノブがそう決めたんだったら、わたしはいいよ。シノブの選択が正解でも間違いでも、わたしはいっしょにいるから。だってわたしが選んだんだもの。あなたをね』
とんでもない信頼だった。
重くて、大きくて――そして、優しくて嬉しくて有り難い。
自然と口角が上がって、聖剣を握る手に力が籠もった。
「……それでは、参りましょう」
梓は超弓を手に取る。
「……先ず、挨拶からいきましょうか」
お姉様。その呼び掛けで、楓が枝の先でぴょんと飛び上がった。
「よっしゃ! やったろかーい」
あ、危ない。そう言おうと楓の顔を見て――眉を顰めた。
なんだろう。気儘な猫のようにいつもの元気を表現している楓だけど、なんだか今の笑顔は、それ以外の、種類の違う感情が隠れているような気がする。さっきの無表情の時と同じで。
だけどそれが何かは解からない。眩しい太陽の向こうは、見ることが出来ない。
楓は枝の先端に背中を向けて立っている。
「……控え目でお願いします。気付かれてしまっては元も子もありませんから」
楓はぐっと親指を立てて返事をして。
幾分小声で歌い始めた。
『♪♪♪~♪~~♪~』
さっきの歌がどこまでも優しく静かで緩やかだったのに対して、今回の歌はどこか楽しげでリズミカルだった。
響いて響いて、波紋のように世界に広がっていったのが前の歌。
音符が跳ねるように、水面をトトトッと渡って行くのが今の歌。
歌っている楓も、躯を揺らして節を取っている。
『♪~~♪♪~♪♪~~』
そして、僕たちの周囲を風が廻り始めた。
躯が振れるような暴風ではない。けれど、髪とコートを巻き上げるほどに力強い。辺りに眼をやるが、僕たちの周囲以外の葉や梢は全く揺れていなかった。
すっぽりと僕たちを包むように、風のドームが出来ている。不思議と冷たくはなかった。
「……上出来です」
梓は枝の上でしっかりとスタンスを取り、超弓を構える。
そして、風の中に右手を突っ込んだ。
「……三本行きます。着弾は監視窓に一本、そこから右に三メートル間隔で二本で。制御お願いします」
見えないけれど、何かを掴み取ったような手の形で風から手を引っ込める。そのままそれを弦に番えて、ゆったりとした動作で頭上に掲げた弓を、一気に引き絞った。
キリキリ、と張り詰めた音。
ゴウゴウ、と風の荒れる音。
梓の瞳は射抜くように目標を睨みつけている。
『♪~~~♪~~~♪』
楓はまだ歌っているけれど、気付けば周囲を渦巻いていた風は止んでいた。今は梓の手元だけで、小規模の台風のように激しく吹き荒れている。
楓が振り返り、梓と眼を合わせた。
それが合図だったのだろう。
「……―――ッ!」
固めた風矢は放たれた。
『♪ ♪~♪♪♪~~♪』
木々の梢の揺れを見るに、最初は縦一列に飛んでいった風矢たちは徐々に横一列に変わって、梓の指示した着弾点に向かって飛んでいるようだった。
細い枝をへし折り、辺りの枯れ葉を巻き上げて、竜巻のような後塵を引き摺って飛んでいく。
押し退けて。押し退けて押し退けて。行く手を遮る木々を押し退けて。
そして――、風矢は全てを貫いた。
軌跡を辿って、一瞬視界が拓ける。
「あ――」
「…………」
意図せず言葉が漏れた。
視界が拓けたその一瞬、今度は僕の視力でも、そこにいる何者かを視認することが出来た。
黒。
黒い人型、としか表現できないような、真っ黒の人間。
それともう一人は、貴族のような、この国にもこの時代にもこの場所にもそぐわない、恐らく外国人。二人が驚いてこちらを見ている姿。
風の道が閉じる。
森は、再び静寂を取り戻した。