二日目 (9) サタン
「神は彼らを断罪する。神による裁きの場所をもうけて、まず首謀者であるルシフェルを裁くことになったんだけど――、その時に大問題がおきてね」
「それは?」
ミカエルは一度溜める。
記憶をなぞっている。
「……彼、ルシフェルの中に、彼とはまったく別の存在――“サタン”がひそんでいることが発覚したの」
「サタン……って、大魔王とかそんな奴だっけ?」
『サタン』と言うのはとても良く聞く名前で、けれど知識はその程度しかなかった。
ミカエルは首を横に振る。
「サタンが魔王だったり、ルシフェルの別名だったり、あるいは全悪魔を統率する階級名だったり、そういうふうに地上では広まっているみたいだけど、それは誤解。サタンは天使や魔王どころか、そもそも存在ですらない。本当のサタンは、零体であり悪霊、イビルスピリット、つまり『悪意』なのよ」
「――『悪意』?」
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。貴方たちが七つの大罪と呼ぶ罪の源。総じて『悪意』。サタンにとり憑かれてしまった苗床は、そういう負の感情を大きく大きく、自己処理できなくなるまでに育まれてしまう。そうすると脳で自動的に掛けてるリミッター、タガがはずれちゃって、自らを省みない凄まじい力を発揮する。いや、発揮させられるの。もちろん、『悪意』にもとづいてね」
『悪意』を育てる悪霊サタン。
いや、ミカエル曰く存在そのものが『悪意』だと言う。
形もなにも全然解からなくて、天使や悪魔のように簡単に想像は出来なかった。
「でも」
――それだけ?
僕はそう言う感想を覚えた。名前やバックボーンから感じるほどの脅威を感じなかったからだ。
言葉の続きが顔に出ていたらしい。
ミカエルは苦笑して口を開く。
「イメージしにくいか。そうよね。……例えば、人間だったら誰でも大きかれ小さかれ心に大罪、『悪意』、悪い気持ちを抱えてるでしょう? 本来は完璧な善性をもっていた天使も、人に触れる機会の多かった下位天使だけは人間の『悪意』に似た気持ちを、ほんの少しだけもってしまっていたの。サタンはそういう『悪意』から生まれて、『悪意』に惹かれる。
そしてとり憑かれてしまうと彼らの心の一部分だったはずの『悪意』がいっぱいに広がって、生き方、在り方のすべてと力の上限を変えてしまう。とり憑かれた存在が大きな力をもっていればもっているほど、たいへんな悲劇を生むわ」
強力な天使にサタンが寄生して、それで天界は滅びかけたんだから。
ミカエルはそう結んだ。
僕は考える。例えば僕がサタンにとり憑かれてしまったら、一体どうなるのだろうか。内なる感情が育まれて、猛るのだろうか。嘆くのだろうか。大それた悲劇を生むのだろうか。
『悪意』なんて、想像もつかなかった。
「それから?」
「反逆した天使はすべて神格を剥ぎ取られて堕天使となって、天界からたたき堕とされた。その辿りついた先が――地獄。彼ら堕天使はそこを住処として、悪魔になったわ」
「悪魔って天使だったの!?」
「うん、そうよ?」
初めて聞いた事実に眼を丸くする。
ミカエルは話を続ける。
「サタンにはまた特別の処置がとられた。すべての霊魂や魂魄は天界にやって来たあと、神から受肉――つまり再び肉体を与えられてまた地上へと還っていく、そう言う輪廻のシステムがあるんだけど、サタンは反逆への処罰として、受肉を受けずに地上へ堕とされたの。だからサタンは一生輪廻の輪には戻れず、地上を彷徨い続ける。『二度と還らない霊魂』になった」
「言い方は悪いけれど、その……彼らを生かしたんだ?」
無宗教の僕の中の勝手な神のイメージでは、信仰者には優しく不信仰者には厳しい。完璧なる善性で、無慈悲。そう言うものだった。だから堂々と逆らった罪をそう簡単に許すとは思わなかったのだ。
そう聞くと、ミカエルはとても言い難そうに顔を歪める。
「……生かしておいたのは、許したわけでも受け止めたわけでもなくて、天界の都合によるものなの」
「どういうこと?」
「堕天使たちを生かしたのは、彼らを厄災の象徴とするためよ。地上で何か良いことが起きた時、人は神に感謝する。けれど何か悪いことが起きた時、人は神を疑い始める。だから悪いことの根源、象徴として地獄と悪魔を利用したの。神への信仰を護るために」
「なるほど……それじゃあ、サタンは?」
「……サタンはそもそも概念、霊魂のようなモノだから容易に殺せないのよ。たとえ万全の準備でどうにかして滅しても、誰かの心に『悪意』がある限りいずれまたどこかで生まれてしまう。そこで天使たちは考えたの。――このまま天界で殺してしまうと、また天界のどこで復活するか解からない。封印して置いておくのも不安がつきまとう。地獄へ堕としてしまうと、再び悪魔たちにとり憑いて天界の脅威となるのは間違いない。どちらにせよ天界の崩壊の種となる。ならば――例え誰かにとり憑いたとしても被害の少ない存在ばかりの、地上へ堕としてしまえ、と」
「――なっ……! それって、」
「そう。つまり、わたしたちは畏るべき存在を人間に押しつけたのよ。それも、完璧な善行、間違いない選択のつもりで」
僕はなんと言うべきなのか迷って、結局言葉を失った。
天使はサタンが齎す被害の総量を比べて、そして最も被害が少ない合理的な選択をした。きっとそう言うことなんだろう。
世界の遍く全てを省みて。
直面する者たちは省みず。
正直言えば、怒りは湧かなかった。具体的にサタンが何をどうしたかなんて僕は知らないから。怒り方が解からない。
けれど、この話を聞かされた人間代表としては怒らなければならないんじゃないか、なんてくだらない義憤の思いもあり、僕は口を噤んでしまう。
「間違っていた」
ミカエルは断言した。
「わたし自身も、最善の選択のつもりでサタンの地上への放逐に賛成したの。天界のシステム、世界の秩序を守らなければと思って。でも間違っていた。地上に来て解かった。この世界や人間はたしかに未完成なところはあるけれど、天界よりもずっと楽しくて美しいところもあるって」
これも堕天かしら、とミカエルは悪戯に笑った。
決然と真実を語り、自身の関与も語った彼女は、フェアで高潔な天使で、同時に間違いを素直に認める心はとても真っ直ぐだと思った。
その上で、きっと彼女は待っている。覚悟している。
人間である僕から、責められることを。
僕は口を開く。
「ひとつだけ聞かせて。君はそのサタンはどうにかするために来たの?」
「…………」
本当に小さく、ミカエルは頷いた。
ああ――。心にすっと落ちる。
それだけで満足してしまった僕は、果たしておかしいのだろうか。
「解かった。僕はミカエルを許すよ」
「え……?」
「全ての人間の意見じゃあないし、全ての天使たちを許すなんて言えないけど、僕は君を許そうと思う。そう決めた」
こんなミカエルなら、せめて僕一人くらいは許してあげてもいいんじゃないかって。僕なんかの許しで少しでも気が楽になるのなら、そのくらいはしてあげるべきじゃないかって。
そう思ったんだ。
思ったんだから、仕方ない。
ミカエルの驚いた表情と、そして強い光を灯した瞳が印象的だった。あまりに綺麗で。
ミカエルは、ふっと表情を緩めた。
「やっぱり、シノブは変な人間」
「君も相当変な天使なんじゃないの?」
「……ふふっ」
「あはははっ」
夜の街。工場街。笑い合う人間と天使は、空から見たら随分と滑稽かもしれない。
けれど、僕は彼女と少し繋がった気がした。