登校時間
(どうしよう…)
中学生になってまだ日が浅い僕は登校途中の道で、一目惚れしていた綾小路先輩に偶然会ってしまった。
会ったというか、僕が落とした定期入れを後ろから追いかけてきた綾小路先輩が手渡してくれたのだ。
彼とは一度顔を合わせた事があるだけで、それ以外なんの関わりもない。
しかし、拾い物をしてもらったからには無視するわけにはいかない。
綾小路先輩も僕の事を覚えてくれていたようで、僕たちはなんとなくそのまま並んで歩き出してしまった。
互いに口を開かないまま、ただただ前へと進む。学校までの距離が異様に長く感じた。
何か話した方がいいかもしれない。でも、何を話せばいいだろう。
なるべく顔に出さないようにしながら頭を回転させる。
無難に今日の天気の話? それでは会話が続かない。
好きな本や映画の話? 僕と綾小路先輩とでは趣味が違うかもしれない。
頭の中をひっくり返しても、いい話題が1つも見つからない。
それどころかどんどんわき道へ反れて、挙げ句の果てに真っ白になってしまった。
そうだ。別に話す義務なんてない。
そもそも、たまたま歩くスピードが同じなだけで一緒に登校しているつもりはないのかもしれない。
このまま学校まで歩いて、自然と昇降口で別れてしまえばいい。
「……今日はすごく暑いね」
考えるのを放棄した僕の横で綾小路先輩が突然口を開いた。
僕が真っ先に却下した無難な天気の話だった。
「え…あ…そうですね」
「……」
「……」
やっぱり。ああ良かった、僕から話し出さなくて。
安心すると同時に、会話を途切れさせてしまったことに対し、また胸がモヤモヤと焦りだす。
もっと気の効いた返しをした方が良かっただろうか。
やっぱり僕からも何か話した方がいいのだろうか。
でも。でも。
「……くふっ」
焦る僕の隣から小さく息が漏れる音がした。
ゆっくりと綾小路先輩を見上げてみると、口元がニヤニヤと緩んでいる。
怪訝そうな顔をして下から覗くと、彼と目が合った。
目が合うと同時に、綾小路先輩は突然笑い出してしまった。
「…あはははは!」
「綾小路先輩?」
「あー、なんか気まずいな」
あっけらかんと言い放つ綾小路先輩。
2人並んで一歩目を踏み出した時から僕が思っていた事だった。
「悪い悪い。僕ダメなんだよ、こういう空気。弱くてさ。あははは」
綾小路先輩は脇腹を抱えながら笑い出し、治まったと思ったらまた噴き出して、あははと声をあげる。それを繰り返していた。
「あー落ち着いてきた。ごめんね、貴博。僕、本当に弱いんだよ。
先生に怒られてる時とか、テストで教室がシーンとしてる時とか。笑っちゃいけないと思うと、余計におかしく感じてきちゃってさ」
右手でわき腹を擦り、左手で目の端に溜まった涙を拭きながら綾小路先輩が言った。
少し酸欠気味で乱れた呼吸の間から、物腰柔らかに言葉を並べる彼。
その話に耳を傾けながら僕は「分かります」と相づちを打った。
「貴博も分かる?」
「してはいけないと言われるほどしたくなってしまうのが人間というものなんですよ」
「そうなんだよね。こないだなんか…」
それから他愛もない話を繋ぎながら僕と綾小路先輩は歩いた。
彼が1人で笑ってくれていたおかげで、思ったよりも早く学校に着いた。
昇降口で綾小路先輩と別れると、さっきは真っ白だった頭が徐々に元に戻っていった。
ああ、あの話をすればよかったかもしれない、と次々にそれらしい話題が頭に浮かぶ。
けど、今更思い浮かんだってもう遅い。それでも不思議と後悔の気持ちは大きくなかった。
頭の中に残っている彼の笑い声につられて、僕も小さくふふっと笑った。