二日目 (11) 獣
今、彼は何と言ったか。
「……悪魔、だって?」
「嗚呼。オレは悪魔の契約者だ」
小鳥遊は左耳にかかっていた髪をかき上げる。その耳には、彼には不釣り合いな大きな青い宝石のピアスが付いていた。そしてまるで視線を感じたかのように、その宝石は青く強く輝いて脈動した。
「“誓約の宝玉”……!」
ミカエルの言葉に、僕も自分の左手に眼を落とす。
つまりこの指輪とあのピアスは同じものってことか? それはつまり――何を意味する?
「おっと。アンタも天使サマを晒してるんだから、オレも見せてやらねえと不公平だわな。おい。……嗚呼? ごちゃごちゃ言うなさっさと出てこい。さもねえと丸焼きにして尻から二つに裂いちまうぞ」
小鳥遊は誰かと言い争っていて、その言葉に合わせて宝石が青く輝いていた。やがてまるで小鳥遊の言葉に納得したのかのように、その脈動が消える。
と、同時に轟音が夜を叩いた。
薄いトタン屋根が激しく軋む。
そして、小鳥遊の背後に黒い山が現出した。
否、闇に眼が慣れてくれば。
それは山などではなかった。
夜空を埋め尽くす黒い影。黒い巨躯。二十メートル強の体躯を四足で尊大に見せつけ、深く裂けた口元からは一本でも人の頭を丸々削ぎ取りそうな牙がずらりと並んでいた。
ソレは竜。
漆黒のドラゴン。
幻想幻譚に生ける架空生物。
全身に密集する鋼の鱗はギチリギチリと触れ合って削り合って、屋根の淵を掴む爪は易々とトタンを貫いている。長い尾が蛇のようにゆらゆらと撓って夜空に影を刻んでいた。
「――――――」
足元が覚束なくてよろける。
言葉が出ない。
呼吸も儘ならない。
黒々とした巨躯の中で唯一爛々と光を反射する両眼。冬空に白い靄を描く強烈な息吹。
その全てが、何よりも解かり易い畏怖の象徴だった。
「レビヤタン!」
ミカエルの驚愕の叫びが聞こえる。
だが僕の方がもっと驚いている。僕はミカエルに縋るように説明を求める。
「な、なんなの。なんなのアレはっ!?」
「……あれは竜種の中の地竜。レビヤタン。まぎれもない悪魔よ」
「あ、悪魔!?」
――どうしてそんなものが?
僕は改めて小鳥遊とその悪魔レビヤタンを見上げる。
小鳥遊はレビヤタンの鋼の首に触れて、強烈に笑んだ。
「嗚呼、これがオレと契約した悪魔レビヤタンだ。そんなに喚くなって。デカイ蜥蜴みたいなもんさ。ほら喋れ」
ぺちぺちと鱗を叩く小鳥遊。
レビヤタンはむずがるように小さく身動ぎして、
『全く……戯れが過ぎようぞ主』
低い唸り声は何故か人語となって耳朶を叩いた。
『我は天竜が位階弐位、レビヤタン。最も今は“海軍大提督”レビヤタンと云う壱介の悪魔に過ぎないがの』
レビヤタンと言う竜は鋭い両眼を動かしてミカエルを見た。
『丗に誉髙い熾天使ミカエルと見えるとは。光栄であるな』
「ふん。竜種にして初めて悪魔入りした話題の新鋭悪魔が、白々しい。竜種にとってわたしは天敵のはずだけど?」
『天敵であり、尊敬に値する強者と云う亊だ。竜種は誰であろうと力を認める種族なのでな』
「あら怖い」
おどけた風を装っているけれど、ミカエルの表情は硬かった。
彼女のこんなに真剣で強張った表情を見たのは何度目だろう。最初に見た時の彼女には冷徹な美しさがあった。過去の回想を視る彼女には清廉な憂いがあった。けれど、強張っている表情と言うのは初めてかもしれない。
――そして、あまり見たくないと思った。
惹かれるように、僕はミカエルの手を取っていた。僕が彼女に縋りたかったのか、彼女を少しでも楽にしたかったのか、どっちなのかは解からないけれど。
ミカエルは驚いた表情で一瞬こちらを見た後、少しだけ微笑んでくれた。
それだけで不安がなくなってしまったのが、少し恥ずかしい。
僕とミカエルは揃って彼らに向き直った。
「わたしは“神の御前の姫君”ミカエル。そして彼はわたしと誓約を結んだ人間、藤川忍。それで悪魔さん御一行がわたしたちになんの御用?」
「おいおいおい。つまんねえ冗談。今さらそんな鈍ら刀はカンベンしてくれよ。やることなんてハナから決まってんじゃねえか。天悪双方の契約者が出逢ったなら、瞬間、戦って殺し合うしかないだろ?」
「…………」
――は?
疑問が顔に出ていたのだろう。
小鳥遊は僕よりもぽかんとした表情を浮かべた。
「え? い、いやいやいや。え? まさかマジで大マジでなんも知らねえの? いやいやいや。そんなバカな。ええー? 引くわー」
君に言われたくない。
殺すだのなんだの言われる方が引くわ。
「ちょっと待っててレビヤタンの契約者。わたしが説明する」
と、ミカエルが振り返った。
竜たちから眼を離していいのだろうか。危なくないのだろうか。
「それで待っててくれるの?」
「あ、あの、貴方の真似よ?」
「僕はそんな危ないことしない」
「えー」
ごほん、と一つ咳払い。
「さっき説明した月齢や星の並びは、天界だけじゃなくて理の似ている地獄にも影響しているの。天界が地上に五人天使を送れたように、地獄も五人悪魔を送ってきているのよ。反応の消えたサタンを求めてね」
「それでも別に戦う必要はないんじゃ……?」
「うん。そうかもしれないんだけどね」
ミカエルは口ごもる。
「例えば……いざサタンを見つけた時にどうせ争いになるからとか、先に見つけられて再封印でもされたら堪らないからとか、いろいろ理由はあるんだけど。そもそも、さっき話したみたいに天使と悪魔には因縁があるから、あまり理由とか関係ないのよ」
「そんな!?」
それじゃあ、まさか。
鼓膜。
震える。
雷が落ちたかのような音がした。
「「―――ッ!?」」
身を竦ませて、ミカエルと僕は振り返る。
視線の先、工場のトタンの屋根は剥がれ落ち、壁はひん曲がって罅が入り、全体が斜めに傾いてしまっていた。やったのは竜、レビヤタンだろう。しかし、やらせたのは――、
「……俺はいつまでもおあずけ聞いとくほど躾のなった獣じゃねえぞ」
強く踏み出した右足はレビヤタンとシンクロするようにトタン屋根を踏み曲げている。
宵闇に、二対の双眸が輝いて。
「戦え。今すぐに」
「ちょ――」
あ。
ああ。
解かっちゃった。
無理だ、って。
話なんて通じない、って。
一瞬で解かってしまった。
小鳥遊と視線が合った時。
肉食獣の眼に射られた時。
人間の僕では、獣である彼と話し合いなんて出来っこないって。
詰まるところ、僕らの間に許されるコミュニケーションなんて最初から一つしかなかったんだ。
狩るか狩られるか。
喰うか喰われるか。
そう言う自然界不文律の掟しか。
……人と、獣。
深呼吸、首を左右に振る。
そうと理解した瞬間に、僕の中の意図的に作り出したスイッチが切り換わった。OFFからONへ。ONからOFFへ。眼の前の暴力に備えて、思考と躯が研がれていく。
僕の日々の鍛錬は、このスイッチの素早い切り替えのためにあったと言っても過言ではない。さっきまでグダグダ言っていた僕を無理やりに心の奥へ押し込める。泣きだしそうな心を縛りつけてその辺に捨てて置く。
眼を開いて、眼を瞑るんだ。
いかに自らの身を守るか。いかにこの獣を捕らえるか。それだけに専心しろ。
「ようやくやる気になってくれたか」
小鳥遊はこれでもかってくらいとびっきりの笑みを浮かべた。
右手をゆっくりと真横に伸ばす。少年大で小さかった筈の影が、巨大に揺らぐような錯覚を見る。
――間違いない。明らかに彼の力は強大だ。静かな伊織先輩とは種類が違い過ぎて比べられないけれど、少なくとも僕よりは強い。子どもと思って油断したら、いや油断しなくても危ない。
そう言う前提でもって、より気持ちを引き締めた。
戦いに専心する。専心する。専心する。
……しかし――、考えないようにしても考えてしまうのは、こんな幼い少年がどうしてこんな力と在り方を持っているのか、と言うことだった。
「レビヤタン」
『応』
ふ、っとレビヤタンの巨躯が消えて、夜空を背負った小鳥遊の右手は月を掴んでいるように見えた。左耳の青い宝石がぼんやりと暗闇を照らす。
解かる。皮膚感覚で感じる。眼の前の死が高まっていく。
小鳥遊の口が、短く小さなフレーズを、紡いだ。
「水斧」
音も無く。
しかして、ソレは顕現した。
伸ばした右手の先に顕れた、長く細い棒のようなシルエット。その手を頭上に掲げる内にそれはゆっくりと回転して、頂点に掲げ切った時、そのシルエットは本当の姿を顕した。
それは二つ目の三日月。
遥か遠くの宇宙空間で孤高に浮かぶ三日月と似た、けれど性質の全く異なる鋼の塊。
小鳥遊の身長よりも遥かに大きな斧だった。
両手持ちの柄の片側には巨大な三日月型の刃が、逆側にはそれと相似形の小さな刃が付いている。柄は白く滑らかで、石突きから先端にかけて幾何学的な薄い水色の脈動が見えた。
意思に関係なく、唇が小さく震えた。
相手の年齢がどうだ、なんて悩む気持ちすら一切死んだ。
全身に強烈な寒気と恐怖が奔る。
あれはいけない。
あれは危ない。
なんて重量感。なんて分厚い刃。なんて凶暴さ。触れたら斬れる前に圧し潰されてしまうんじゃないだろうか。それほどの脅威をあの武器に覚える。
「いけないっ、シノブ逃げるわよ!」
その危うさをしっかり感じ取ったのだろう、ミカエルが僕の手を掴んで元来た方へと逃げようとする。
けれど、僕は力を籠めて逆に彼女を押し留めた。
慌てた様子でミカエルが振り返る。
「どうしたの!? いそがないと危ないわ」
「無理だよ」
僕は小さく首を振る。
「彼からは、もう逃げられない。今背中なんて向けたらただの餌になっちゃうよ」
僕は小鳥遊から決して眼を切らない。視線を合わせたまま、少しずつ慎重に後退った。
小鳥遊はまるで小川の水流のようにゆったりと水斧を動かしていた。頂点から、躯の前を通過して下へ降ろす。加速も加重も加えず、羽根のようなタッチでトタン屋根に刃を置いた。すると水斧は鋼の重さと重力だけで、バターのように易々とトタンを斬り裂いた。
まるで準備運動だ。跳びかかる直前のチーターのよう。
ミカエルも彼を見て、そして覚悟したようだ。握り合った手に、ぎゅっと力が籠もった。
「……全く、どうしてこんなことになるのよ」
彼女は不満げに唇を尖らせる。
僕は心の中で「それは僕のセリフだよ?」と無理やり苦笑しながら、この場を乗り切る方法を全力で考え始めた。