二日目 (15) 激昂
………………。
…………。
……。
……あれ?
「おかしいな。来ないぞ」
『上!』
はっと自分のいる空の、さらに上空を見上げた。
暗い夜空よりなお昏い、獣のシルエットが――。
僕は僅かな羽ばたきでバックジャンプ。その数瞬後、明け渡した場所を唐竹割りのごとく振り下ろされた水斧の暴力が薙いだ。すぱっと空気が割れた、と言うよりも、空気に大穴が開いたように見えた。
「チィッ! ちょこまかとちょこざい!」
急降下してきた小鳥遊はまるで四つ足で踏ん張ったかのように空に着地する。
両眼を吊り上げて歯を剥いて、口から熱い息を吹き出す小鳥遊。躯中と精神が燃え滾っているようだ。
――戦闘狂、と言う言葉が自然と頭をよぎった。
「こんにゃろう!」
小鳥遊は再び一直線で突っ込んでくる。
「さっさとォ! 喰らってェ! 殺されろォ!」
乱暴な叫びと共に、水斧が右に左に無造作に振り回される。その一撃一撃全てが死に至る威力だけれど……。
難しいどころではないが、出来る限り直近の死の緊張を忘れて、眼の前の攻撃を視ることに集中する。
随所の動作を見るに、小鳥遊には矢張り何らかの武術の心得があるのだろう。それも少年にも関わらず僕なんかより遥かに円熟したものが。プラス、あれだけの鋼の巨塊を振り回すパワーがある。通常であれば太刀打ち出来るわけがない。
しかし、小鳥遊は熱くなりすぎていて、攻撃の一つ一つが相当大振りになっていた。ちゃんと視ることが出来れば――恐怖で躯を固めることがなければ――避けることが出来る!
今まだ僕が生きていることが証明だ。
……――ただ一つ気がかりがあるとすれば。考え抜いた作戦も磨き上げた武術もへったくれもない、ただ躍動する恒星のようなあの姿こそが――まるで彼の本来の姿のように見えるところだ。
「おらァ! おらァ! おうりゃあァ!」
「ふっ、はっ、――っ!」
かわす。かわす。かわす。
振り被る方向を良く視て、そこから軌道を先読みして回避する。時折スレスレを掠めて行く刃に躯中から汗が噴き出すけれど、脳内は死の恐怖が積み重なり過ぎて既に飽和状態だった。それ自体は都合が良い。
暫くはそのまま、麻痺していてくれ。
躯は反射で動かそう。
繰り出される水斧の、その向こうの小鳥遊の、更にその左耳を僕の眼は追う。耳にかかる茶色の髪が靡いて、チラチラと強い蒼の輝きが点滅して視えた。
あれを壊さなければならない。
あれだけを壊さなければならない。
数百キロの重量を持つ台風に突っ込んで。
あの小さい標的を壊さなければならない。
…………ってどうやってだよ!?
『わっ。シノブどうしたの?』
「とりあえず逃げる!」
小鳥遊に背を向けてグライダーよろしく滑空飛行、全力で逃走する。地上から五メートル程の高さをキープして、工場街を右に左に飛び抜けた。髪が靡いて、冬の寒い風圧が痛い。人に見られたら僕は天使扱いだろうか。それとも変わった鳥扱いだろうか。
僕は風に負けないように大声で叫ぶ。
「こんな大きい武器でピアスだけ斬るなんて無理だよ!」
『でも……、“誓約の器”は聖剣じゃなきゃ斬れないわ』
小鳥遊は僕を信念で殺す。
僕は小鳥遊を信念で殺せない。
それ自体は悔いても恥じてもいないけれど……これが「殺す覚悟」を持つ者と持たざる者との差の一端か。
「待ちやがれこんにゃろうっ!」
大声で響いた怒声に、僕は速度を保ったまま、首だけで後ろを確認する。バトルマニアとしては逃げると言うのが許せないのだろう。小鳥遊は先程よりも一層怒り狂った表情で、同じように羽を広げて追って来ていた。
小鳥遊は徐々に僕との差を詰めながら、追いついた瞬間に喰ってやろうと右手で横に目一杯水斧を振りかぶっている。
より強い力の籠められたそれは、一撃で真っ二つにされるどころか粉砕されそうな気がした。
――その瞬間、僕に、恐怖と、そして戦術が舞い降りる。
さっきより力の籠められた水斧。
見るからに苛立っている小鳥遊。
威力の上がっている分、軌道は一層単純で――。
「ッ!」
僕は躯を起こして、風と羽の力で急制動をかけた。そのまま宙返り一回捻りをうって、後ろを振り返る形で空に停止する。
『シノブ!?』
剣を躯の前で構える。
雑念から意識を閉じる。
集中。
集中するんだ。
視界を狭く、塞いで、研ぎ澄ませ。
飛んでくる小鳥遊と眼が合った。
ぞわりと、彼の獣性が爆発的に高まった。
『ダメよシノブ、逃げて!』
「ハハハハハッ! いい度胸だ死ねエ!」
獣が速度を殺しながら目前に迫って。
射程距離に収まったところで、放たれる水斧。
小鳥遊の右からの、横薙ぎ。
軌道は解かっていた。水斧のリーチも解かっていた。
後は度胸と正確さ。
迫る水斧。
やってやるさ。
僕は受け止めるように見せかけていた剣を下げて、後ろへ上半身を逸らした。腹筋に力が籠もる。
そうして空けた数十センチのスペース。
そこを、水斧は通り抜けた。
目前を通り過ぎた水斧は圧倒的な風圧を僕に浴びせて、弛んだ制服の一部も切り裂いて行った。
けれど、かわした!
「お、おわっ!」
今まで超重量の水斧をコントロールしていた小鳥遊だったけれど、この時ばかりは遠心力に振り回されるように体勢を崩した。
その姿を視た瞬間に、僕の中のスイッチがオールグリーンに切り換わる。
躯を跳ね起こして、西洋剣を振り被った。
小鳥遊は右脇腹から背中の辺りを無防備にこちらに晒している。フードのファーと肩越しに小鳥遊と眼が合う。驚いているのだろうか? 口元が見えないから判断がつかない。
構うな。今しかない。
「ふッ――」
この隙を見逃さず、僕は蒼い光を目掛けて剣を抜き放って――、
「……え?」
人形のような小鳥遊。大きく晒されて隙だらけの右半身。和毛の襟足。暗いカーキ色のジャケット。白いファー。ジャラジャラと鳴るウォレットチェーン。
蒼い光。蒼い光。蒼い光はどこに?
――ダメだ!
聖剣を抜き放つ直前で押し止めた。
間髪入れずに大きく距離を取る。
「くそっ」
攻撃は失敗だ。
大きなチャンスを逃してしまった。死の存在を垣間見てまで得た機会だったと言うのに。しかし、あの体勢では左耳のピアスは見えなかった。……残念だが、仕方がない。そう思わなければならない。気落ちしてしまわないように、再び深呼吸で気を張った。
「…………?」
『なんなの?』
けれど、すぐに訝しむ。
小鳥遊が、中途半端に背を向けた状態から動かない。しかもまるでマリオネットのように無防備に、全身を脱力していた。
獣らしからぬ。
まるで獣らしからぬ。
今まで渦を巻くように小鳥遊の周囲を沈滞していた暴力の気配が、すっかり消え失せてしまっていた。終始感じていたプレッシャーから解き放たれて、けれど何故か一層の緊張感が僕の心を包む。
そう、予感させる。
海の汐のようなものだ。
引いて行った海は、必然、満ちるために帰って来る――。
「なんでだ」
俯いて、振り返る小鳥遊。
儚い小さな声。
ああ、これも汐。
ユラユラと揺れる汐。
最初が儚いならば。
「なんで武器を止めやがったクソッタレがァッ!」
次に来るのは魂だ
「致命傷を負うはずの隙だったぜ。だからギリギリ戦闘不能にならねえための回避を試みた。斬られた瞬間、そのまま斬り返して殺してやろうと思った。そんなヒリヒリした戦闘……てめえは、その全てを、ゴミにした」
「…………」
眼を剥いて、歯を剥いて、小鳥遊は憎しみをぶつける。
――実は、この時点で、ミカエルは指輪を通じて僕の心に、何度も何度も呼びかけていたらしい。
『今すぐ、逃げなさい』
その言葉を、何度も何度も。
けれど眼の前の獣に呑まれてしまった僕は、それを固まった心で聞き逃してしまっていた。
逃して、しまっていた。