三日目 (9) 作戦変更
「ふう。ふう。指が痛い……」
えっちらおっちら時間を掛けて登る。
慣れないこと故に余計な力は入っているものの、やってみれば意外と登れるものだった。恐怖感もあまりない。そもそも高いところは好きだし、それにわけが解からないまま空を飛んだ昨日のことを思えば、自分の力で登っている今はとても安心感があった。
「……どこまで登るおつもりですか?」
「え?」
少し下から声が聞こえて、振り返ると、楓と梓は途中に生えていた太い枝の上にいた。気付かず追い抜いてしまったらしい。
「……早くこちらへ。貴方にも相手の姿を確認して貰わなければ困ります」
「い、いや、僕はここから見るよ」
先端にしゃがんだ楓、真ん中に腰掛ける梓を乗せた枝は、重みですっかりしなっていた。ここに更に乗っていく勇気はない。
枝の根本に立って幹で躯を支える。
梓も特に文句はなかったらしく僕から眼を切った。
「……あちらを見てください」
指差す先を見る。
今いる場所はさっきの場所と建物への距離は殆ど変わらず、百メートル以上は離れているだろう。視界には無数に重なり合う枝の森、しかし、その枯れ色の壁のある一点だけが、まるであつらえたかのようにぽっかりと開いていた。
その先に白い壁が見える。
『ちょっとちょっと。私にも見せてシノブ』
「ああ」
指輪を顔の前へ掲げる。これで見えているのかは解からないけれど、まあ文句を言わないってことは大丈夫なんだろう。
『遠いよ。ぜんぜんみえない』
「これより近くは見つからにゃいのだ」
楓が似合わずシュンと肩を落としている。
確かに遠い。
唯一繋がった世界はTVスクリーンサイズ。白一面、画面の向こうの幻想のようだ。
戦場の音は遥か遠く、鼓膜を撫でるように優しい。そこいらの小鳥の囀りに似ていた。
「……注視を。運良く見えたとしても、恐らく一瞬です」
梓は瞬きもしない。
見つめ続けたまま、背中の超弓を手に取る。
それほどの時間は必要としなかった。
シュ――と。
監視を始めて数分。目標は、一秒に満たない僅かな時間だが、確かにスクリーンを横切った。
僕に見えたのは、「なにか」。それだけだ。この距離、そして一瞬では、それ以上の意味を「なにか」に持たせることは出来なかった。
しかし、梓は違ったらしい。
「……なんて、好都合で、不都合な」
その言葉は、噛み締めた歯と唇の隙間から零れて、何かの感情に震えていた。
言葉は続く。
「……サタンを追って、悪魔を追って、遠い遠い街まで来たと言うのに。それでも猶、私たちは業で魅かれ合うようですね。お姉様」
「…………」
珍しいことに、話しかけられた楓は何も口にしなかった。まともな返答も、いつもの軽口も。何も口にせず、ただ眼を伏せて。
「……作戦を変更します」
梓が言った。
『変更?』
ミカエルが尋ねる。
「……はい。敵状偵察の作戦は破棄、現時刻から私たち――いえ、私は、対象の殲滅作戦に移行します」
……殲滅?
『梓さんっ!?』
声を上げたのはブレスレットの中のラファエルだったけれど、僕も同じ気持ちだった。
なぜ急に、そんな。
戸惑いに視線を揺らすと、俯いている楓の表情が眼に入った。
無表情で白い顔。震えていない感情。
梓の言葉に、疑問を感じている様子はなかった。
だが、それとは全く違う何かを、無表情の裏に隠している。
一体何を?
『梓さん、説明してください!』
「……説明は致します。しかしながら此れは、決定事項であると言うことを理解しておいて下さい」
梓も無表情で語る。
――一瞬、関係のない思考が過ぎった。
楓と梓、性格の大きく違う姉妹は、けれど無表情になると、実はとても良く似ていた。
やはり姉妹だと、改めて頷けるほどに。