二日目 (6) 夜空の純白
「うわーっ! 落ちるーっ! 止まれーっ! 待ったでも落ちるなーっ! ……はあ、はあはあ」
浮かび上がって行く自分を止められず、恐怖と混乱の極みで叫び続けていた僕だったけれど、いい加減疲れて息切れとともに脱力した。
もう何さ。意味解かんない。僕高い所とか割とダメだから。降ろして。お願いだ神様。地上大好き。大地ラブミー。アイラブ地球。
暫くすると上昇は止まったようで、僕は同じ高さを仰向けでフワフワと漂っていた。横を見ると電波塔が見える。あの電波塔はこの街で一番高い。
……下は見えないけれど、その事実だけで恐怖を通り過ぎて何だかもうガックリした。
「あー……どうなってんだろ。どうしよっかな」
空には三日月が輝いている。
当たり前の話だけど、地上より空に近くて地上より光の少ないこの場所からは、たくさんの星が瞬いて見えた。
暗い夜空に散らばった宝石の美しさに、僕は一瞬だけ自己の危機を忘れて陶酔した。
『おちついた?』
と、耳元で突然声が聞こえた。
その声はついさっき聞いた覚えのある声で。
「ミカエル!?」
『わ、わ、あわてないあわてない』
「うわわっ」
慌てて動いたせいで体勢を崩しかけて、わたわたと安定を取り戻す。
再び仰向けに落ち着いたところで、またミカエルの声が聞こえた。
『もう、危ないじゃない』
「ミカエル、どこにいるんだ?」
周りをきょろきょろと見回すが、当然誰の姿も無い。けれど、彼女の声はすぐそばから響いている。
『ここよ、ここ』
そう言った時、僕の左手の薬指の指輪が、ぱあっと黄金色の光を灯した。更に光は緩やかに明滅を繰り返す。暗い夜空に、まるで星のように。
「え……?」
まさかそんな。
左手を眼の前に持って来て、まじまじと見つめる。
そんな僕の行為を肯定するかのように、宝石はより一層煌びやかに光を放って輝いた。
眼が眩むほどの光量に、左手を顔から離して眼を瞑る。
そして再び開けた時、光はすっかり消え去っていて、夜は夜のままの姿でいた。
僕が呆然としている中、ミカエルの声は再び響く。
『そう正解。わたしはその“誓約の宝玉”の中よ』
「“誓約”……?」
聞き慣れない言葉。
けれど、ミカエルの明るい口調からでも歴然とした重みを感じる、そんな言葉だった。
だけどそんなことの前に、僕には聞かなければならないことがあった。
「それは良いんだけど、ミカエル! 何で僕は飛んでるの? これは君のせい? だったら今すぐ降ろして欲しいんだけど! 怖い!」
いつまでもこんな空中をなすがまま浮かび続けるなんて真っ平だ。空を飛ぶのは人間の夢だ、なんて言うけれど、それはあくまでも飛んでいることの根拠とある程度は落下しない安心があっての話だと今気が付いた。
『そ、それは、うーん、まあわたしのせいかと言われればその通りなんだけど……』
ミカエルははっきりしない答えを返す。
ただ僕は必死だったので、だったら早く降ろしてくれ、と左手の薬指に向かって体勢を崩さない程度に暴れ騒ぎ倒した。
――思えば僕も混乱していて必死だったのだろう。
いくら彼女が不思議な存在感を持っていても、人体消失を見せられても、発光する宝石を渡されても、挙句空を飛んでも。
それを彼女のせいなのか、と考えていること自体が馬鹿げた話だった。
常識も根拠もロジックも、何処かで死んでしまっている。
けれど。
『シノブ。ちょっと振り返ってみてよ』
この時ばかりはその直感が大正解だったようで。
僕は言われるがまま首だけで後ろを振り返った。
「…………?」
最初、予想と違う光景が見えて思考が停止した。
暗い夜と、その夜に沈んだ街が見えると思って振り返った僕の視界には、それとは真逆の、真っ白な、とびきり真っ白なナニカがいっぱいに映った。
進化の過程で手に入れた優秀な双眼は、即座にそれにピントを合わせて認識する。
羽根。
羽。
白い羽。
それは、羽だった。
幅広の鳥の羽とは違う、細くて長い長大な羽。
羽の先は僕が精いっぱい手を伸ばしても遥か届かない程の距離にあり、恐らく目算で二メートルはありそうだった。
そんな羽が、片側に三翼。合わせて計六翼。
僕の躯を支えるかのように、ゆっくりと空を漕いでいた。
「…………」
それらを認識した上で、僕は再びの思考停止状態に入る。
羽根?
羽?
白い羽?
とても綺麗な羽根。汚れ一つない純白。見惚れてしまう程……いやいや、そう言う問題じゃない。羽根? 羽? いや、なら何が問題だ? ミカエルの声が聞こえる。『あ、あははは』。笑っている。ああ、なんて綺麗な羽根。触わったら、きっと気持ちが良いだろう。
僕は無意識に羽に手を伸ばす。
手から伝わるのは高級な絹のような滑らかな手触り。すごい。サラサラだ。
腕を伸ばして羽を伝うように撫でて行き、そして、腕を捩じってその根元の方へ。
上質な手触りが、突然安物の荒い生地に変わった。
触り慣れた感触に、脳はすぐに答えを導き出した。
ブレザーだ。
羽を撫でていたその手が、ブレザーに触れたのだ。
あれ? コートは?
「…………」
そして僕は、現実思考へと帰還を果たす。
背中へと続く羽の感触。
伝って行った、その先のブレザー。
コートは捲くれ上がっているようだ。
そして、いつの間にかブレザーに空いているらしい破けた穴の感触と、その中に消えて行く絹の手触り。
おい。
嘘だろ。
マジかって。
僕は首元から、背中に手を突っ込む。
冷たい手が背筋に触れて鳥肌が立つけれどそれどころじゃない。指先で伝って撫でて行った先、僕の手は背中に癒着している絹の手触りにぶつかって止まった。
ほお、どうやらこの羽は、僕の背中から生えているようだ。
うんうん。
なるほど。
よおし。
息を一杯に吸い込んで。
「……ぅうわああああぁぁっ! なんじゃこりゃーっ!?」
二度目の叫び声も、結局夜に溶けた。