二日目 (8) ミカエル、語る
僕らは山を下って、人気も民家も少ない工場街を歩いていた。
着地した山は狭神市の西地区の端にある名も無き森、通称ナナシの森と呼ばれている山だった。
ここから家に帰るにはつい夕方道場に通ったのと同じように、旧市街を抜けて石楠花橋を渡り、そして街の中央を抜けて住宅街へと向かわなければならない。
相応の時間が掛かるけれど、「じゃあ空飛んで行かない?」とのミカエルの言葉は全力で却下した。
またあの羽を生やす覚悟も飛ぶ覚悟もまだ出来ていなかったし、何より今はミカエルの話を聞きたかった。
自らを天使だと言う、彼女の。
「だから、本当にわたしは天使なんだってば!」
「それはもう解かったって。一応そう言うことにして話は聞くから、早く続きを話してよ」
「いちおう、ってなによいちおうって! わたしは天使だって言ってるでしょー! 相当エラいんだからね熾天使って!」
ミカエルは腰に手を当ててぷんぷんと怒りながら、僕の斜め後ろを付いて来ていた。僕は思わず吐いてしまう溜息を背中で隠す。
早く話を聞きたいのに……。自分が天使だと言うことを僕が信じないのがお気に召さないらしい。
――正直言えば、僕の心はもう彼女の存在を信じている、かもしれない。背中に羽が生えて、その上それで空まで飛んでしまったのだ。積極的肯定とはいかないが、否定する材料は弱い。
それにもう一つ――、ミカエルの時折見せる、明らかに異質な圧倒的存在感。
あの憂い。あの佇まい。あの神々しさ。
それら全てをひっくるめて、僕は本当に彼女は天使なのかもしれない、と思っていた。
まだ推定が入るのは、十数年生きてきた僕の常識感が「そう簡単には負けないぞ」と土俵際で踏ん張っている為だ。
ともかく僕は彼女をほぼ信じている。だからいい加減話を進めたかった。
「もう解かった! 信じる、信じるから。ミカエルはれっきとした高名な天使さまなんだね」
「むう。本当に信じてる?」
「そりゃあ勿論! わあ凄い。まさかキミがあの有名なミカエルだなんて。サインちょうだい」
「む。そこはかとなくあしらわれているような気がするけれど、その言葉は苦しゅうないわね。もっともっと褒め称えなさい」
わーきゃー。
わーきゃー。
美辞麗句。
…………何だこの茶番は。
「あははっ! 最初からそう言ってよー」
何にせよ機嫌を直したらしいミカエルの様子に胸を撫で下ろすと、僕はようやく話を促した。
「さあ、話を聞かせて貰える? 天使だと言う君が何故ここにいるのか。それに、僕に羽が生えて空を飛んだのは何故なのか」
どれから話そうかしら、とミカエルは顎に指を当てる。
「そうねえ。まずシノブが空を飛んだのは、わたしの力を貴方が使ったからよ。その指輪」
ミカエルが僕の左手を指差す。僕は左手を眼の前に掲げた。
「その指輪は“誓約の宝玉”。さっき唱えた呪文が“誓約の呪文”。わたしがその指輪のなかに入ることで、誓約を交わした貴方は天使ミカエルの力を使えるようになるの」
「……天使の力?」
「羽もそうだし、まあほかにもいろいろね」
ミカエルは詳しい説明は笑ってはぐらかした。それはどこかにまずいところがあると言うより、ややこしい説明をするのが面倒くさいと言う風に見えた。
信じられないようなファンタジーな話だが、まあ僕が空を飛んだ理由は――彼女の荒唐無稽な話を鵜呑みにするならば――解かった。
でも、まだ解からないことだらけだ。
「何故そんなことを?」
「それは簡単。天使はね、地上じゃ本来の力を使えないの。
天界と地上はすぐ近くに在るけれど、隣合っているわけではない。まったく異なる位相、『異相』に在るの。だから世界を脈々とながれる理がちがう。わたしたちはこの世界にとっては“異物”なのよ。力を使おうとすると世界が、地上の理が邪魔をする。だから協力者として貴方を仲介しないと力を使えないの」
「理……」
「そんなにむずかしい話じゃないのよ? あるところまで温度が上がれば火が点くだとか、重力が万物に働いているだとか。そういう世界の決まりごとみたいなもの」
夜の工場街はひっそりと静かだ。
音が空気を伝わってやってくると言うのも、その理とやらに当たるのだろうか。
「じゃあそもそも、何故そんなまどろっこしいことをしてまで、地上に来たの?」
唐突に、ミカエルの歩みが遅くなった。
置いて行ってしまいそうになって振り返る。
「ミカエル?」
「……シノブの聞きたいことを全て話すには、ことの始めから順を追って話していかなければいけない。とても長い話になるわ。でも、そうね。聞いてほしい。シノブには聞いてもらいたい。貴方はわたしの契約者なんだから――」
頷いて、彼女と歩調を合わせる。
ミカエルは夜空を見上げながら、ゆっくりと話し始めた。
「すべての始まりは遙か昔。一体の天使が、神への反逆を企てたことから始まった」
☨
――――――。
見上げれば白く光る空。
見下ろせば白く漂う雲。
空には一際強く輝く恒星があって、雲は柔らかながらもれっきとした大地。喇叭の音が響き渡り、一瞬たりとも闇が落ちることはない。
此処は天界。
神と、その僕たちが住まう世界。
天界は目映い純白と平穏に満ちていた。
設えられた神殿では天使たちが各々与えられた使命をこなし、絶対神はいと高く遠い何十層もの天幕の奥の神居に座していた。
天界は完成していた。
誰が見ても過不足のない神秘的な形で。
天界は完璧に在った。
必要な物は手を伸ばせばそこに触れた。
天使たちは満足と言う言葉も知らず、満たされた世界で只使命を全うしていた。
世界に安息を。
世界に試練を。
世界に調和を。
只それだけを。
だけど。
ただ一つだけ、天界に問題があったとするならば。
それは皮肉にも完成し過ぎていたことだろう。
天界の完璧とは、決して全てがある、と言う意味ではない。むしろその逆、ありとあらゆる余分を排除して、全てがないからこそ完璧だったのだ。
上位の天使たちは完全で在るが故に、それに疑問も不満も持つことはなかった。
しかし、下位の天使たちは識っていた。
他の世界を。この世には、完全などとは程遠い、余分なものが溢れていることを。
そして彼らは。
その不完全に。
――惹かれて仕舞った。
☨
「彼らは、勝手な行動をとるようになったわ。勝手に下界に降りて人間と交わったり、あたえられた使命を怠ったり。わたしたちはそのたびに戒告をあたえてきたんだけど……ある日彼らは暴挙に打ってでた」
「暴挙?」
「神を裏切り、全天使に対して戦争をおこしたの」
ミカエルの眼が、思い描くように遠くを見つめる。
「彼らを率いていたのは……ルシフェルという名の大天使だった。彼は全天使の三分の一もの天使を味方につけて、神に挑んだの。わたしたち神の僕たる天使も命を受けて迎撃したわ。長くて激しい戦いで、天界は紅く染まり空は割れた」
ミカエルの言葉は物語をなぞるような平坦なものだ。けれど、彼女の眼から表情から全身から、真剣な悲痛が伝わってきた。
「戦いは天使側が劣勢に追いこまれたんだれど、最後はわたしが敵の総大将、ルシフェルを討ちとって戦いを終わらせたの。すごいでしょう」
お茶目に笑うミカエルだったけれど、僕の眼にはそれは素直に映らなかった。
話してくれた物語に思いを馳せる。
上がる鬨の声。空が割れる音。天を翔る無数の天使たちがぶつかり合う。猛り苦悶する声。鋼の混じる音。白い世界は燃え上がる。
変わり果てた天界で、白の天使と白の天使が向かい合う。
空色の彼女が黄金の剣を高々と振り上げて、もう一人の天使が防御と掲げた剣を、易々と斬り裂いた。
眉間から臍まで。白い天使の中心線から血が滲み出る。
まるで何かの生き物が、天使の躯を割り開いて飛び出して来るかのようで。
「その後どうなったの」