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DECEMBER  作者: 竜月
一日目 はじまりの日
10/63

一日目 (9) 理想、始まりと終わり


 凍てつきそうな風に吹かれて、肌寒さが舞い戻る。

 俯く僕の頭に薫さんの手が置かれた。


「そう悲観するな。時間は掛かっているが、少しずつ良くなってきているじゃないか。素直にお前の家から帰るようになったしな」


 確かにそうかもしれない。

 当初に比べれば今の小夜は十分健康な状態だ。医者にももう通っていない。

 だけど、こんなに時間が掛かると思ってしまうことがあるのだ。


 ――小夜の病は、不治の病なんじゃないかって。


 ポン、と頭を軽く叩かれて、思考が中断する。


「無鉄砲なところと我が身を省みないところとごちゃごちゃ考え過ぎるところはお前の欠点だな。二十歳までには治せ」


 薫さんは薄く笑って、僕の背中をそっと押した。


「ほら、早く帰れ。もうすっかり夜も更けた」


 そう言って、薫さんはもう一度塀に背を預けた。どうやら薫さんはもう暫くここにいるようだ。

 僕は別れを告げ、その場を離れた。

 

 そして、一人になる。

 風が強い夜だ。

 寒々しい風にコートが靡いて、黒いコートが闇に溶ける。その冷気は心の隙間に忍び込んで、僕自身を撫で上げた。

 不安。孤独。恐怖。

 囚われそうになって、夜空を見上げる。

 金色の月もささやかな星も孤高の飛行機も、そのどれも姿は見えなかった。分厚い黒雲が隠してしまったのか。それとも堕ちて仕舞ったのか。

 コートの襟を合わせて、胸元を握り締める。

 そして僕は、過去を想う。



 ……僕には、小さい頃の記憶がない。

 朧気で曖昧で繋がりのない記憶の断片の中で、覚えている初めての記憶は、病院で目覚めた時のものだ。

 窓から燦々と光が差し込んで、世界は何もかもが白く見えた。その白の中から滲み出すように白衣を着たおじさんがやってきて、僕の様子を観察して、僕に色々と質問をしてきた。この人が医者だと気付くのはずっと後になった。その質問の中身は記憶に無い。

 次に眼を開けた時、世界はまた白に輝いていた。何時間、或いは何日経過したのかは解からない。この場所は常に純白の世界なのだろうか、それとも世界から夜は無くなってしまったのだろうか、と錯覚したことは覚えていた。

 その視界に、赤色が割り込んできた。

 その赤色の正体は、赤っぽい髪にセーラー服を着た女の子で、つまり若かりし頃の薫さんだった。その時が初対面だった。薫さんが僕に何を言ったのかは覚えていない。けれど、何種類かの感情を混ぜたような複雑な表情だけは、覚えている。

 次の記憶では、僕は、時任家で暮らすようになっていた。

 その頃は何故なのかなんて気にもしていなかった。自分のことも他人のことも世界のことも、興味が無かったのだろう。だから、全ての記憶が希薄で脆弱だ。

 ただ解かったことは、僕は両親と一緒に交通事故に遭ったそうで、両親は死んでしまい、僕は助かったけれど記憶を喪ったってこと。それと僕の名前が藤川忍だってこと。そのくらいしかなかった。そして、それに対して思うことも、特に無かった。


 麻痺していたんだと思う。きっとどこかが。

 壊れているんだと思っていた。あの日まで。

 その呪縛を解いてくれたのは、奈月だった。


 小学校に転入して、しかし僕は矢張り何にも興味を持てず、よく一人で校庭の端に生えていた桜の木の根元に座っていた。

 そんな僕に話しかけてきたのが、奈月だった。

 その時の詳細は矢張り記憶にない。どうしてこんな所にいるの、とか、一緒に遊ぼう、とかだったと思う。奈月ならきっとそんな風に呼びかける。

 僕は返事を返さなかった。そうすることで、彼らはすぐに去って行くと経験で学んだから。

 けれど、奈月はしつこかった。いつまでもいつまでも隣にいて、ずっと僕に話しかけ続けていた。

 根負けしたのは僕だった。


「……どうして?」


 ――これが、僕の記憶にある最初の会話だ。


「それでねそれでね……、え?」


 ――いつまでも胸に焼き付く、原初の会話。


「どうして僕にはなしかけるの?」


 そう聞いた。僕にとっては最大の疑問だった。

 久々に発した言葉は掠れて小さかったけれど、奈月はちゃんと聞きとって、そして笑顔で、桜みたいな笑顔で、答えた。


「なんかこまっているみたいだったから! こまっている人がいたらたすけるのがとうぜんなんだよっ!」


 ――その時、世界が拓けた。

 その言葉。

 その笑顔。

 その彼女。

 青空と白雲、そして新緑の木の葉が視界で踊り、彼女はとても美しかった。

 初めて、美しいと、そう思ったんだ。




 大きく息を吐き、思考から醒める。

 あの幼き頃の誓い、「こまっている人がいたらたすける」。

 僕は今果たせているのだろうか。あの頃の自分に胸を張れるのだろうか。眼の前の小夜一人、満足に救えていないのに。

 きつく胸元を握り締めて、誓いを繰り返す。

 「こまっている人がいたらたすける」

 「こまっている人がいたらたすける」

 「こまっている人がいたらたすける」

 そうでないと、何かが溢れてきそうだから。

 寒風が耳元で吹き荒れる。

 夜は遅々として明けない。

 孤独こどく個毒こどく

 喪失そうしつ葬室そうしつ

 暗闇くらやみ昏病くらやみ

 静寂しじま死縞しじま

 不安ふあん歩暗ふあん

 恐怖きょうふ狂負きょうふ

 一人ひとりひとり。

 言葉が脳内を廻り廻る。

 意味のない言葉たちだ。

 「こまっている人がいたらたすける」。

 それが僕の誓い。

 これが僕の誓い。

 繰り返し、繰り返し。

 夜は遅々として明けない。

 我が家はもうすぐそこだった。


      ☨


 思えばあの時、僕は不安に包まれていたのかもしれない。

 今の日常を、或いは何か別のものを失って仕舞いそうな。

 そんな破滅めいた予感に。


 事実、穏やかを装っていた日常は今日を限りに終わりを告げ、新たなる世界が幕を開ける。

 全ては運命の廻り逢わせ。

 始まりはずっとムカシ。

 その行方は。

 その終焉は。

 今はまだ、誰も知らない。


      ☨





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