二日目 (2) 道場
石楠花川の川縁を歩く。
東にある三葉高校から西へ真っ直ぐ街を横断すると、中央と西地区を分断している石楠花川に突き当たる。この川は隣の市から来て、そしてまた隣の市へと抜けて行く、幾つもの市を跨いだとても長大なものだ。
僕はその傍を歩いていた。木々の緑が眩しい並木道だ。河原にはスポーツの出来るグラウンドや落ち着けるベンチが整備されていて、冬空の下でもサッカーに興じる小学生や愛を語らう恋人たちが元気に利用していた。
流れる川面に太陽の光が煌めき、僕の視界を鮮やかに彩る。
僕は、先程のことを思い出していた。
――偽善者。
そう言った彼は、偽悪者として去って行った。
結局彼が何を言いたかったのか理解できないままで、だから僕は感情を持て余している。
彼は僕に何を言いたかったのか。
何が偽善で、何が偽善でなかったのか。
何が偽悪で、何が偽悪でなかったのか。
思考が渦を巻いて、巻いたまま脳内の深い所で澱む。そもそもどんな答えを求めているのかが解かっていないのだ。そんな僕の頭から、大切な何かなんて生まれる筈がない。それでも考え続けてしまうのは、僕の悪癖だろう。
偽善とは、なんだ。
そうこうしている内に、石楠花川に架かる橋に辿り着いた。この橋の向こうの狭神市西地区には工場群と古い民家の住宅街があり、西の端一帯は森になっていた。
橋を渡って、更に歩く。洋風の趣は消え、数多くの時代を見送ってきた古い家屋が目立ち出す。
やがてそんな古い住宅街の中でも一際大きな、歴史を感じさせる平屋が見えた。高い塀に囲まれたその家は、所々で朽ちてしまいそうな木々を晒しながら、それでも尚清楚な雰囲気を敢然と湛えていた。門には『古賀』の表札が掛かっている。
開いている門をくぐって敷地内に入ると、玄関の扉には向かわずに回り込むように裏手へ向かった。途中、縁側があった。たまに此処に奥さんが座ってお茶を飲んでいることがあるけれど、今日は誰もいなかった。
家の裏に着く。そこに横に倒した長方形のような形の建物があった。
此処は古賀道場。古賀流白禅道、と呼ばれる武術を教えている道場だ。僕は中学に上がった頃から四年間と半年程、この道場で武術を習っている。
『こまっている人がいたら、たすける』。その誓いを貫く為には、護る力が必要だから。
扉の前に立って、一つ深呼吸。首を左右に振る。
それは自分の中のスイッチを切り替える、儀式のようなものだ。
――日常を生きる、普段の僕では戦えないから。
「お願いします!」
両開きの引き戸を開けて、挨拶とともに頭を下げる。中からは沸き立つ熱気と程好い緊張と、板張りの床を踏み締める音が響いた。
道場には既に二人の人間がいた。その内の一人が中に入った僕を振り返る。
「来たか忍。早速着替えて来い」
威厳あるはっきりとした声で僕にそう言ったのは、背の小さな七十歳程のお爺さんだ。豊富な白髭を蓄え、生え際は少し頭頂部へと後退している。しかしその年齢には比例しない、袴の上からでも解かる程の分厚くしなやかな躯をしていた。
お爺さんの名前は古賀修禅。現在の古賀流白禅道の承継者にして僕の師匠にあたる人だ。僕はその強さ――心においても武術においても――に憧れている。
靴を脱いで、冷たい板張りの床を踏む。
古賀道場の広さは一辺が二十メートル前後。高さは割かしあって六メートルはある。古賀流白禅道の特性上、薙刀のような長物も扱うのでこれくらいの高さは必要、なのかもしれない。良くは解からないが。
壁にはたくさんの武器が掛かっていた。木刀、日本刀、小太刀、薙刀、槍、棒、手裏剣などなど。
古賀流白禅道は修禅師匠の五代前の祖、古賀白禅が拓いた武術である。当時、天真正伝香取神道流を学んでいた白禅氏は齢四十程の時に新たな武術を創るため道場を出て野に下った。その後様々な武術に触れ、多くの武芸者と戦い、道場を出てから八年の歳月を経た時、彼は古賀流白禅道を創り出したそうだ。それからこの武術は一子相伝、代々古賀家の長男に伝えられてきたらしい。
古賀流白禅道は、正に総合武術。剣術、居合術、槍術、薙刀術、棒術、柔術、太刀術、手裏剣術、果てには兵学まで学ぶ。実践に役立つありとあらゆる物を取り入れている武術だ。
掲げられた理念は『美しさ』。
――人を殺める殺人術であればこそ、美しくあれ。
それが白禅氏の思想だったそうである。
最初にその理念を聞いた時、僕は震えを覚えた。
理念でありながら概念と相剋する。
その様が恐ろしくも美しくて。
ともかく、古賀流白禅道の技は『美しさ』の理念に沿って創立されている。
そして正にその理念を、道場の真ん中で木刀を振るう古賀伊織は体現していた。
腰から横凪ぎに振り抜かれる刀。剣先は伸ばした右腕の先でぴたりと止まり、静けさを切り裂いて一層の静けさを齎す。制動する伊織先輩の頬を一筋の汗が伝う。その眼は、ただ一心に眼の前に創り出した仮想の敵を睨み付けていた。
彼の名前は古賀伊織。道場主の古賀修禅師匠の孫で、この道場での僕の兄弟子にあたり、更には学校での一個上の先輩にもあたる人だ。
すっかり鍛錬に熱が入っている。僕も早く着替えて来よう。
併設された更衣室へ。手探りでスイッチを押して電燈を点ける。六畳程の室内には幾つかの葛籠が置かれていた。その内の一つに脱いだ服と私物を放り込んで、白と黒の袴に着替える。
更衣室を出て、修禅師匠の元へ向かった。
「お願いします」
「うむ。早速、今日は此れじゃ」
「はい」
差し出されたのは木刀だった。遠目で見た時から既に師匠が杖のようにして木刀を持っているのが見えていたので、予想通りと言えばその通りだった。
受け取って、伊織先輩の邪魔にならないところに立つ。
古賀道場の鍛錬は、まず修禅師匠に今日の課題を渡されるところから始まる。そしてその武器なり柔術なり徒手空拳なりを、自己鍛錬で磨いて行くのだ。修禅師匠は何も言わない。自分一人で、武器の特性や間合いを掴まなければならない。いきなり手裏剣を渡された時は戸惑ったものだ。
とは言っても、既に数十度目の課題で、自分用の物すらある木刀だ。
一振りすれば手に馴染み、間合いは持つ前に解かっている。
故に考えることは、一つだけ。
――如何に古賀伊織を打ち倒すか。その一点。
古賀道場では自己鍛錬の後、その武器を用いた試合を行う。この道場には現在門下生が僕と伊織先輩の二人しかいないので、必然的に僕は伊織先輩と打ち合うことになるのだ。
武器にも因るが、僕が伊織先輩に勝つことは極めて稀だ。
だから、如何にして打ち倒すか。如何にして意表を突くか。木刀を振るいながら考え続ける。
「止め!」
すっかり寒さも忘れた頃、修禅師匠がようやく鍛錬を止めた。
「それでは試合に移る」
息を整える時間を取るどころか、一所に僕と伊織先輩を集めることすらもせずに試合開始の宣告をする。それこそが戦いと言う理念であり、この道場の日常だ。
僕と伊織先輩は、これから試合を始めると言うには随分と離れた距離で目線を合わせた。
……わあ。人を殺せそうな視線とはああ言うことかな。
僕も少しでも息を整えて、集中。
戦いの要素以外を五感から除外する。
――木刀とは言え、一歩間違えば生死に関わる怪我をするかもしれない。しかも伊織先輩は僕より数段上の実力者だ。勝てないんじゃないか。負けたら怪我をしないだろうか。退いても――断絶。
余計な思考。掠める恐怖。
殺ぎ落として、戦いに専心する。
切り換わる。
「始めっ!」
音と同時に疾走した。
相手は僕よりも上の実力者だ。ただ素直に斬り合うなんて無策はしない。愚策はしない。
本来上位者と戦うならば、隙を見て不意を打つか策を張り巡らせて迎撃するかのどちらかを選びたいところだけれど、道場での試合ではそうはいかない。
ならば、速攻――!
伊織先輩は涼しい顔で剣を構える。動く気配はない。どうやら僕の攻撃を受けきる覚悟のようだ。それは読み通り。先輩はそう言う戦術を選択すると思っていた。
「うおおおっ!」
気合いの咆哮。左足を床に踏みこんで、勢いそのままに右上から袈裟に斬りつけた。
伊織先輩は一歩下がってかわす。
僕も一歩前に追いかけて、左下の木刀を同じ剣線をなぞって逆袈裟に斬り上げる。
先輩は再び一歩退く。
剣先は風圧を感じる程の至近距離を抜けて、ほんの数瞬前まで伊織先輩がいた空間を薙いだ。
――古賀白禅流は『美しさ』を求めて、そして独特の連撃思想に辿り着いた。
一の太刀を、外れたならば再び一の太刀を。それを繰り返す同時代の剣術に対して、可能な限り幾つもの種類の太刀を連続で繰り出す剣術。それが古賀白禅流。
一太刀ではなく、二太刀。
二太刀ではなく、四太刀。
四太刀ではなく、幾太刀も。
それが『美しさ』であり、強み。
だから、この程度では止まらない。
「はあっ!」
振り上がった木刀を頭の横に構え直し、伊織先輩に向けて突きを繰り出す。剣は、彼の者の心の臓を狙っている。
伊織先輩はそれをも、横にずれるだけであっさりといなした。一級の実力を持つ先輩の、その中でも防御に関しては超一級品だ。この程度は、先輩は何の苦もなくかわしてみせる。
かわしてみせる――が、
それこそが、狙い。
突き出した木刀から左手を離して、右手一本に。
僕の今までの三撃は、全てこの四太刀目の為にあった。
三撃をよけ続けて、先輩は僅かながらも体勢を崩している。そして先輩が今避けたばかりの剣は彼の躯の超至近距離にある。そこからの、無理矢理の横薙ぎ。
伊織先輩がほんの少し顔を強張らせる。
「おおおおっ!」
全力で木刀を振り抜いた。
カンッ―――。
甲高く、響き冴える快音。
全身を打つ衝撃と手応え。
僕の振るった木刀は、僕の予想通りの結果を示した。
そう、予想通り。だからこそ――嬉しくて悔しくて堪らない。
僕の木刀は、大きく振り上げるようにして逆さまに脇腹に添えられた伊織先輩の木刀に、難なく防がれていた。
流石は伊織先輩。難しい体勢と構えでの防御を、いとも容易くやってのけた。
まったくもう。
とんでもなく悔しい。
そんで嬉しい。
尚且つ楽しい。
困ったもんだ。
先輩との戦いは、やっぱり楽しくて仕方ない。
けれど、そんなことを言っている暇などありはしない。
彼が、そんな時間を与えてくれる筈がないから。
「往くぞ」
呟くような声。
伊織先輩の眼が、この戦いで初めて僕を睨み付ける。
その瞳は、置いてきた筈の恐怖が頭を掠める程の殺気に満ちていた。
「――――――」
静かなる咆哮。けれどそれは、向かい合う者には確乎たる声として。
鎬を削り合っていた僕の木刀が、強烈に撥ねのけられた。
「くっ!」
急いで両手に持ち直し、相手の間合いから退こうとする。しかし、伊織先輩は素早い出足と巧みな足さばきで僕を間合いの中に取り込んでしまう。どれほど下がろうとも、いなそうとも、決して抜け出せぬ間合いの牢獄。
そして降る、雨あられの剣閃。
僕に反撃の隙など与えない、打ち下ろし、払い、薙ぎ、切り上げ、突き。
上から下から来たる攻撃を、懸命に捌きながら後退する。
「―――ッア!」
「ぐうっ!」
しかし、道場の壁間際まで圧し込まれたところで、遂に僕の木刀は大きく弾き飛ばされて、無防備に尻餅をついた僕の頭に先輩の一撃が――、
「それまでっ!」
響く師匠の声。
最後の意地で見開いていた僕の眼の前で、風圧すら感じる鼻の先で、伊織先輩の振るった木刀は停止していた。射竦めるような残心の後、木刀がひかれる。
僕は止めていた息を大きく吐き出して、脱力した。
……やっぱり強い。完敗だ。
でも、だからこそ、目指し甲斐、倒し甲斐がある。
「二人とも、此方へ」
修禅師匠に呼ばれ、僕と伊織先輩はその前に並んで正座する。
修禅師匠は伊織先輩の方を向いて、
「先ずは伊織。お主は矢張りどの武器においても防御に秀でている。それに関しては儂からも言うことはない。しかし、その影響で戦いの序盤、相手の攻撃を見てしまうことが多い。今回は受け切ったが、相手によってはそうはいくまいて。自分から攻めて、崩し、決める。そんな鍛錬を積むのじゃ」
「はい」
「次は忍」
修禅師匠がこちらを向く。
僕は師匠の眼を見て、耳を澄ませる。
「伊織に負けはしたが、今回の試合は中々に良かったぞ。最初の四連撃。あれも理に適っていた。ただ最後の片手での攻撃が残念ながら筋力不足だったの。お主も解かっておるとは思うが」
師匠の指摘通り、そのことは僕も解かっていた。
片手で剣を振ると言うことは大変に難しい。木刀であっても剣は見た目以上に重いもので、片手のみで剣に威力をのせ、太刀筋を揃えることは、相当の筋力と技術が必須なのだ。
僕にはそれが足りていない。だから、最後の一撃は易々と伊織先輩に防がれてしまったのだ。
「伊織が三つ目の突きをもっと大きくかわしていれば或いは加速して威力を上げることも可能だったやもしれぬが、まあそれは伊織を褒めるしかないの。……そうじゃな、丁度良い、忍はこれから二刀流の鍛錬をすると良かろう。彼の剣豪、宮本武蔵も『剣は片手で扱うもの』と言う言を残している。その鍛錬が威力向上と、ひいては戦いの選択肢の幅へと繋がっていくじゃろう」
頷いて、師匠の言葉を受けた。
そして僕と伊織先輩は師匠のアドバイスを課題に、再び個人鍛錬に移る。
片手で振るう剣は覚束ない軌跡を描き、空間を滑っていく。
試しながら、確かめながら、自分と剣と向き合う内に、ふと昔のことを思い出した。
この道場に来た、四年前――。
理想だけを掲げて、何一つ実現する力を持たないまま奈月に護ってもらっていた自分を。
まだ届いていない。
「こまっている人がいたら、たすける」
理想には、まだ届いていない。
だけど、鍛錬で簡単に息が切れなくなった自分が、何だか嬉しかった。
鍛錬を終えて更衣室に入ると、伊織先輩はもう着替え終わっていた。黒のセーターにジーンズ。隣の家に住んでいるから薄着でここまで来たようだ。
「お疲れさまでした」
「ああ」
僕の方を見て、少し口角を上げる。
学校でも道場でも普段からクールに見えて口数の少ない伊織先輩だけれど、本当の性格は爽やかで体育会系でとても面倒見が良い人だ。曲がったことが嫌いで、誇れる力と揺るぎない正義を持っている。
ただ言葉数か少なく、学校などではそれが表に出てこない。僕も道場で鍛錬を積み、伊織先輩と試合をするようになって初めて解かった。
戦いと言うものは、多くを語る。
「今日も勝てませんでした」
「当然だ。俺はお前よりずっと長く此処にいる。そう簡単に負けてたまるか」
伊織先輩はそう言って挑戦的に笑う。
僕も苦笑して隣で着替え始める。
「しかしな」
「はい?」
僕は着替えながら耳を傾ける。
「今日の木刀は良かったよ」
え? その言葉に驚いて袴から片腕を抜いたところで動きを止める。
「他の武器と比べて攻撃の精度も密度も桁違いだった。どうやら忍は剣の才があるらしい」
僕はぽかんと口を開ける。そんな風に伊織先輩に褒められるのは初めてのことだった。
いつでも伊織先輩は自分に執拗に厳しく、そして他人にも同程度とは言わないまでも、高い誇りと志を求める。だから鍛錬の後、試合で気になったことについて厳しい指導を受けることは多々あった。
しかし褒められたことなんて……。
「剣だったら、俺から一本取る日も近いかもな」
「い、いやそんな!」
「莫迦。俺は負けない」
それじゃあな。そう言って、伊織先輩は更衣室を出て行った。
残された僕も急いで着替えて、電気を消して更衣室を出た。
更衣室の扉が、閉めた自分でも驚くような大きな音を立てて閉まった。道場に残っていた修禅師匠が何事かとこちらに視線をよこす。
どうやら僕は、かなり嬉しいらしい。