三日目 (3) 傍らに剣を
鞄は運良くすぐに見つかった。
昨日、初めて空を飛んだ時(このフレーズがそもそもおかしいのだが)に落としてしまっていたらしく、道の隅っこにあった。中身もそのままだ。電柱の陰になっていて誰にも拾われなかったらしい。そう言えばあの不良たちはあの後どうしたのだろうか。変わった夢でも見たと思って忘れてくれると一番良いんだけど。
そんなこんなで学校に着いて。
今は二時間目の授業中だった。
数列を聞き流しながら、家に残してきた彼女たちに思いを馳せる。
何も言わずに置いて来てしまったけれど大丈夫だろうか? ミカエルやラファエルはただ外を歩いているだけで目立つし、楓と梓は魔術師なんて突拍子もない存在とは言えまだまだ子供だ。それに小鳥遊や他の悪魔たちのこと、サタンのこともある。考えれば考えるほど不安だらけだ。
……今日は急いで帰ろう。
そんな風に僕が決意した頃だった。
「……ん?」
ぼんやりと眺めていた曇り空に、鳥が見えた気がした。
いや、鳥ではない。
随分と高い場所を飛んでいて豆粒程にしか見えないけれど、あれは――。
がたんっと椅子が大きな音をたてた。
僕が勢いよく立ちあがったせいだ。
「藤川。どうした?」
先生の声で窓から視線を戻すと、クラス中の視線が集まっていた。その中には奈月の視線もある。彼女はとてもクラスメイトには見せられないような不機嫌な表情で、「なに寝惚けてるのこの馬鹿」って声が聞こえてくるようだった。
「あー……」
何と言おうか。悩むこと数秒。
「すみません、体調が悪いので保健室に行ってきます」
それだけ言って、鞄を持ってそそくさと教室を飛び出した。
教室内がざわめくより早く、静かな廊下を迷わず疾走する。
保健室に行くなんて勿論嘘だ。後で奈月に追及されるのは怖いけれど、今はそんな下手な嘘を吐いてでも行かなければいけないところがある。
階段を駆け上がって、屋上へ飛び出す。尖塔が曇り空を突いていた。
そして、空を見上げた。
「…………なにやってるんだ」
呆れ声になったのは仕方がない。
なぜなら、見上げた空に飛んでいた鳥が、ぶんぶんとこちらに手を振っていたからだ。
「あ、シノブー」
「……ミカエル。邪魔なので動かないでください。落としますよ?」
「妹。それはあちしも落ちるって解かってるのかな? あ、解かってるよね。そっかそっかこんちくしょう」
六翼生やした梓の腕にミカエルが掴まって、さらにそのミカエルの腰にがっちりと楓が食い付いている。不 格好な三位一体で鳥となっていた三人は、遥か高みからふよふよと降下してきて僕の前に着地した。
「とうちゃくいえー!」
「……ふう。重くて肩が痛いです」
「そ、そんなに? あ、でも二人いたからかな。そりゃあ二人も持ったらちょっとは重いよね。うんうん」
「……お姉様なんて絹みたいなものです。貴方が重いんですよミカエル。その大きなお尻と馬鹿みたいなおっぱいが」
「ば――! ばかみたいってなによ!」
「……まさに貴方のことですが?」
「て、天使にむかってなんて言いよう!」
「……私も天使には一定の敬意を払っていましたし、ラファエルに出会ってもその想いは変わりませんでした。が、貴方に出会って考えを変えました。人は人による、天使も天使によるんですね、と」
「むー!」
梓とミカエルはむきになって言い合いをしている。
楓は辺りをスキップで飛び回っている。
さらに、青い光がぱあっと広がって、
「まあまあ。二人とも落ち着いて」
消えた時には、ラファエルまでもがそこにいて、二人の仲裁をしていた。
少女が二名と外国人の女性が二名。内二人金髪。内三人私服。と言うかドレスに着物。一人学外の制服。
さっきも思ったように、ただそこにいるだけで目立ってしまう四人が、今、日本の普通の学校の屋上に。
め、目眩が。
「ちょっと君たち」
「だから、もっと天使への敬意ってものを――ん? なあにシノブ?」
「ひとまずあっちで話そうか?」
尖塔の入り口を指差す僕の顔は引き攣っていた。
「なに考えてんの! あんな風に空飛んで学校に来ちゃうなんて!」
螺旋階段を上って。
尖塔の先は展望台になっていた。
広さは三畳ほど。四方は埋め込みの強化硝子になっていて、狭神の街が一望出来る。
僕のように一人でここに来る人間は珍しく、先生たちの思惑とは当然大きく違うのだろうが、もっぱら男女のカップルが心置きなくいちゃついたりする時などに使われていた。
「カップルでないと入ってはいけない」なんて、暗黙のルールとまではいかないが、雰囲気みたいなものが生徒の間にはあり、これだけ景色の良い場所なのに使用頻度はあまり高くない。僕はその隙間を狙ってよく此処に来ていた。専門棟の屋上と一緒で冬はとても寒い。
恋人と一緒なら、手を繋いで暖め合ったり……なんて実益を兼ねたいちゃつき方もあるのかもしれないが、僕は厚着で一人我慢をして、のんびりと過ごすのが常だった。
だが今は、五人もの存在が三畳に密集していた。
「自覚ないかもしれないけど、ミカエルやラファエルは勿論、楓も梓もすごく目立つんだ。せめて街中ならともかく、学校はまずいよ」
僕とラファエルが部屋の一番奥と入口に立っている。ミカエルは僕の傍で座っていて、楓は窓にぺったりと張り付いて景色に夢中で、梓は真ん中でしゃなりと綺麗に正座をしていた。
無意識に大きな溜め息が出た。
全く困った。
どうにかして彼女たちに家に帰ってもらわなければいけないけれど、空を飛んでって言うのは危険過ぎるし、かと言って校内を通して校門からってのも絶対に見つかる。そうなると、放課後まで待ってもらって、それからこっそりと出すしかないだろうか。楓がちゃんと大人しくしていてくれるかは心配だけど。
彼女たちの帰し方を考えていると、梓がぱっと顔を上げた。
睨みつけるような瞳で。
「……自覚が足りないのは、貴方じゃありませんか」
「え?」
どう言うことだろう。
そんな僕の内心を読み取って、梓はますます眉を吊り上げる。
「……昨日あれだけの思いをしておいて今日ミカエルも連れずに出掛けて行った――と聞いた時は目眩がしましたけれど、どうやら本気で解かっていないようですね」
怒気を孕んで立ち上がる。
床を踏み抜きそうな足取りで、僕に二歩詰め寄ってきた。
元が狭い場所だ。彼女はあっという間に僕の目前に迫る。小さな顔に胸の前から睨まれて、思わず仰け反った。
「ちょ、梓?」
「……聞きなさい。今は有り体に言えば戦時下なんです。貴方は私たちが此処に来るまでに殺されていてもおかしくなかった」
「そんな――」
「……大袈裟だと? 昨日、実際に貴方は唐突に死にかけたと言うのに?」
「――っ!?」
息が詰まった。
そうじゃないか。僕は、昨日、確かに。
「……貴方はまだ日常にいる。躯は非日常に在りながら、顔だけを日常の安寧に突き出して此方を見ていない。……――死にますよ? そんな目隠しをしていたら」
呆然とする僕に冷たい目線を残して、梓は再びしゃなりと正座に戻った。
彼女の言葉を反芻する。
……いや、反芻するまでもないな。
「ごめん」
間違っていたのは僕だ。
「軽率な行動だった。気をつけます」
「……ふん」
梓は鼻をならしてそっぽを向いたけれど、一応許してくれたようだった。
思えば当たり前のことだった。
昨日の今日なのだ。登校中に悪魔の契約者と遭遇したって決しておかしくはない。それなのに僕は何の警戒もせず、挙句の果てには無関係の奈月を連れて歩いていた。
僕は彼女までも危険に晒していたのだ。
いつもの日常を、生きていた。
――スイッチを、切り換えなければならない。
今更ながら理解した。
これから先、代理戦争が終わるまで、僕は一度たりともスイッチをOFFにしてはいけないのだ。
いつだって傍らに剣を。
いつだって傍らに剣を。
心で唱える。
深呼吸を一つ、首を左右に振って、道場に入る時のように気を引き締めた。