“モラトリアム” 内田裕基『ぼくは彼女のふりをする』
レビューでもなくおすすめ文でもないです。単に私はこういうふうに読んだという話をしたかっただけ。
ヒーロー文庫だけどなろう系ファンタジーではなくメディアワークス文庫的な立ち位置を狙っているのでしょうか。ちなみにメディアワークス文庫だとこの前書いた三秋縋の他に、野﨑まども好きです。読んだの少し前ですが野﨑まどの感想も急に書きたくなりました。
……まずい、「斬らない」が読書感想文コーナーになってしまう。
一応あらすじ。
中学二年生の主人公には双子の姉「ひかり」がいたが、「ひかり」は事故で死んでしまう。父は仕事で海外へ行ってしまい、母は事故のショックから主人公を認識せず、逆に「ひかり」が生きているかのようなふるまいをとる。主人公は「ひかり」の格好をしているときだけ母親に認識される。
また、「ひかり」の恰好をしている主人公に一目ぼれして来る野球部の立花。最初は突き放す主人公だったが、偶然もあって惹かれていってしまう。しかしこんな歪な状態が長く続くはずはなく……
前半は主人公一家の歪さ、母親のショック、それを受けた主人公の歪み、そして立花君とのなれそめ(?)などを積み重ねていき、後半それを全部破壊する、というような展開です。
(正直前半はそこまでおもしろくなくてやや流し読みましたが……)
今回は「ひかり」の恰好をしている主人公をモラトリアムの象徴だと思って読みました。別に何かに読み替える必要はないんですが、状況が特殊過ぎて読み替えないと感情移入出来ないところがあるんですよね。普通に読むと主人公に「は? 普通そこで女装しないだろ」て思ってしまう可能性があります。主人公は普通の状態じゃないからその選択をするんですけどね。
主人公が中学二年生で、「思春期」というのも一つのテーマなのでそんなに離れたものではないはず。
モラトリアムに置き換えて読むと、「期限が迫っている」「危うい均衡の上に成り立っている」「何とか出来るのは自分一人」「それでもその状況を守りたい」などの主人公の心情が結構理解出来ます。
ただ、「ひかり」状態の主人公をモラトリアムだと思って読むと、結局本当の自分というのはモラトリアムを抜けた先にいるので、絶賛モラトリアム中にいる私から見るとそれは辛かったりします。
ただ、主人公には一つだけ救い(←最近このワードが気に入っていて結構無限定に使ってしまっている)があって、立花君は「本当の自分」を見てくれています。それはモラトリアムの外へ一歩を踏み出すとき、一つの心の支えになるのではないでしょうか。
ラストシーンの書き方というのも、「成長して本物の自分を手に入れる」みたいなメッセージが読めるようになっています。
さて、それでは最後に。
今ここで立ち止まって悩んでいる私というのは所詮「通過点」や「まがい物」に過ぎないのでしょうか。皆さんはどう思われますか?