一日目 (3) 授業
昼になった。
太陽は真上に上り、冷えた空気を黙々と暖める。
カツカツとチョークを黒板に叩き付ける音だけが、教室に響いていた。
「では問い五の問題ですが、ここで少年は母親の頬にこびり付いた磯の塩に『なんとも言えぬ思い』を感じています。これは前述した問い四の解説で説明した通り、悲しみであると推察されます。それを踏まえれば選択肢一と二は明確に間違い、三は『怒り』と言う言葉が用いているところが違います。では残るは四と五ですが――」
教室がこんなにも緊張感漂う静寂に満ちているのは、ひとえに教鞭を振るっている国語教師の菊田直子先生が理由だ。
後頭部に結い上げた髪と怜悧に映る縁無し眼鏡、年中いつでもきっちりとスーツを着こなしている菊田先生は、現代に順応したスパルタ方針の教師として生徒たちから疎まれ恐れられていた。
昔のように暴力に訴える教育は今の世の中することは出来ない。しかし彼女は、その場では何もせず飲み込んでおいて、後々成績に対して反映させる。そもそもそれが普通の教育なのだが、その反映のさせ方が実に如実で容赦ない為、先生は怖くなくとも留年・受験が恐ろしいと、多くの生徒が菊田先生の授業だけは静かに受ける。自由な校風(と言う名目のやりたい放題)が目立つこの学園で、これほど静かな授業が出来るのは菊田先生だけだった。
「最後の問題は特に解説はいらないでしょう。今までの問題の総まとめになりますから。では誰かに答えてもらいます」
その時、ちょうど終了のチャイムが鳴った。
解答を求められる直前だった生徒たちは一様に胸を撫で下ろし、空気は列挙して弛緩する。
菊田先生はほんの僅か眉を顰め、
「……仕方ありません。この問題の答えは次回に、」
「ふわああああ―……よく寝た腹減った」
どっかの莫迦が、莫迦な声を、莫迦なタイミングで上げた。
「さあメシメシ、忍は今日は学食か? それとも購買でパンか? 俺はどっちでもいいからくっついてくぞ」
窓際の一番後ろから一個前の席、つまり僕の席のすぐ前で授業中器用に背筋を伸ばしたまま眠り続けていた悠は、条件反射のようにチャイムで覚醒して、そして空気を読めなかった。
「ん? ちょっと無視すんなよ。おい忍」
……莫迦、僕を巻き込まないでくれ。
「どうしたんだよ、忍。おい、おい、おーい! って……アレ?」
そこでようやく教室の静けさに気がついたのか、悠はゆっくりと振り返って教室全体を見回す。
これからの悲劇を予想して笑いを噛み殺している生徒たちと、腕を組んで自分を見つめている菊田先生を見て、悠は遅過ぎる理解を示した。
「あ、あーっ! え、えっと、あの、……寝てないっスよ?」
えええ。今更そんな誤魔化しは無理だろう?
見かけには解からないけれど、菊田先生の怒りは加速度的ではなく一瞬で頂点を振り切ったようだ。
「そうですか。では今の最後の問題を利根川君に答えてもらいましょう。授業をきちんと聞いていた利根川君ならば、簡単なことでしょう?」
「……え?」
硬直する悠。それもそうだろう。だって、悠は問題集すらも開いていないんだから。菊田先生だって解かっている。だから、これはきっとある種の制裁なのだ。
菊田先生は決して理不尽に厳しい先生ではない、と僕は思っている。理念と規則を第一に、正当性を持った厳しさで教育に望んでいる立派な教師だ。だから今回も、求めていたのは悠の真摯な謝罪の言葉だったのだろう。
それなのに。
「え、えっと……ええっとあれどこだくそっ」
コイツはいつも空気を読めない。
アタフタと問題集を開いた悠は、黒板に書いてあった問題から自分が聞かれている問いを見つけたようだ。しかし、矢張り解からなかったのだろう。慌てた末に、なんと悠は僕の方を振り向いた。
……教えろってこと?
当然、沈黙を貫く。これは謝罪を求めている菊田先生の教育なのだ。邪魔するわけにはいかない。て言うか、この状況で教えられるわけがないのに。
悠はそんな僕を泣きそうな眼で見た後、仕方なく問題集を眼の前に掲げて向かい合った。
――ここからの悠の心情は、背中しか見えていない僕でも手に取るように解かるほど、解かり易い動き方をした。
長い問題文に悲愴を浮かべ、選択問題と言う僥倖に喜色ばみ、それでも五択もあるのかと絶望し、ええいままよ当たってくれと的外れな強い決意をして答えを口に――
「先生」
しようとして阻まれた。
教室の前の方で、立ち上がった男子生徒に。
「もう終業の時間を過ぎているのですみませんが終わらせてもらえませんか? 寝ていた彼に注意をするのなら、授業の後に呼び出してじっくりとやってください。僕たちまで拘束する必要はないでしょう?」
「ねえ、みんな」と彼は生徒たちを煽る。悠を面白がりながらも、昼前で空腹に耐えていた生徒たちはその言葉に一斉に盛り上がった。
そうだそうだ。
やめろやめろ。
そうだそうだ。
控え目ながらも明確なシュプレヒコール。広がって行く喧噪。
先生は表情を変えず、それを見つめて。
やがて、持っていた問題集と教科書を閉じて重ね、タン、と教壇で叩いて揃えた。その音に生徒たちはまた静まりかえる。
「……それでは今日の授業は終わります。利根川君は次週までに答えを考えて来るように」
そう言うと、菊田先生は特に勢い込むわけでもなく淡々と歩を進めて、教室を出て行った。
何の余計な感情も滲ませない、見事な去り際だと思った。
ざわざわと、一気に教室に喧噪が戻る。
結局立ちっ放しだった悠はどかっと席に座ると、何だか難しい顔をしてこちらを振り向いた。噛み切れないものでも噛んでいるかのように不満そうに口を動かして、しかし言葉は出てこない。
「良かったね。次回に持ち越しになって」
「…………」
「どうしたの? 珍しい表情をして」
そう尋ねると、悠は小さく舌打ちをして教室の真ん中へ目線をやった。
僕も同じようにそちらを見る。
そこにはクラスの半分ほどが集まった人だかりが出来ていた。
「すごいね準也クン! あの菊田に文句言うなんて」
「ホントホント。俺もう腹減っててさぁ」
「見たぁ? あの菊田の顔。きゃははははは!」
湧き上がる一同。
その輪の中心。
「そんな、大したことじゃないよ」
派手な容姿をした男――篠原準也は笑った。
茶色に染めた長髪に切れ長の眼、崩して着た制服と程よく身に付けたシルバーアクセサリーは彼に良く似合っていた。
男は微笑みながら続ける。
「みんなが困っているのを見過ごせなかっただけさ。俺は菊田の恨みを買ったかもしれないけれど、そんな些細なことに比べれば」
一同は歓声と拍手を以って男を讃える。
その様子を、悠は吐き捨てるように罵倒した。
「なーにが、だけサ♪ だ。菊田をとっちめて目立ちたかっただけで、そんな殊勝なこと一ミリも考えてねぇくせに」
「そうなの?」
「決まってんだろ。篠原はそう言う奴だよ」悠の断言する。「大体菊田の恨み買ったからってあいつにとっちゃどうってことねえんだよ。知ってっか? あいつの親はこの街にある有名なロボット工学系の会社の社長なんだぜ?」
言われて思い返してみたが、篠原の名前も会社の名前も場所だって出てこなかった。知らない僕がダメなのか、知ってる悠が凄いのか。
「まあそんなだから地元への影響力も凄いんだ。その息子に、誰が文句言えるってんだ」
「へえ、そんな事情があるんだ。詳しいね悠」
「この程度は一般常識だし、アイツも隠してねえし、まあ、他にも否応なく、な」
そう言って悠は酷く嫌な顔をした。
あまり詳しくは聞けていないが、悠の父親も発展著しい一部上場企業の社長さんなんだそうだ。そう言ったしがらみを嫌い自由に生きる悠とは確執が絶えないらしいが、きっとそこら辺からの情報もあるのだろう。