二日目 (14) 覚悟
『“誓約の器”は、エデンの東の樹木で長い時間をかけて創りだす神の宝物。地獄においても煉獄の窯で魂魄を醸成して生みだされる魔の産物。その有り余るパワーと気質は天使悪魔でも持て余すほどよ。だから御しきるために、ひとりひとつしか持っていないのよ。絶対に、ひとりに、ひとつ。
だから不可逆不可侵の契約を結んだ者を殺されれば、新しい“誓約の器”を持ってこなければあらためて誰かと契約を結びなおすことはできない。そして、この地に渡ることが可能な月齢はもう崩れている。一度帰れば、それはこの戦いからの離脱を意味するの。
天使や悪魔は独りで地上に居座ることはできない。人間との繋がりのなくなった『架空種』は異物として世界の理に追いだされてしまうから。……つまり、契約者さえ殺せば、この戦いが終わるどころか一人の悪魔が退場する。万事解決なのよ』
「…………」
夜が、また静寂を取り戻してきた。
小鳥遊は、まだ、出てこない。
『解かってる。解かってるわシノブ』
「……なにが?」
『貴方には、殺せない』
僕はまだ何も言っていない、どころか何も考えていないかもしれないのに。
ミカエルはそんなことを断言する。
『貴方の理想は優しすぎる。貴方は戦うことなんて出来ない。それどころか、いきなり「殺す覚悟」を持て、なんて出来るはずがないわ。出来たと思ってもそれは勘違い。真実じゃない。だから逃げるのよ。「殺す覚悟」を持っている人間に、「殺す覚悟」を持っていない人間は太刀打ち出来ないわ』
それは実力以前、前提の話よ。
結ばれた。
ミカエルの言葉は、僕の心の底で、何度かバウンドした。かーんかーん、と空しい音を立てて、何度もバウンドした。
少し違った。
ミカエルは僕に「殺す覚悟」を持つことなんて出来ない、と言ったけれど、それは少し違った。
僕には想像が出来ないだけだ。自分が、悪意を持って、誰かを殺すと言う姿を。
それはあの空に昇る月の孤独を知ろうとする行為に似ていた。
「……まあ、結論は一緒か」
なんにせよ、僕に「殺す覚悟」は出来ないと言うことだ。そしてそれが招く結果も概ねミカエルの言う通りだろう。
意識し認識した上での「殺す覚悟」は、その難しさ故に、得た時には圧倒的な力を発揮する。一振り一振りに籠もる意志が違うのだ。僕は白禅師匠で学んだ。
生半可では勝てない。戦えない。
けれど。
「僕は逃げないよ」
『どうして!?』
ミカエルの声は思いの外大きくて、僕は驚いた。
心配と、焦りでだろうか。
それが僕の胸を打った。
「ここで僕が小鳥遊を止めないと、彼は他の人に手を出すかもしれない。そうすればその人が救えない。もし反撃にあって小鳥遊が傷つけば、今度は小鳥遊が救えない」
『え―――』
「僕は困っているひとをたすける。僕の手が届くのなら、太陽だって救うんだよ」
それが僕の在りかた。
心に刺さる理想の楔。
『そんな……そんなのってない』
「もちろん君もだよミカエル」
『え?』
「小鳥遊を止めて、君の願いを叶えなきゃ」
それが彼女との約束のはずだ。
だから僕としては当たり前のその言葉だったのだが、ミカエルは何故か息を呑んで、そして黙り込んでしまった。長い沈黙に、どうしたのかと指輪に眼を落とす。
「ミカエル?」
『…………』
「ねえ、どうした――」
『……――もう我慢できないわ!』
「うわっ」
急にぴかぴかと強い光を発する指輪。
続いて、ミカエルの怒った声が頭の中でがんがん響いた。
『なにが「困っているひとをたすける』よ。いちばん困ったちゃんなのはシノブじゃない! 赤の他人どころか敵まで心配しちゃってさ。言わせてもらうけどね、そんな理想を理想だって解かっててなお信じているなんて、破滅的もいいとこよ。……理想は自分を強くするけれど、けっして救ってはくれないんだから!』
「お、落ち着いてミカエル」
『うるさい!』
僕の制止も通じず、ミカエルは言葉を吐き続ける。
シノブは人を信じすぎだとか、私は天使だなんて言うやつがいたらもっと疑いなさいだとか。
それを君が言うの? と言葉を挟む隙間を探しながら彼女の話を聞いていて、
「―――ッ」
指輪を手で包みこんで光と話を遮った。
『わ! ちょっとなにするのよ』
「ごめんミカエル。話はあとで。……来るよ」
ゆっくりと治まって来ている埃の表面が、ゆらりと渦を巻くように揺らぐ。
僕が注視しながら剣を構え直した、その瞬間、漂う埃を台風の眼のように吹き飛ばして、小鳥遊は飛び出してきた。
「ハハハハハハハハハハハハッ!」
手には巨大な鋼鉄の月。
背には漆黒な一対の羽。
ジャケットの背を破って突き出していた。
悪魔の羽は黒いのか。そんなことを頭の片隅で思いながら、思考を研ぎ澄ましていく。
小鳥遊はミサイルのような前傾姿勢のまま、水斧が横に思いっきり振りかぶられる。
接近、そしてお互いの間合いに入る。射程距離だ。武器の長さは向こうのが上だけれど、腕の長さも含めてリーチには不利と言えるほどの差はない。そもそも、もしかしたらあの武器にはリーチは関係ないのかもしれない。
小鳥遊の攻撃の選択肢は――横薙ぎほぼ一択。
オレの選択肢は、攻撃か防御か回避か。
……一つだけ確かめたいことがあった。
腕の筋肉を固める。
「死ねやぶっ飛べ!」
予想通りの軌道で迫る水斧を、僕は聖剣で受け止めた。
鋼がぶつかる。
左手で柄を握り、右手で刀身を支える。足が地面を噛めない代わりに背中六翼全てを全力ではためかせて、対抗の推進力を稼ぐ。躯各所の筋肉が盛り上がり、骨と骨の強度と結合を高める。
しかして、僕は僕を振り絞った。
けれど、
「ぐううっ!」
彼には遠く及ばなかった。
加速度を増した水斧とそれを受け止めた聖剣は一瞬均衡を保ったものの、圧の差は歴然だった。
勿論、僕の負け。
指先から手首を通して上腕まで、衝撃を受けた全ての骨が軋む。やわな筋肉が断裂する音がする。
「おっしゃあっ!」
「うわああああ!」
小鳥遊はホームランをかっ飛ばしたスラッガーのように水斧をストローク。
僕は空を飛ばされてしまった。
「くっ!」
『大丈夫!?』
ぐるぐると回る視界。やはりまだ慣れなくて難しいけれど、羽で上手に前後を取り戻す。ただし留まることはせずに空を飛ばされ続ける。少し離れて考える時間が欲しいからだ。
確かめたかったのは、僕が彼の攻撃を受け止めることが出来るのかどうか。戦術の幅に大いに影響するから。
これで解かった。不可能だ。
僕は彼の攻撃を受け止めることは出来ない。
もしも力の逃がせない地面であの攻撃を受けてしまったらただじゃすまないだろう。
……大丈夫。それならそれで、やりようがある。
『シノブ、“誓約の器”をねらって』
急にミカエルがそう言った。
「え?」
『さっきも言った通り“誓約の器”は貴重なもの。替えのきかないもの。だからあれを壊しても悪魔は戦えなくなって、戦いは終わるわ。契約者の最大の弱点なの。的は小さいけどね』
「なるほど……」
確か小鳥遊の左耳に輝いていた蒼いピアス、あれが“誓約の器”だったはずだ。
『でもひとつだけ約束。逃げるチャンスがあったら絶対に逃げて。相手は、枷だらけのシノブが勝てる相手じゃない』
「解かった。……ごめんね。ありがとう」
『まったく!』
ぷいっとそっぽ向くミカエルの姿が見えた気がした。
「よし!」
ばっさばっさと羽をはためかせて空中で停止する。
相手は小鳥遊真人!
標的は“誓約の器”!
目標はどっちも無傷!
理想を賭けて大勝負!
「どこからでもかかってこい!」