二日目 (5) 誓約
「え?」
彼女の雰囲気が急に変わる。
戸惑う僕を尻目に、ミカエルは満面の笑みで僕の肩をばんばんと叩く。痛い、んだけど混乱していてそれもあまり感じない。
「あはははは! 貴方良い。良いわシノブ。すっごく良い」
「ま、待って。痛いイタイよ。何なのさ?」
「――好きよ」
…………え!?
な、何を突然。
「シノブのその考え方好き。わたし、とっても気に入ったわ」
「あ、ああ。そう」
僕はドキドキした胸を撫で下ろす。こんな綺麗な人にいきなり「好き」だなんて言われたら、びっくりする。
「好きだけれど……けれど、戦わないといけない時ってあるわ」
「ああ。あるだろうね」
例えば小学校の頃、僕はいじめと戦わなければならなかったのだろう。奈月に任せることなく、自ら拳を握って。
「わたしにとっては、今がそうなの」
そう言ってミカエルは、僕に手を差し出す。
「協力してくれないかしら?」
「え?」
「わたしはこれから戦わないといけない。避けられない、大きな戦いがあるの。ただそれには協力者が必要で、そこで貴方に協力してもらいたい」
「戦いって? それに、協力者って……」
「ごめん、詳しく話している時間はないみたい」
ミカエルの目線を辿って振り返る。
まだまだずっと遠いけれど、あの三人が走って来るのが見えた。本当に根気のある不良だ。どうしよう、ちょっと好感持ってきちゃった。
「協力してくれれば、さしあたりあの三人からはすぐ逃がしてあげられるわ」
言われて、少しだけ考える。
ゆっくりとは言え随分戻った。もうちょっと行けば人通りも出てくるだろう。そうすれば彼女によく解からない協力するまでもなく逃げられるが――いや、そうだな。
そう、考えるまでもないことだった。
「解かった。協力するよ」
ミカエルの手を取った。
僕は――『こまっている人がいたらたすける』のだから。
手を取られたミカエルは眼を丸くする。
「えっ!? いいの?」
「なんだよ驚いて。言ってきたのはそっちからでしょ」
「そうなんだけど……こんなにあっさり了解してもらえるとは思ってなかったから」
ミカエルは少し照れたように笑う。さっきまでの綺麗だったイメージとはまた違って、とても可愛らしく見えた。
「じゃあ、はいこれ」
ミカエルはドレスのポケットから何かを取り出して、僕に差し出した。
それは、指輪だった。
無色透明の宝石、おそらくダイヤモンドの填った銀色の指輪。宝石に詳しくなんてないので本当のところは解からないけれど、本物だとしたら絶対に高価なものだな、と思った。
「着けて」
「こんな高そうな物いいの?」
「ええ」
ミカエルの手から指輪を摘み上げる。宝石には素手で触ってはいけないと何となく聞いたことがあるような気がしたので、触れないように遠慮がちに持った。
左手の薬指、とミカエルに指示されてその通りに填める。不思議とサイズは合っていてすんなり嵌まった。
月明かりに掲げる。ダイヤモンドは内部で光を反響させて、月明かりよりも清廉な光を抱えた。とても美しい、見惚れるような輝きだった。いつまでも眺めていたくなるような、そんな気持ちになる。
「ほら、ぼうっとしている暇はないわよ」
ミカエルに窘められて、僕は名残惜しみながら手を下げる。
そこで聞こえてきた怒声。
後ろを振り返ると、肩で息をしている不良たちが膝に手を付いて休みながら、それでもこちらを睨んでいた。いや、ホント頭が下がります。
「どうしよう。あと少しなのに」
ミカエルが困り顔をする。周りを見るけれど矢張り僕たち以外の人影は見えない。狭神の夜はこんなものだ。
「しかたないね。僕に任せて」
僕はミカエルに一つ頷いて、彼らの元に向かう。
金髪の男は息を切らせながらも虚勢を張った。
「はあ、なんだこの野郎……! はあ、はあ。やる気か!?」
「やる気はないよ。だから少しだけそこで待ってて」
手のひらをぐっと相手に突き出す。相手はぽかんと僕を見ていた。
よし。僕はミカエルの元に戻る。
なぜかミカエルもぽかんとしていた。
「はい、時間取れたよ」
「…………今のでいいの?」
どう言う意味だろう?
色々と納得いっていない様子だったけれど、彼らが言葉通り仕掛けて来ないことを見て、再三首を傾げながら言葉を続けた。
「それじゃあ今から言うわたしの言葉を複唱して。ちなみにシノブ、英語は話せる?」
「アイキャントスピーク」
「コラ、ふざけない。じゃあ日本語で」
ミカエルは眼を瞑り、胸に押し当てるようにして両手を重ねる。大きく深呼吸をして夜空を仰ぐ。
細くて真っ白な首筋が顕わになり、僕の眼に留まった。皺一つ無い滑らかな首はまるで陶磁器のようで、真夜中に輝いて見えた。大きく浮き出た鎖骨も、ドレスをなだらかに持ち上げる胸も、空色に揺れるドレスも、全てが神秘的な程に美しい。改めて、僕は息を呑む。
ミカエルが眼を戻した時に眼が合って、僕は慌てて俯いた。
「始めるわ」
指輪を填めた左手を取られて、身を固くする。
気付くと彼女は繋いだ右手だけ長手袋を外していた。
彼女の冷気が、僕の熱を奪っていく。
僕の熱が、彼女の冷気を解いていく。
頬の火照りだけが熱い。
彼女の唇が紡ぎ出す旋律を、僕は盲目で複唱した。
大天使ミカエルの名に於いて神に盟約す
我フジカワシノブは 大天使ミカエルと誓約を結ぶ
我は器
強靭なる憑代として 彼の者の叡智を顕現す
彼は剣
いと高き天眷として 我と世界の生を守護す
深遠の水面に映る神の御霊よ
許諾の意志を金色の光と示せ
唄うような、謳うような。
奇異なる響きの言の葉だった。
上空から吊り上げられているかのような浮遊感を躯に感じる。
ただそれ以上に異常だったのは、僕の唱える言葉が最後に近付くにつれて、左手の宝石が眩く輝き始めたことだった。
最初は仄かに。
遂には劇的に。
辺り一面を黄金の色に染め上げる。
まるで、優しい太陽のようだった。
「ミカエル! これは何?」
「成約の光よ。貴方がわたしの契約者となった証」
一つも意味が解からない。
そんな説明では解からないよ、と言おうとしたが、ミカエルに「今から大事な話をするわ」と先手を取られて言葉を呑みこむ。
宝玉は輝き続けている。
「今からわたしは一時的に姿を消すわ。聞かないで。今は説明している時間はないみたいだから。そうしたら、貴方にはこう言って欲しいの。『―――』。そうすれば、あの三人から争わずに逃げることが出来るわ」
僕はミカエルの言葉に耳を傾ける。
その途中、そう言えばいくらなんでも不良の皆さんが静か過ぎるな、と思って視線を向けると、彼らはお互い顔を見合せて困惑と異怖の表情を浮かべていた。「なんだよあれ」との声が聞こえる。
この黄金の光に怯え驚いているのだろう。
気持ちは解かる。
僕だってそうだ。
彼らと同じで心を震わせている。
違うのは、左手の温度だけ。
「準備はいい?」
「ああ」
その手が離される。
けれど、もう冷たさは僕の手の熱と混じり合って宿っていた。
「貴方に神の加護があらんことを」
ミカエルはそう言って――消失した。
最後に微笑みを残して、僕の眼の前から、溶けるように。
黄金の光も、一息の間に収束して消えた。
右を左を。
確認する。
けれど、本当に、何処にも姿は見えなかった。
一瞬、夢なのかもしれないと思った。彼女に出逢ってから今までのことが全て夢で、僕はずっとこの道端で、自失して呆けていたのではないか、と。
僕は左手を夜空に掲げる。
月明かりが目映い。
――ああ、そうだ。
この左手が、全てを証明しているじゃないか。
高貴なる宝石が。
残留する冷気が。
確かに、彼女の存在を。
僕は落ち着きを取り戻したけれど、不良たちは理解の範疇を超えた事態の連続に、いい加減に限界を迎えたようだった。
彼らは「なんなんだよ!」と叫びながらこちらに走って来る。
僕は動かない。
構えたりもしない。
内なる声の響きに沿って。
ミカエルの言葉を信じて。
左手を握り、そして一言。
「ミカエル」
気が付いたら空だった。
「え?」
躯に感じる浮遊感と風。
夜空に包まれた全視界。
眼の前にあった筈の不良たちとシャッター街と地面は遥か眼下に遠のき、更にそれらは急速に離れて行っている。
不良たちの眼を丸くした表情が見える。
きっと、僕も同じような表情をしているだろう。
止まらない。
止まらない。
僕は、空へ、浮き上がり続けている。
それをたっぷりと時間を掛けて認識して、そして中空で叫んだ。
「……うわああああああああぁぁぁっっ! 死ぬーっ!」
僕の叫びは、空に溶けた。