二日目 (18) 赤い感情、風の空
僕の眼は死を目前に活発化して、スロウに変わる映像を余すことなく捉えている。
だから、気付いた。
真っ直ぐ落下していた小鳥遊の視線が、ふと彼方の空に逸れた。
怪訝な表情だ。何を見ている? ナニをミている?
瞬間、理解出来ない感情が沸騰した。
――許せない。
意識も視界も真っ赤に染まる。
僕を殺す直前に、よそ見だと?
――ふざけるな。
自分でも出所の解からない真っ赤な感情が、萎縮している血管を、細胞を、心臓を蹴っ飛ばした。
避けられるまでには回復しないけれど、聖剣を握る右手に力が戻る。良かった、僕の躯はまだ生を諦めていないようだ。
やってやる。鋼の横っ面を弾き飛ばしてやる。
小鳥遊はまだよそ見だ。見てろ。その顔を、すぐに驚愕に染めてやるから。
やることは突進してくる恐竜を捻じ曲げるようなものだ。
だから全身全霊。
すべて全身全霊。
水斧に向かって聖剣をぶつけに――、
「―――ッ!?」
それは僕と小鳥遊、どちらの驚愕だったか。
結果として水斧は軌道を曲げるどころか大きく弾き飛ばされて、小鳥遊は彼方の地面に着弾した。
けれど、僕は何もしていない。聖剣も地面を離れていない。ただ木偶のように地面に寝っ転がっていただけだ。
ようやく躯を起こして立ち上がる。
躯中が痛かった。細かい切り傷は最早痛くない。けれど、一撃を受け止めてしまった両腕が酷い。聖剣を持ち上げるのも辛い。
だがそれも、死ぬのに比べればなんてことはなかった。
『平気? シノブ』
「ああ大丈夫だ。だけど今のは……」
『ええ。なにかしら』
あの瞬間、僕は確かに見て聞いた。
水斧が何かとぶつかって弾けるように逸れた様を。そして甲高い衝突音を。
小鳥遊は深い四つん這いで道路に張り付いて、辺りを注意深く警戒している。あまりの前傾故に、ファー付きのフードが頭にすっぽりと被さっていた。まるで猫だ。孤独に慣れた黒猫が、自分以外の全てを睨み付けるかのよう。
小鳥遊が唐突に跳ねた。
「――くっ! ……なんだ?」
一瞬、防御体勢を取った僕だったけれど、すぐに必要のないものと解かり拍子抜けしてしまう。
小鳥遊は僕から距離を取るように後ろへ跳ねたのだ。
――あの肉食獣が何故?
僕の疑問は、直後より複雑になる。
――ガガガン、と鈍い三連音が鳴った。
見ると、先程まで小鳥遊が伏せていたアスファルトに、三つ、拳大ほどの円形の穴が穿たれていた。ぽっかりと開いた空洞は暗くて深い。精緻な円形はドリルで刳り抜いたかのようだ。
なんだ? 一体何が起きた?
その後も異変は続く。
小鳥遊は踊るように跳ねるように、羽を交えて縦横無尽のダンスを舞う。その後に続いて、アスファルトや建造物に例の拳大の穴が開いた。
僕はようやく解かった。
小鳥遊は避けているのだ。
僕には視えない何かを。
そしてその視えない何かが、拳大の穴を幾つも穿っているのだ。
僕がどうしたらいいか解からないまま戦況を見守っていると、小鳥遊が見事な宙返りで地面に着地して、そして僕の頭の上、南の空を睨んだ。あの、肉食獣の笑みで。まるで僕越しに誰かと眼を合わせるように。
「ハ。どこのどいつだか知らねえが、その殺意気に入ったぜ!」
水斧を横に振りかぶる。
その時、僕は初めて後ろから高速で迫る何かの存在を感じた。キィィンと鳴る甲高い音と、強い風圧。思わず振り向いた僕とすれ違うように、そのナニカはあっという間に小鳥遊へと至った。
「破壊ッ!」
振り回した水斧が暴風を巻き起こす。
圧でナニカが弾け飛ぶのを、僕ははっきりと視た。
小鳥遊は仁王立ちで攻撃に臨む。
「さあ出て来いよ! その攻撃は俺にゃ通用しねえ。お前とならもっと楽しい戦いが出来る。もっともっと、肉と骨がぶつかって死に沈む戦いをしようぜ!」
高らかに叫ぶ小鳥遊、しかし夜は静寂を保って答えない。
「どうした、出て来い! 俺の渇きを癒してくれよ! ……あ? なんだレビヤタン。今やっと楽しくなってきたんだ。邪魔すんじゃねえ。……だからうるせえって言ってんだろ! 黙りやがれ!」
誰かへと呼びかけていた小鳥遊は、突然視線を落として苛々と怒鳴り始めた。どうやらピアスの宝玉の中のレビヤタンと会話をしているようだ。和やかな雰囲気ではない。
「うるせえ。うるせえんだよ。その戯けた口を閉じろレビヤタン。二人だろうが三人だろうが関係ねえだろ。俺は強え奴と存分に戦えるっつうからお前と契約したんだ。不履行は認めねえぞ」
小鳥遊の耳の宝石がうわんうわんと蒼い輝きを放つ。
しかめっ面でその光を睨み付けていた小鳥遊は暫くそのままだったが、程なくして、大きく息を吐いた。
「……くそったれ。解あったよ。まだまだ戦争は始まったばかり。大一番の晴れ舞台まで、お前の顔を立てといてやるさ」
ばさりと黒い羽で羽ばたいて浮かび上がる。
小鳥遊はこちらを見下ろして言った。
「今夜はこれでお終いだとよ。俺は全くもって不本意なんだが、まあ少しくらいは相棒の悪魔サマの顔を立ててやらねえとな」
「…………」
「と、は、言、え。こんな一方的な通告じゃお前もスッキリしねえだろ?」
『主――』
「うるせえ黙ってろ」
諌めようとしたレビヤタンの言葉を遮る。
「だからお前が続きをやりたいってんなら構わんぜ。散々逃げる奴を罵って殺してきた俺にゃ断る権利がねえからな、しゃあなしで付き合ってやんよ。どうだ?」
「…………」
『シノブ……』
僕は何も答えない。答えられない。
戦いなんて真っぴらだ。それが僕の本心のはず。
けれど何と答えればいいのかも、何と答えたいのかも、何で答えられないのかも、何も解からなかった。
僕は何も答えない。
「けっ。なんてな」
小鳥遊はそんな僕の気持ちを見透かしていたかのように、つまらなげに呟いた。いや、実際に見透かしていたのだろう。僕自身でもよく解からない感情を、たぶん僕よりも正確に。何故かそんな気がした。
「よっと」
水斧を消して、より一層高くへと飛び上がる。
少しずつ、小鳥遊は昏い夜に溶けて行く。
姿が消える直前に言葉が聞こえた。
「――次に俺と逢うまでに俺を殺しておけ。何度も何度も殺しておけ。頭の中で殺しておけ。寝ると同じに殺しておけ。食べると同じに殺しておけ。そうしてやっと、お前は狩人になれる――」
精々気張れよ、草食動物。
その言葉は夜空に反響して、僕の耳朶を嫌らしく叩いた。